第8話

「千和っ、起きてる?」

 翌朝。ドンドンと叩かれる騒がしさに、うっすらと目を開ける。カーテンの隙間からは白い光が零れていた。

「なによ……」

「ちょっとニュース見てよ! 大変」

 手を引かれるままリビングに連れていかれる。既に朝のニュースが点けられており、テーブルには和泉のカフェオレが置いてあった。乱れた髪をかき上げる。

「ほらこれ」

「ん?」

『――加美山容疑者は京月組関係者へ暴行を加えたとして身柄を拘束されました。また、他にも余罪があるとして捜査が続いています。加美山コンツェルンの総取締役である加美山容疑者が逮捕されたことにより、経済界が混乱に陥ると思われます――』

 ニュースキャスターが淡々と原稿を読み上げる。

これはまさしく自分のことだ。しかし千和には遠い世界の話に聞こえていた。コメンテーターの学者らも騒がしくしていることから、中々に大事なのだとぼんやり考えた。

「昨日、千和をさらったのは加美山だってことは仁さんから聞いてたけど、ここまで大事になるとは思わなかった。また権力でもみ消されるのかと思ったけど、ここまでスムーズに事が進むなんて……」

「……いい気味だよ」

 千和はテレビに映される加美山をじっと見つめた。画面越しの対面がこんなに早くなるとは思わなかった。加美山は乗せられた車を取り囲む記者団に臆することなく、ただ前を強気に見つめていた。すぐに釈放されることが分かっているのだろうか、その表情が憎たらしかった。

「でね、もう一つ驚きの事があって……」

「もう何が来ても驚かないよ」

「別のニュース見てた時にもこの話が流れたんだけど、そこで言われてたのが、『京月組の関係者』じゃなくて、『京月組専務の婚約者』って……」

「……え?」

 千和は今度こそ耳を疑って和泉の顔を見つめた。和泉も訳が分からないという顔で千和を見つめ返す。

「千和……のこと? だよね?」

「いや……他にさらわれてた人がいたのかな?」

「いやでもだって、助けが来たのは千和だけなんだよね」

「うん……確かに私だけだったな……」

「千和、いつ仁さんと婚約したの?」

「してないよっっ⁉ どういうこと⁉」

 千和にとっては加美山の件よりも、こちらの方が重大だった。思いもよらないことが世間に報道されている。名前は明かされていないが、昨夜の事件とすり合わせれば、つまるところ自分だとしか思えない。しかし混乱が頬を赤くする暇さえ与えない。

「――あ」

「ん?」

 するとその時、ピンとくるものがあった。

「指輪……」

「指輪? あの、仁さんから着けておけって言われてたやつ?」

「そうそれ……渡された時は本当に護身用だと思ってたけど、そのあと仁さんが結婚云々って話を勝手にしてて……」

「え、それじゃん」

「いやいやでも、ただの世間話かと思ってたし、私に関係するような話じゃなかったし、大した反応はしてなかったんだけど……この話が本当だったらどうしよう、どうしたらいいっ⁉」

「――ふふっ」

 慌てふためく千和を見て、和泉が不意に笑った。それを見逃す千和ではない。

「なに笑ってんのよ」

「いやだって、久々に千和っぽいなって。最近なんか常に気張ってたし、大学で仁さんの授業受けてた時の元気な千和って感じ」

 依然としてくすくすしている和泉に不満を覚えつつも、確かにここまで気が緩んだのはいつぶりだろうと思う。

「笑い事じゃないんだから……これはちゃんと確認取らないとダメ。というより私的に放置はツライ! 心臓もたない」

 千和は部屋にとんぼ返りするとそのままスマホにかじりつく。連絡したのは鷲田。仁と会えないかとアポを取るためである。その返答を待つ間は、異常なほど長い時間に感じた。





 二日後。

 加美山の後処理で忙しいという理由で、仁との面会はお預けをくらっていた。その間に婚約者問題の熱もあらかた冷め、千和も落ち着きを取り戻していた。

 しかしながら、いざ彼を目の前にすると、どうしても動悸が始まってしまうのであった。

「あの……」

「話があると聞いた。護衛の用事がないのに鷲田を使い、わざわざ来るほどの話だと」

「それは……すみません」

いささか圧の強い出だしに千和はしゅんと小さくなる。これまでで自ら声をかけたのは初めてだ。あまりに思い上がった行動だったかもしれないと今度は冷や汗をかき始める。

「いや、いい。こちらとしても話はあったから」

 座りなさい、と向かい合わせのソファに促される。かつて和泉と座ったあのソファだ。かなり遠い昔にも思える。

「まずは俺から話そう。加美山のことだ。君には中々あくどい事をした。君の雇用者として許せる範疇ではない。だから立件にまでこぎつけた。だがその代償として、千和を解雇することが決まった」

