わたしとこころ

あらぱすりんこ

本文

彼に関する最初の記憶は放課後の空き教室だった。

背が高いな、というのが認識した後に思ったことで、その時はただの同級生にすぎなかった。

早く来たせいで周囲には彼以外に人はおらずーー居たとしても当時はまだ大して知っている人もいなかったがーー必然的に会話をするような流れになっていた。

「君も<処理>を受けるの?」

「そうだよ。そっちも?」

「もちろん。<処理>を受けたら、感情が得られるらしいし、俺も小説を理解出来るようになるのかな」

「どうだろうね。感情移入とやらが出来るようにかるんじゃない?」

「そうだといいな。他国の人みたいに感動とかしてみたい」

そう言って彼は口角を上げ、目を細めたーー外国の書物の力を借りるなら、彼は笑っていた。

「どう?笑うの上手いでしょ?」

「笑うがどんな心地かは知らないけれど、納得できるくらいには上手いと思う」

そんなことを話している間に周りにも生徒が集まってきて、白衣を着、眼鏡をかけた男性が教室に入ってきた。彼は簡単に挨拶をした後に、前の人から順に別室に案内をしていった。

私は先程話した彼の名前を聞いていなかった。


<処理>が終わった後は、何か身体に明確な変化が起こるかと思っていたが、そんなことは無く、大していつもと変わらない日々が過ぎていた。あれから1ヶ月、まだ風が冷たい輪郭を帯びている頃に、私はもう一度彼と出会うことになった。

1ヶ月後の定期検査で順番を待っていると、またもや近くの席に彼が現れた。

「やあ、しばらく」

「どうも」

「あれからどう?」

口角を上げた。

「特に何も。そっちも変わらず?」

私も口角を上げる。

「別に。...そういえば、名前、聞いてなかった。教えて貰ってもいい?」

「イェルカ。そっちは?」

「俺はガーユウ。よろしくね、イェルカ」


検査が終わり、昇降口に出るとガーユウがいた。その場の成り行きで2人で帰るような流れになった。

「今日俺は電車で帰るんだけど、イェルカは?」

「私もそうだよ」

「じゃあ帰ろうか」

学校から駅までの道のりを並んで歩いていると、何だか胸の下の辺りが微かに動くような、変な感覚がした。駅に着くまでずっとその事ばかり考えていた。どんな会話をしたのかはあまり覚えていない。

その変な感覚は駅に着いた後も続いていた。

「俺、次の駅で降りるよ。そっちは?」

「私は5つ目の駅で乗り換えるよ」

「そっか」

沈黙。

電車が来るまでの時間、それ以降は特に話さなかった。

やがて電車が来て、乗り込み、ドアが閉まる。

1駅という話をするには短く、ただ黙って乗るには長い時間も私たちは特に会話をせずに過ごした。先程の変な感覚は少し収まっていたものの、私は何故かガーユウを見ることが出来ず、隣の駅までが酷く長く感じられた。

「それじゃあ、ここで降りるね。じゃあね」

ドアが開き、彼が言った。

「うん、バイバイ」

彼に向かって手を振りーー物語の中ではよくそうした描写があるーー笑ってみた。

彼は降りる人波に揉まれ、こちらを向いてはいなかったが、確かに手を振っていた。


それから私は、電車に乗る度にガーユウの姿を探すようになった。といっても、あれ以来彼を見つけることはなかった。

毎朝、乗り込んだ列車内を見渡す際は胸の辺りが膨らんだようにふわふわとした感覚になる。見つからないとそれは萎み、膨らむ前よりも胸の中の質量が減ったような感じがする。いつも私の胸は空っぽになる。


教室は昨日よりますます賑やかになっていた。

ここ最近、クラスメイト達はやたら会話をするようになり、さらに2、3人程度で固まって動くようになった。

中学ではそんなことは無かったので、きっと<処理>の影響だろう。

「おはよう、イェルカ」

前の席のルウシュが話しかけてきた。

「おはよう」

彼女も最初はあまり喋らなかったが、1週間ほど前からよく喋るようになった人の1人だ。

「イェルカはさ、好きな人とかいないの?」

「好きな人?」

「うん。見たり話したりしてると胸がキュンキュンして、気がつくといつも考えてて、ドキドキする人!」

思い浮かんだのはガーユウだった。ただ、考えるのは電車に乗っている間だけだし、キュンキュンというオノマトペもよくわからない。もう少し分かりやすく表現してもらえないものだろうか。

