武藤勇城のしくじり・失敗談「一番の友人を失った話」
武藤勇城
↓本編はこちらです↓
一番の友人を失った話
彼の事は仮に「T君」としましょう。丸顔で、子供の頃は「ゆで卵」なんてあだ名で呼ばれていました。
初めて会ったのはいつ頃だったでしょう。親の転勤で引っ越して来た転校生でした。転校時点では自分と別のクラスで、面識も接点もありませんでした。
五年生のクラス替えで同じ二組になりました。徒歩五分ほどだったでしょうか、T君の家に何度か遊びに行ったと思います。ただ昔の話ですので、何をして遊んだのかとか、どこに行ったかなど殆ど記憶にありません。幾つか覚えているのは、T君のお父さんに連れられて、近場のスキー場に遊びに行った事。うちに遊びに来たT君と家庭用ゲーム機で遊んだ事。スイカの種を顎の辺りに付けながら「桑田だ!」(昔プロ野球のジャイアンツにいた桑田真澄の真似)と言って笑いあった事。等々です。
そのT君は、六年生頃に再び親の転勤で引っ越してしまいました。お別れの挨拶にと、クラス全員にブランド物のハンカチを一枚ずつ配り、いずこかへ去って行きました。それを機にT君との接点がなくなり、長い間会う機会もありませんでした。
それから数年。高校生頃だったでしょうか。もしかしたらもう少し前だったかも知れません。母親の口からT君の話を聞きました。母親同士が仲良く、今でも交流があるとか。今度一緒に遊びに行かないかというような話でした。
小学校の頃に少し一緒だっただけで、もうすっかり忘れていた友達です。どうして良いのか分かりませんでしたが、結局遊びに行く事にしました。T君がどこに引っ越したのかも知りませんでしたが、隣町で、車で二十~三十分も行けば着くような近場でした。
それからは頻繁に、T君と遊ぶようになりました。音楽を聴いたり、ゲームをしたり、T君の家の裏にある池でオタマジャクシを追ったり、池の中にいる罪もない「敵」にBB弾の銃を撃ったり。カラオケやボーリングなどレジャー施設にもよく行きました。
初めのうちは自分が自転車でT君の家に遊びに行っていたと思います。自転車でも小一時間程度でした。T君が免許を取ってからは、T君が車で遊びに来るようになりました。T君の運転で、あちこち泊りがけの旅行にも行きました。温泉や海に行き、若さに任せて大はしゃぎ、羽目を外しました。
お酒が飲める年齢になると、たっぷり買い込んだ酒とつまみを我が家に持ち込んでは、時事ネタやスポーツの話を肴に飲み明かしました。外で飲む日もありました。毎週末、いつも一緒に出歩いて、会わない週はないほどでした。というのもT君は、自分の家に来やすいようにと、近くの職場を選んでいたのです。週末の仕事帰り、職場から直で遊びに来て泊って行く、そんなルーティーンが出来ていたと思います。
T君の事で知らない事はなく、自分の事でT君が知らない事はない。そのぐらいの関係で、一番の友人でした。お互いに結婚したら「子供同士も仲良くさせたい」「もし男の子と女の子だったら、許嫁にするのも良いかも知れない」とまで話し合った仲です。
その日は外の居酒屋で飲みました。自宅から徒歩十分ほど、駅近くにある焼き鳥屋。「焼き鳥」というのは名前だけで、実際は豚の串焼き屋です。T君の「常連の店を作りたい」という夢、というか願望から、割と頻繁に通った店です。いつも頼むのはビールやチューハイを数杯と、焼き鳥 (焼き豚) の串を適当に、あとはその日の気分でつまみを数皿。一人三千円から四千円ほどでしょうか。その時も大体同じような注文をしたと思います。
座席が二~三卓と、カウンター席が十人分程度。二十人も入れば満席になるような小さな店です。T君はいつもカウンターを選びました。勿論店の「大将」と仲良くなりたいという思いからです。世間話をする間に、大将や唯一の店員である「Kさん」も話に入ってくる程度には、仲良くなっていました。Kさんは年齢的にも近かったので、仕事上がりに遊びに誘って、一緒に飲んだ事もあります。宅飲みで数回、外でも数回飲んだでしょうか。あまり覚えていませんが、何度かはそういう機会があったと記憶しています。
