雨とコーヒー

 窓から見える空は、先ほどまでの青空と変わり、乳白色が広がっている。


 薄く灰色かがった空の下あたり。ぷるぷるっとゼリー状の空気が、ぽかりと浮かんでいるような気がする。





 ふる。




 そう思った時、糸のような雨が降りはじめた。遠くで雷鳴が聞こえる。


 とても美しい雨だった。

 まるで絵画の世界のような。




 軒下にあたる雨粒の音を聞いていると、思い出すシーンがある。


 ネイビーのパリッとしたスーツを着て、泣きながらコーヒーを淹れていた記憶だ。




 入社二年目の頃、ミカさんはどういう経緯か、秘書課に配属された。それも社長の秘書だった。


 今思い返しても、どういった人事だったのだろうと不思議に思う。けれど、ほぼ社会経験のない人物が、突然秘書なのだから、それはもう大変な事だった。


 そんな大変な時に新しい会長が天下ってきた。


 会長は、70代のおじいちゃんで、いわるゆる人だった。

 


 出社したらまず、秘書が熱いお茶をいれて持ってくる。

 十一時にはお昼ごはんは誰と、何を食べたいか伺う。食後は、コーヒー。ミルク、砂糖は入れない。

 十五時には、ブレイクタイムのおやつ。

 

 若手の社長と違って、であるミカさんに求める事が違い、会長秘書はとても苦痛だった。



 ある日、事件が起きる。

 コーヒーメーカー事件である。


 長い間「コーヒーをいれろ」という役員がいなかったから、秘書課のコーヒーメーカーが壊れていることに誰も気がつかなかった。



 新しい会長は、コーヒーをいれてこいと言う。だが、コーヒーメーカーは稼働しない。


 困ったミカさんの上司は、ドリップコーヒーを大量に買ってきた。

 勿論、会長は気に入らない。




 余らせたコーヒーを下げる日々が続いた。




 ──どうしたら、おいしいコーヒーを淹れられるのだろう。

 ──そもそも、私、コーヒーを淹れる為に、会社に入ったんだっけ?


 冷たく黒く濁ったコーヒーを捨てながら、涙ぐんだ。



 


 ある日、それはもう無心でコーヒーを淹れていた時の事だ。





 ぷすぷす  

 ぽつぽつぽつ




 なんの音だろう。ミカさんは手元を見た。



 コーヒー粉にお湯が染み渡っていく音だった。その後におとずれた、コーヒーのわきあがる深い香り。



 まるで、魔法にかけられたような一瞬の世界だった。





 もう一度、お湯を入れてみる。




 ぷすぷす

 ぽたぽた



 

 音と香りだけの世界が、そこにあった。


 心と頭が落ち着いていくのがわかる。コーヒーの音だけに集中する。




 とげとげしていた心が、凪いでいく。




 たったそれだけの出来事だったが、会長から「今日は味が違う」と言われた。


 

 その日を境に、ミカさんの中で仕事の仕方が変わったのは、確かだ。



 


 



 雷の音が近づいてくる。

 神秘的な音だ。


 ミカさんは台所の奥にしまってあるドリップコーヒーを取り出す。勿論、マグカップの上に広げて使うタイプの方だが。



 

 乾いたコーヒー粉に、最初にお湯を注ぐ時が、緊張する。



 ぷすぷす  

 ぷすぷす



 コーヒーが開いていく音がする。



 

 目の前の事に集中すると、見えてくる事がある。


 それは大抵、自分自身だ。


 静かな心で、向き合ってみる。忙しいと口に出してしまう時ほど、あえてじっくり時間をかけるべきだ。





 外では優しい雨が降っている。

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