「……。え」

唐突なことに言葉もない。混乱で息が浅くなる。

望んでいた仕事ではないとはいえ、仁の役に立てていると思えば悪い気はしていなかった。

「急なことで申し訳ない。理事会の決定でね。君は目立ちすぎると」

「そう、ですか……」

 この組の理事会に意義を申し立てるほど、千和だって無知ではない。ただ無力な者は上に従うしかない。しかし不思議な喪失感が胸に広がっていた。まるで割れた花瓶から水が零れ出るようであった。

「それと、お詫びと言ってはなんだが一つ提案がある」

「……はい」

 千和が上の空で返事をすると、仁は不意に立ち上がった。一度机に戻ると何か小さいものを手に戻る。それは以前も見たような薄紫色の箱。

 箱が開けられて、千和は目を見張った。そこには加美山に奪われたあの指輪が入っていた。

「染原千和、私の妻にならないか」

「…………は、え?」

 そう言う様はまるで日常会話の一部のようで、千和は純粋に戸惑って仁を見返した。一体どういうつもりなのかという思いだけが体中を駆け巡る。

「前にこれを渡した時、時間がかかったと言ったが、それは特別に仕立てたからだ。それと、この指輪にまつわる話は嘘だ」

「嘘……」

「京月組の女云々の話だ、あれは虚構、作り話。つまり、これを持つ権利があるのは千和だけだ。オリジナルだからな」

 千和は言葉に詰まってしまって、ただ口をパクパクさせることしかできない。指輪と仁を交互に見やる。

「ここで即座に返事をしろとはいわない。考えるべきことは少なくないだろう。もし心が決まれば、もう一度俺のところに来て、返事を聞かせてほしい」

「……えっと……その、はい……」

 千和はとりあえず頷いた。ここで仁の言葉を振り切れるほど無欲ではなかったし、即決できるほどの度胸も持ち合わせていなかった。

「それと、千和からも話があるんじゃなかったか?」

「あぁ……その、仁さんと同じような話で……テレビのニュースが、私の事を婚約者って報道していて……」

「あぁ。それは俺が指示した」

「えっ」

 真犯人の登場に千和はこれでもかと目を丸くする。この人には先程から驚かされてばかりである。

「加美山の息が強くかかっていたマスコミを掌握することができたからな。そうする方が信憑性が高いと踏んだ」

「……そのニュース、この話を聞く前だったんですけど」

「それはすまなかった。気持ちが先走ったということにしておいてくれ」

「…………」

 それは仁の本心なのか、方便なのか、それは千和には見抜けなかった。





「仁さんにプロポーズされたぁぁぁ⁉」

 その報告を聞き、和泉は案の定驚いた。そして正座し、ブツブツ話し始める。

「仁さん……京月仁。モガリで大学教授で、四十代で、お金持ちで権力者で大人の男……」

「何言ってるの……」

「よくいうじゃん、そういうのは好物件だって」

「仁さんのこと好物件だと思うの?」

 色恋沙汰には疎い千和。和泉がそんな知識を持っていたことに少なからず驚いたが、それを表に出す暇は無かった。

「それはもう。一生暮らしには困らないだろうね」

「私が困らなくても、和泉は?」

「俺は……なんとか生きるさ」

「それはダメ。お母さんが死んだときに決めたでしょ。二人で生き抜くって」

 千和はぴしゃりと言い切った。ストーカーの放火で家が燃えたあの日、自分たちは必ず生き抜くと誓った。それを自分の都合で破る気は早々なかった。

「それは、そうだけど……でも、大人になるってことは自立するってことだから。俺だっていつまでも千和に頼りっきりじゃダメだと思うんだ。今後起こるかもしれないライフイベントも考えたら、自立は無視できない」

「でも――」

「千和こそ、仁さんのこと好きなんだから、ここで幸せ逃しちゃ一生後悔するよ」

「す、好きなんてそんな大それたこと……! 第一すっごい年離れてるし? こんな普通の生活してる私がモガリの世界で生きていけると思う?」

 護衛が精々だよと千和は独り言ちる。好意があると明言したのはこれが初めてのことである。心にわだかまっていた無形の穏やかな気持ちが好意かどうか、今まで判断することさえできていなかった。だがその胸の高鳴りと、徐々に紅潮していく頬がその正解を物語っていた。