「いないかな」

「えー、つまんない!」

「つまんない?」

「面白くない、ってこと。イェルカも、春に受けたんだよね?まだ効いてない感じ?」

一般的に、<処理>を受けると大体1ヶ月から2ヶ月の間に効果が現れ始めるそうだ。個人差があると言われているが、もうすぐ3ヶ月が経つのに特に変化のない私は中々に遅い方らしい。


夏も盛りの頃、私は授業の分からなかったところを先生に聞いた帰りに図書室に寄っていた。

茹だるような廊下と比べて図書室は幾分涼しい。絶えずゴウンゴウンと音を立てる空調機の音が聞こえるくらいに静まり返った本棚の間はいつまでも歩いていたくなるような場所だった。

近頃、小説に書かれているオノマトペが何となく理解出来るようになってきたが、未だにキュンキュンというのはよくわからない。

推理小説は数学とどこか似通った点が多く割と早い段階で理解出来るようになったが、その中でも主役の男と女が回りくどい会話をしているシーンや、「恋愛小説」と呼ばれるものは何が起きているのかさっぱりわからない。

そんなことを考えながら次に読む本を求めてふらついていると、ぬっと前に背の高い人影が現れた。

ガーユウだ。

「お、久しぶり」

彼は笑って小さく手を振った。胸の辺りがうごめくーーこの前と同じ。

「何を読みに来たの?」

「えっとね、推理小説。」

喉に何がつっかえるような感覚がして、妙に上擦った声が出る。

「推理小説読めるんだ。俺、トリックとか全然わからないから尊敬する」

「数学と似てるから、1度理解出来れば結構簡単だよ」

「そうなのか。ファンタジーとか読まない?ぶっ飛んだ魔法が出てくるやつとか」

ぶっ飛んだ?

「ぶっ飛んだ?」

「あー...えーと、予想もつかないような大きな効果のある魔法、みたいな?」

私の語彙はだいぶ偏っているようだ。ルウシュと話すときもそうだが、特に形容詞が理解できなくて苦労する。

以前のように何気ない会話をしながら、本を片手に昇降口に向かった。

昇降口を出ると、彼は私と逆の方向を向いて歩き出そうとした。

「あれ、電車じゃないんだ」

「ん、自転車で帰るよ」

「じゃあ、この前電車だったのはどうして?」

しばらく空を見つめた後、ぱっと顔を上げて彼は答えた。

「ああ、この前のは隣の駅で親と夕飯を食べたからだよ。普段は自転車、その方が近いし」

「そうなんだ」

急に蝉の声が聞こえてきた。

「それじゃあね」

「...ばいばい」

2人で歩くと思っていた道を1人で歩いた。長く感じるのは暑いからだろう。


「それでね、そしたらカレシがね」

ルウシュが目をきらきらさせながら嬉しそうに話す。

夏季休業が終わり、いつの間にやらルウシュは彼氏(カレシ)というものを作っていた。

彼氏、というのがよく分からないので聞いてみたら、一方が「付き合って下さい」と言い、もう一方が肯定的な返事をすると男子側は「彼氏」となり、女子側は「彼女」とやらになるそうだ。これは何の利益のための契約かと聞くと「ロマンがないわねー」と言われた。結局どういう事なのかは完全には理解出来ていない。

「…もーほんとにかっこよくってさ!って聞いてる?」

「あ、うん聞いてる」

「絶対聞いてなかったやつじゃん」

「聞いてた聞いてた」

「うそつけえー。ところでさ、そろそろイェルカも気になる人くらいはできたんじゃないの?」

「気になる人?」

「うん、まだ好きじゃないけど、良いかなーって人。ほら、ちらちら見ちゃうなあとかそういう人」

「うーん」

ちらちら見ちゃうというと駅で街頭演説している若手政治家も該当するが恐らくルウシュが求めているのはそういうことではないのだろう。

またもや思い浮かんだのはガーユウだった。でも、気になるかと言われるとそうでもないような気がしてくる。

「いないかな」

「その間は怪しい」

妙なところが鋭い。

「いないって」

「ぶう。イェルカにも春が来ないかな。好きな人がいるってだけで毎日楽しいよ〜?」

「楽しい?」

ルウシュははたとこちらを向いた。

「まさか楽しいが理解できない?」

「いや、わかる。数学の最後の問題が解ける時の感覚でしょ」

「んー、それとは違うかなあ。なんか、世界がきらきら輝いて見える感じ?イェルカも折角<処理>が受けられたんだから、効果が出てきたら恋を楽しみなよ〜!ああ早く会いたいなぁとか、もっと近づきたいなぁとか…はぁ〜!!」