その日は珍しく、大将の方から話を振ってきました。「武藤君にとって、T君はどういう存在なんだい?」そんな質問でした。自分は歴史が好きで、T君もそこそこ分かっています。なので自分は、シナ大陸の故事「史記」から、「管鮑の交わり」を改変した話をしました。
「生我者父母、知我者鮑子也」
「私を産んでくれたのは父と母だが、私を一番理解しているのは鮑叔である」
これを元にした話をしました。正確には覚えていませんが、要は、誰よりも自分を理解してくれる友人だと。そう言いたかったのです。ただ例えが悪かったのでしょう。父母の部分を、別の友人に改変して話しました。例えば「A君はT君より~が出来るし、B君は~が出来る。だけど~」というような形で。その最後の部分、みなまで聞かずに、T君ではなく大将が怒り出したのです。急に首根っこを掴まれ、店の外に放り出されました。「もう二度と来るな!」みたいに言われたと思います。
その日は訳も分からず家に帰り、「なんだアイツは!」とふて寝をしました。ですがT君は分かってくれると思っていました。翌日だったか、翌週だったでしょうか。自分のバイト先に、いつものようにT君が来ました。やっぱりT君は気にしていない、自分の言いたかった話を理解してくれていると思いました。しかし何か様子がヘンです。少し目が怒っているような?
バイトが終わり、T君の車に乗って家に帰る途中。車内でT君が言ったのは「この間、武藤君はオレに酷い事を言ったんだよ」そんな話でした。酷い事と言われても何の事かさっぱり分かりません。それからT君は続けました。「誰かと比べてオレが劣っているとか、どうとか」と。それを聞いてもピンと来ませんでした。別にT君を蔑むつもりで言った訳ではないし、実際にそこまで劣っているだとか、そんな風に思っていたわけでもなかったからです。最後の「我を知る者は鮑叔」、つまり「自分の事を誰よりも理解してくれている最高の友人だ」という部分を強調するための、取って付けたような話だったのですから。
その時は何だかよく分かりませんでしたが、兎に角、T君が怒っているので「ごめん」と謝って、飲みにも行かず別れたと思います。それから居酒屋の方に行って、眼鏡を壊されたので弁償してくれという話をしました。大将は「そんな話なら聞かない」と取り合ってくれません。訴えれば器物損壊で賠償ぐらいしてくれたでしょうが、たかだか数万円の眼鏡で裁判を起こす気にもならず、泣き寝入りしました。その後、あの居酒屋に行った事は一度もありません。
T君とは、それから電話で話をしました。自分は「もう先日の件は水に流さないか」という意味合いで、「全部チャラにしよう」という事を言いました。「酒中別人」これもシナ大陸の故事です。しかしT君の方はまだ頭に血が上っていたのでしょうか。自分に信頼を裏切られた、というような思いがあったのかも知れません。自分の言葉を、もう友人関係をやめよう、全てなかった事にしよう、と受け取ったようです。ここでも気持ちがすれ違ってしまいました。
更に悪い事に、T君は自分の性格をよく知っています。自分は「こう」と決めたらテコでも動かない頑固な性格だと。だから、その後は「今まで、何回車に乗って送ったとか、何回家に泊まったとか、貸し借りはあるか」というような話をして「お互い何一つ貸し借りはない」という結論になり。トントン拍子で別れ話が進みました。以降、T君がうちに遊びに来る事も、自分が遊びに行く事もなくなりました。
きっかけは酒の席での、ちょっとした失敗、言葉のすれ違い、些細な行き違いでした。それから少しずつ、お互いの気持ちがズレてしまいました。こうして自分は最高の友人を失いました。皆さんも酒の席では、どうぞお気を付け下さい。
風の噂でT君は結婚して家庭を築いたと聞きました。子供もいるようですが、当然許嫁はいません。小学校の頃T君に貰ったKENZOのハンカチは、何度も洗ってよれよれになってしまいましたが、今でも大切に使っています。
武藤勇城のしくじり・失敗談「一番の友人を失った話」 武藤勇城 @k-d-k-w-yoro
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます