森へ!

 ──大変、大変、大変なの。


 ミカさんは、小走りに夜の中を走っていた。


 ──早く、行かないと!


 星はぐるぐるとまわる。お月様は、ねずみにかじられたみたいに右上だけ欠けている。


 ミカさんは、なにもない一本道をただひたすらに走っていた。


 ──森へ!


 そう念じると、足元から青々とした草が生えてきて、両側からは白っぽい幹の木が覆いかぶさるようにメキメキとトンネルをつくった。

 やがてミカさんは、大木の前にたどり着いた。


 黄色い蝶がひらひらと目の前を飛んで、夜空へとのぼっていった。

 大木の根元には扉があって、ミカさんは迷わずその扉を開けた。



 扉の中は、森だった。




『あれ? この間も会った』


 草むらの中から声がして、旅人が起き上がった。頭や肩に青草や花びらがくっついている。



『会いにくるのが、早すぎないかい?』


 ──大変なの。


『そう。じゃあ、話しを聞こうか』


 旅人はそう言って、草の中から引っこ抜くように大きなギターを取り出して、音を奏で始めた。


 風の糸をひとつひとつ紡ぐような、繊細で深い音。ミカさんは、その音に誘われるように心の中に押しこめていた言葉を吐き出した。




 ──あのね、新しい環境になったでしょう? 四月になったの。それで、私、新しい仕事に就いたの。とても楽しくて、充実してる。


 ──だけどね、体はとっても疲れたの。こんなに幸せな機会を与えられているのに、体も、心も疲れたの。


 ──なんだか、変だよね。


 ──どうして元気がでないんだろう? 慣れないから? 緊張しているから?


 ──疲れちゃったけどね、休めないんだ。小さな命を育ててるから。


 ──手を抜いていいよって、言われたけれど。手の抜き方、力の抜き方がわからないんだ。


 ──私って、どうしてこんなに不器用なんだろ。


 ──あれもこれもやりたいことたくさん。でも、無理。



『無理じゃない』



 音が止んだ。

 旅人が手を止めて、初めてミカさんの言葉に口を挟んだ。



『無理って言っちゃだめだ』



 旅人はまっすぐにミカさんを見ている。

 旅人の目は長い前髪でよく見えないけれど、その視線は全てを見つめているようで、ミカさんは恥ずかしくなった。



『疲れたら、いつでもここにくるといい。体も心も無理はしちゃだめだ。ぼくが言いたいのはね、君の夢にむかって、君自身がというのは、よくないということさ』



 旅人はギターに置いた手元を見やって、再び音をゆっくり紡ぎ始めた。

 ミカさんもつられて、ギターに視線をやる。



『言葉というのはね、音だよ。音は響く。音は水のようにしみわたる。音は風のように入りこむ。だからね、君の体は、君の言葉を聞いているんだよ』



 ──ポジティブな言葉を使えってこと?



『いいや。たまには毒を出さないといけない。ずっとポジティブでいることは、それはそれでしんどい。ぼくが君に言いたいのは、君の可能性を、君自身でフタをしないでくれってことさ』



 ──わかったような、わからないような。でも、雰囲気わかった。



 ふっと、旅人が笑ったような気がして、ミカさんはうれしくなった。



 ──ねぇ、今日はよくしゃべるね。またお話ししてくれる?



『君がよければ』



 ミカさんは森の中で、旅人の奏でる音に耳をすませる。

 何日かぶりに安心して、目をつむり、眠りについた。

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