途中から自分の世界に入り込んだルウシュを横目に、「好き」の感覚を考えていた。


誰かを好きになったことってある?、とある日の放課後に聞かれたとき、私は高いところから落下した時のように胸がひゅうひゅうとなった。

身体の震えに気付かれないように私はリュックの紐をぎゅっと握り締めて、ううん、ないかな、と答えた。

「そうだよなー。俺も好きって感覚がよくわかんないや」

「本を読んでも、記述が抽象的すぎて、わかんない」

そう言うとガーユウは大きく頷いた。

「わかる。それに、同じ好きでも色々と種類があるらしいよ」

「そもそも、わからないものの種類を説明されても、さっぱり」

わかるー、と彼は大きな声で空を仰ぎながら言った。そのまま私たちは昇降口で別れた。

くらくらふわふわする私の事などお構い無しに日が私を照らす。はっとして日傘を取り出したものの、暫くの間は眩しさに慣れた目のせいで視界が安定しなかった。

「…好きかなー」

ひとまず呟いてみた。形から入るというものだ。だからといって何か状況が変化するという訳でもなく。

「私って不適合者だったのかな」

誰に言うわけでもなく呟いた。その言葉はぽろりと足元を転がっていった。いつの間にか胸のひゅうひゅうという感覚は無くなっていた。


その日は雨の降り頻る朝だった。

私は雨をもたらす低気圧を呪いながらなんとか抵抗する髪の毛を押さえつけ、重い瞼と脚を慰めながら駅のホームに向かった。

本日大変混みあっております、次の電車をご利用くださいーーそんなアナウンスが繰り返し流れ、傘と人でごった返すホームの中を縫うように抜けていく。

1号車の3番ドア、ここが降りた先で階段に近い。この駅では階段から最も遠い1号車を好き好んで利用する人は少ないから、幾分呼吸がしやすい気がした。

間もなく列車は走り出し、雨粒に窓を引っかかれ、一定のリズムを刻みながら街並みを進んで行った。ドアが開いて閉まり、開いて閉まり、次に開いた時に乗り換えで降りた。

乗り換え先のホームは時間帯のせいもあってごった返していた。なんとか車内に入り、ふうと息を着いて辺りを見渡した。見つかるはずがないのに、いつもついつい探してしまう。今日もいつもの如く見当たらなかった。当たり前だけれど。


乗客が押し合いへしあい、何とか扉を閉めて列車が走り出した。あと5駅もあると思うと、時々途方もなく長い距離だなと思う時がある。

と、扉が開いた。

人がまたどっと入ってきた。

その中に、私は見つけた。

サラリーマンの中に紛れながらも、制服のせいでどこか異質な雰囲気を出している彼は、私と目が合うと、微かに目を見開き、いとも容易く人混みをするりと進み、近くまで寄ってきた。

「やっほ」

私はとてもよく似た誰か別の人かと思った。心臓が自己主張をし始め、お腹の辺りがぽかぽかとする。

「雨も人も凄いね」

けれど、彼はいつもそう言って笑うことを私はよく知っていた。

「…うん、大変だね」

返事をすると彼は満足気に目元を綻ばせ、首元をポリポリとかきなから窓に目をやった。

「今日は、自転車じゃないの?」

彼は少し上の方を見ながら答えた。

「あー、今日は雨だからさ、ほら、自転車だとめっちゃ濡れるじゃん」

「確かに…でも、今まで一度も会ってない」

「今日はたまたまいつもより早いのに乗れてさ。……これから電車で行く時はこの時間に乗ろうかな」

心臓の動きが速くなる。<処理>の効果がようやく現れてきたのかもしれない。

「そうして貰えると、嬉しい、かも」

そう言うと彼は微笑み、また窓の外を眺めた。私も同じように雨で見えない外を眺める。この感覚を、いつまでも味わっていたかった。


ーーああ!明日も雨、降らないかな?

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