アクセサリーぼーん

 長く働いた会社を、三月末で退職する。

 色々あったなぁ、とミカさんは思い出に浸ってみる。


 前に働いていた会社と正反対な会社だったこと。

 パート社員だったから、気楽だったこと。

 ボーナスが出ない会社で、家計が瀕死だったこと。

 ネズミ捕りにひっかかったこと(ミカさんが)。

 あの有名な交差点を、ショッピングカートを押して疾走したこと(他店に返却するため)。



 ──ああ、そうそう。



 ミカさんは、手を開いて指をヒラヒラと動かした。



 ──ピンチがあったな。



 今となっては、懐かしい思い出である。

 


 ──金庫の扉に指を挟んで、爪がポロリととれて大変だったっけ?



 よく川や湖で「水が呼んでいる」といって入水してしまう事故を夏になると聞く。風などで揺れる水が「おいで、おいで」と手招きしているような錯覚を覚えるらしい。



 それとよく似ていた、とミカさんはあの時のことをふりかえる。



 ちょうど胸の下あたりの高さの金庫。ドッシリとしていて岩みたいに、会社の奥にひっそりとある。取手を持って扉を開けるにも、多少の力がいる。


 ミカさんは金庫から、社員情報を出して作業をしていた。


 扉を閉めるとき、確かに右手は金庫の取手をつかんでいた。けれども、左手は金庫の縁をつかんでいた。左手の親指は、下を向いている。


 ちょうど、扉と重なる位置に。



 ──なぜか?



 そんなこと、わからない。


 もう呼ばれたとしか思えない。

 猫が狭いところに入ってしまうように。

 幼子が穴に指を突っ込むように。


 ミカさんの指は、扉を閉めるときに金庫の縁を掴んでいたくなったのだろう。


(たぶん) 




 バッキャーーーン。



 聞いたことのない音が、左の親指から脳天まで響き渡った。目の前で火花が散って、フラッシュを浴びたような視界に包まれる。



 正気に戻った時はすでにしゃがみこんでいて、左手を抱えこみ痛みに耐えていた。



 ──またやってしまった……。



 これで三回目である。

 恐る恐る左手を押さえている、手を離す。

 

 右手が真っ赤な血で濡れていた。

 かわいそうに、左手の親指は爪がベコンと凹んで、紫色になっている。爪の両端だけが浮いていて、そこから血があふれでていた。


 ミカさんは、ハンカチで止血して指を冷やした。




 ──労災だ。


 ミカさんは人事の仕事もしていた。


 ──これは、労災。……けど。


 こんなアホか労災があるだろうか?

 ミカさんは、首を横にふってその考えを吹き飛ばす。



 ──私だけの労災にしておこう。


(私だけの労災とは一体なんだろうと今になって思うのだが、賢い読者様はきちんと労災申請してくださいね)






 ミカさんは、ずきずき痛みを訴える左手を抱えて病院へ行った。過去に同じあやまちをしたことがあったが、今回は確実に骨を折ったと思ったのだ。


「ああ、痛そうですね。えーっと」


 中年の医師は、カルテを二度見する。



「金庫に挟んじゃったの?」

「はい」

「金庫って、重いからねぇ」

「そうなんです」

「車の扉に挟んだりは、よくある話だけどねぇ。……金庫ねぇ」



 とりあえずレントゲン撮りましょう、という話になりミカさんはレントゲンを撮った。



「あー」


 レントゲン写真を見て、医師は声をあげた。やはり骨にヒビが入っているのだろうか。それとも、ポッキリと──。



「ああ」


 医師はレントゲン写真に向かってうなずいた。



「骨は問題ないですよ、よかったですね」

「よかったです」


 ミカさんはほっと一安心した。


「けどね、見てここ」


 医師はレントゲン写真を指差す。

 親指とは関係のない、薬指と小指の間にある手の甲あたりを、グルグルと円をかいて「ココ」と示す。



「普通の人間ならないはずの場所に、骨があるの」

「えっ?」

「ホラ」


 医師はなぜだかうれしそうだ。

 示された箇所を見ると、小指の爪先ほどの大きさの丸が写っている。



 ──これは、一体?



 密かに埋め込まれた、マイクロチップ?

 それとも、コリコリ軟骨?



 ──それよりも。



 普通の人間ならないはずの場所……。

   普通の人間なら……。

     普通の……。



       え……?



「痛くないの?」

 

 医師に聞かれて、ミカさんは我に返る。


「いえ、全く」


 こんな丸い骨があったことすら、知らなかった。


「じゃあ、大丈夫」


 ──大丈夫なんだ。



 ミカさんはポカンとしながらレントゲンが剥がされていくのを眺めていた。


「アクセサリーボーンっていうんだよ」


 医師はうれしそうに告げた。



『なーにが! アクセサリーボーンじゃ! 洒落た名前つけおって! テイ!』



 ミカさんの脳内で飼っている、しわがれジジイがワンカップを片手に文句を言っている。ミカさんもしたりとうなずく。



 ──本当に。アクセサリーボーンって、変な名前。



 病院を出て、ミカさんはため息を吐いた。

 左手の痛みより「普通の人間ならない場所にある骨」の方が気になってしまい、金庫で指を挟んだことなんてどうでもよくなってしまっていたのだった。






 きちんと指にくっついている爪を眺めながら、ミカさんは誓う。



 ──次の会社では、金庫に気をつけよう。

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