「よし、分かった」

「なに」

「千和お得意の契約だよ。いきなり結婚はしない、まずはお付き合いから。これ交際の鉄板」

 指を立てて物知り顔で言う。まるでいつかのドラマで見た恋愛指南役である。

「はぁ……でもそんなこと言ったら、仁さんにお似合いの女性なんてわんさか湧いて来るよ」

 仁の母は彼に早く結婚させたいらしい。それを鑑みるとお見合いということもあるかもしれない。そうなれば千和としても勝ち目がないことくらい肌で感じる。

「そうでもないと思うな。だって千和専用に指輪作ってなんだかんだと世話を焼いてくれるくらいなんだから、千和はきっと特別だよ」

「特別……」

「というかそもそも千和、結婚のイメージ湧いてないでしょ? 俺もよく分かってないけど、第一、仁さんは教授だからね? 在学中に千和の名字が変わったら不審がられるよ」

「あ、それもそうか……あの名字珍しいもんなぁ」

「だから、最低卒業するまでは仁さんとお付き合いして距離を詰める。で、卒業したら結婚について本格的に考える。とかでどう?」

「うーん、それなら色々落ち着いて考えられるかも……?」

 でしょ、と和泉は物知り顔で頷いた。話がとんとん拍子に進んで行く。頭の回る弟の口車に乗せられている気がしなくもないが、千和の頭は詳細を考えられるほど穏やかではない。

「それにしても、千和に彼氏かー! まぁ彼氏って呼ぶには恐れ多いけど……」

「……でもだよ? 仁さんほどの人がなんで私を気に入るわけ?」

 唯一語源化できた質問であり、ずっと疑問に思っていたことである。

あの世界にはあらゆる人種がいる。きっとどこかの令嬢や、千和のように粗暴でない女性との出会いはいくらでもあるはずだ。そして自分のような若造ではなく、背伸びをしなくてもシックな黒のドレスを着こなせる大人の女性がいるはずだ。

「唯一勝てること……きっとどうせ、外見だよね」

 千和はそっと下を向いた。いままでもこれからも、自分に声をかけて来るのは、この見た目に惹かれた上辺の人間だけ。だがそれもそうだと思う。そもそも自ら周囲との付き合いを絶っているのだから、中身を見てもらう隙などない。

「何言ってんのさ」

「…………」

「自分じゃ気づいてないだろうけど、千和いいとこあるよ。自分の芯が強いところとか、背中がカッコいいところとか。優柔不断じゃないところとか。素直で真面目なところとかね。モガリの世界とは反する要素をいっぱい持ってるからこそ、仁さんは惹かれたんじゃないの? 例え、初めが外見からだったとしてもね」

 仁さんの本心は分からないけど、と和泉は言い切った。

しばらく千和はポカンと口を開けていた。実の弟から本音を聞くのはいささかむず痒い。

 そして和泉は最後の追撃とばかりに付け足した。

「それに、俺としては千和が千和の思う人生を生きて欲しいと思ってるよ。今まで千和の時間を奪ってきたようなものだし……これだけ傍にいてもらって無責任かもしれないけど、俺も自分が自立することが千和への孝行だと思ってる」




「よく来たね」

 あの日から一週間以上経った。和泉に相談してからもかなりの日数を一人で考えていた。自分の人生、そして今の気持ちについて。

「先日のこと、お話があります」

「聞こう」

 いつもの椅子で向かい合わせる。こんな話題にも余裕ありげな仁と、表情を強張らせる千和。部屋のダウンライトが正反対の二人を静かに照らした。

「私はまだ学生です。恋愛のことも、結婚のこともよく知らない。世間の人間よりも疎い自覚はあります。そして、あなたのことも、私は分かっていない。だから……この前のお話はお断りさせてください」

「……ほう」

「私はボディーガードです。和泉の、そしてあなたの。そうでない私は私じゃありません。なので、あなたの側にいられるなら、ボディーガードとして」

 仁はすっと目を細めた。

緊張に震えているらしい彼女の小さい手を見て、やはり素晴らしいと内心で微笑んだ。権力と己の欲を求めない清々しさ、自らを貫き通す芯の強さ。自らが叶わなかった人生がそこにある。

「分かった」

 その短い一言に、千和はようやく彼を見た。その弱々しい視線を受けて、仁の心臓がとくりと動く。

「理事会の決定は俺が覆す」

「えっ」

 これでもかと丸くなった目からは、至極の宝石が零れそうだった。見る度に豊かになる彼女の表情はこれ以上ない褒美である。これからもそれを見ていたい。諦めるなど当初から頭になかったことだ。

「そんなことは朝飯前だ。俺の権力に勝るものなど無い。千和、一緒に来い。改めて、仕事だ。理事会への護衛を頼む」

「――はいっ」

 弾む返事で千和は立ち上がった。

何者にも屈折しない真っ直ぐな光は、足取り確かに乱反射する世界に歩んでいく。

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ネオンとコスモス 烏乃 @karasuno-k

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