ハーブフォレスト
銭湯に来た。スーパー銭湯。
温泉の流れる細やかな音が、耳に心地よい。
家から遠くない場所にある銭湯にも関わらず、ここはどこか別の世界のような気がしてしまう。
否、とミカさんは落ち着いた心の中で思う。
日常の隣で、すぐに別世界に行ける場所は、ここしかないと思ってやって来たのだった。
時々、頭の中がギュウギュウになって、心も体もSOSを発している時がある。
一人になりたい。
音から離れたい。
どこかへ行ってしまいたい。
そう思ってしまう時期が、一ヶ月に一度は訪れる。ミカさんは、その時期をダークサイトと呼んでいる。
怨念のように、体と心にくっついて離れない闇。
──ダークサイトに落ちてなるものか!
ミカさんは、ミストサウナの扉を開け放った。
春を思わせる水滴と、ミルキーな白い霧。
一歩踏み出せばそこは、ハーブフォレスト。
木やハーブの香りがたちこめる霧の中を抜けると、小さな森にたどり着く。
鬱蒼と茂った森は、どこか懐かしい記憶を呼び起こす。
頬にさわやかなミストが降り注ぎ、肌の上で小さな珠をいくつもつくっている。
ミカさんは、まるで今のために用意されたかのような切り株に腰をおろした。
『やあ、また会ったね』
ミカさんは目の前にいる人物を見て、懐かしさに微笑んだ。
彼は、よく知っている人物だ。
何度も、何度もミカさんの夢に現れては、消えていく。
長い前髪に、ねずみ色のフードをかぶり、大きなギターを抱えている。
名前は知らないので、ミカさんはその人を旅人と密かに呼んでいる。ミカさんの夢に何度も現れるのは、きっと人の夢をわたる旅をしているからなのだろう。
『今日は、どうしたの?』
──ちょっと、疲れちゃって。
『そう。なら、静寂を味わっていくといい』
旅人はそう言って、ギターを横に置いた。ミカさんのことはそっちのけで、仰向けに寝っころがってしまう。
ミカさんは、大きく息を吸い込む。
鼻を通って、緑の新鮮な香りが体中に染み渡っていくのがわかる。
苦しくなるまで息を吸い込んで、口から息を吐き切った。吐き出すにちかい。
頭の中のごちゃごちゃや、整理のつかない感情たちが、ごそっと体から抜け出していくのがわかる。
何度目か繰り返すうちに、頭の隅にスペースが空いたのがわかった。この空間が、必要だったのだ。
この空間を手に入れるために、ここまで来なければいけない。
『やあ、頭のおしゃべりは終わったかい?』
──うん。いつもありがとう。
『ハーブフォレスト、これでお終い』
『またね』
扉が開く音がして、ミカさんは目を開ける。
おばさまたち二人がミストサウナに入ってきた。そこで初めて、喉の渇きを覚えて立ち上がる。
出口で立ち止まって、振り返る。
白い霧の向こう、旅人の姿はもちろんない。
彼は何者なのだろうか。
いつも必要な時に現れて、ただ隣に寄り添ってくれる存在。
「ハーブフォレスト、これでお終い」
つぶやいて、ミカさんは日常へ戻っていく。
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