アイがある方へ

 沈丁花の香りは、夕方から香る。


 なんだか、誘惑されているような気分になって、おいしいお酒が飲みたくなる。



 ミカさんは、今日も自転車をおしながら、橋のちょうど真ん中で立ち止まる。


 

 春の夕暮れはうつくしい。


 あわい薄むらさき色。桃色のパウダーをまぶしたような空。


 雲も風もみんな、沈んでいく太陽に吸い込まれていってしまうみたい。



「おいしいお酒が飲みたい」



 実際、お酒を飲む時間はないのだけれども。


 この一瞬の静かな時をすごしたら、保育園に息子を迎えに行って、夕飯の支度をして、洗濯物をたたんで、お風呂を準備して……。


 タスクはてんこ盛りである。



 けれども、ミカさんは悲観しない。


 多少、発狂して「みぎゃぁ」と叫ぶ時もあるけれど。



 ──旦那さんが手伝ってくれないから。

 ──子どもがいるから。

 ──どうして、私ばっかり。



 そんな気持ちはとうの昔に捨て去ることにした。



「ポイポイ! ポポポイ!」



 時折、むくむくと湧き上がってくるその感情も、間抜けな呪文と共にはるか後ろに投げ捨てるのだ。



「~だから」

「私ばっかり」



 そう思い続けていても、なにも変わらないし、気分は悪くなる一方だ。



 だから、なにをしたら気分がいい方へ向かうのかを考えるようにしている。



 ミカさんは、あまり頭が良くない。

 物事はシンプルな方が、いきやすい。


 ある人が言っていた。



「悩んだら、愛がある方を選ぶのよ」



 なんとシンプルで、わかりやすく、平和的なのだろう! 




 ミカさんは、その言葉が気に入っている。


 むずかしくないし、自分も周りも気持ちがいい。




 少し前のミカさんは、いつも仕事と家事と育児でイライラしていた。子どもも旦那さんも、ミカさんの顔色ばかりを伺っていた。



 そんな窮屈な生活は、もうたくさん!



 愛がある方を選択するのだ!






 ところで。




 ──愛ってなんでしょう?





 ミカさんは、偉大な神様を想像してみる。

 純白の服をきて、髪は長くて、強そうな顔つきをしている神様。

「よしよし、大変だったね。困っているんだね、助けてあげよう。神の愛でなんとかしてあげよう」


 ものすごく偉大そうな「愛」である。

 けど、たぶん、きっと神様はそんなこと言わない。そんなご都合主義じゃないと思う。



 ミカさんが考える愛とは、

 映画みたいな盛大で、立派な愛ではない。

 自己犠牲の愛でもない。

 


 心があったかくなるような、

 夕暮れ時の空のような、

 新生児のぷりぷりのおしりのような、

 ふと気がついた時に、ほほえんでしまうような、

 小さなことが愛なのだと、

 ミカさんは解釈するのである。

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