第7話

 翌日。降る雨が湿度を上げて、不快な空気を作り出している。地面で跳ね返る雨粒が靴と裾を濡らすのが煩わしかった。

 千和と和泉は傘を差してスーパーに赴いていた。昨日の宣言通り、今日ばかりは呼び出しはないはずだ。心行くまで我が家の冷蔵庫のことを考えられる。

「ねぇ千和、一つお願いがあってさ」

「なに」

「俺、一人で買い物してみたいんだよね」

えッと千和は鋭く驚いた。一体どういう風の吹き回しかと、和泉の顔をまじまじ見つめた。そして和泉はそんな千和を大きな目で見つめ返す。

「ちょっとそんな顔で見ないでよ、穴開きそう。だってさ、昨日千和から京月組に勧誘されたって話聞いて、確かにと思うこともあったんだよ。俺は一人じゃ何もできない。きっと働くことも難しいし、それなら買い物だって無理、というか一人でしたことない。だから、本当に俺が一人でいたら何事かに巻き込まれちゃうのかどうかを実験してみようと思ってさ」

「そんな仁さんの言うこと真に受けなくても」

「でも千和だってそう思ったんでしょ? だから僕に話した。だって千和ってば、自分が納得したことしか口に出さないもの」

 千和はうっと面食らう。昨日に引き続き無自覚な部分が見抜かれたが、確かにそうだ。四六時中一緒に生きているだけある。

「だから、千和はスーパーの入り口で待っててよ。。俺が一通りの買い物してみる。圧がすごいから、付いて来るの禁止ね」

「圧がすごいってどういう意味よ」

「誤解しないでよ、厄介事が逃げちゃうってこと」

 しばらくして常連のスーパーに辿り着く。使いまわしている内の一店舗だ。家からは少し距離のある店は、そこまで大きい店舗ではない。ある程度の品が満足にそろう程度だ。

 そして和泉は慣れた様子で店内へ消えて行った。

 残された千和は少し唇を曲げて、和泉の消えた先をしばらく見つめていた。店内で待つことはせず、傘も閉じずに待つことにした。傘に当たる騒がしい雨音を聞いていたい気分だった。

 一人で外にいることは珍しい。和泉がいなければ自分は一体何なのか。どういう人生を歩み、生き抜いていたのだろうか。ふとそう思う時がある。今もそんな思いが胸に去来した。と同時に、右手に光る指輪が千和の気を引いた。昨日もらってからはそのままにしていた。常に着けていろと言われたからだが、普段装飾品など着けない身からすれば慣れないことだった。そのお陰か、今もこうして目に入っている。

 すると目の前に黒い車が止まった。千和の姿を隠すようないかにも大きいワゴン車だ。いかにも意味深で咄嗟に嫌な予感がした。

 傘を放り投げて店内に逃げ込もうとするが、塞がれる。ベンチに座っていたらしい見張りか。出入口を塞ぐように先回りされていた。そして車からは黒服と普段着を着た男たち。既に近距離で包囲されている。

「――っ⁉」

 そして何かを顔に吹きかけられた。苦しくて咳き込む。

 その隙に軽々と抱えられ、男たちは慣れた手つきで千和を確保した。そして車に引きずり込む。抵抗する隙を与えない辺り、彼らのレベルが高いのだろう。

 車内に放り込まれ、口ぐるわを噛まされる。次いで意識が朦朧としてきた。体に力も入らない。

 最後のまばたきの間に、出入り口に目を止めた。和泉はいない。きっと呑気に買い物をしているのだろう。

 どうか、気づいて。仁さんに、連絡を。

 揺れる車内に体を横たえて、千和は意識を手放した。





 しばらくして目が覚めた。

 吹きかけられたもののせいだろうか。頭が少しクラクラする。いくばくか前にも似た経験をした気がする。なぜ短期間でこうも同じことが起きるのかと千和は半ば呆れてため息をついた。

 周囲は瀟洒な造りの部屋だった。そして自分は雲のような反発あるベッドの上に寝かされている。しかも昨日見たような天蓋付きだ。

 気味の悪さに顔をしかめる。

 こんな手荒な真似をするのは京月組ではない。第一こんなことをする必要もない。ということは、現在の宿敵である加美山が有力な犯人だ。連日の仁との行動に業を煮やしたのだろうか。

 ひとまずベッドを降りようとして気が付いた。両手に自由が無い。そしてよく見れば指輪も無い。勝手に外されたのだろう。はぁと再びため息が出る。となれば、きっとスマホなど持ち物諸々も取られているのだろう。まさにわが身一つというやつだ。

 十畳ほどのこの部屋には、ベッドのみがど真ん中に置かれていた。やけに広く、不気味に見える。助けを求められるような窓もない。

 幸い足が自由なので部屋を歩き回ってみた。裸足にされている。床には高級そうな足触りのいい絨毯が敷かれていた。

 部屋を探索しながらも、和泉を案じる心は消えなかった。あの後一人で一体どうしただろう。さすがに緊急事態だと気が付くはず。あとは和泉の危機管理能力に任せるしかない。

 これ以上考えても焦燥感に心がすり減るだけだ。

 そして千和は唇を噛んだ。壁に二つ、ベッドの脚に一つ、天蓋の柱に一つ、監視カメラを見つけた。壊せる雰囲気ではない。常にどの角度からも監視されているようだ。このカメラの奥に誰がいるのか、どんな顔でこちらを見ているのか。それはもはや想像に難くなかった。

 もちろん唯一あるドアには鍵がかかっている。というより、そもそも内側にドアノブが無かった。簡単には出すつもりはないようだ。

 このいかにも監禁用の部屋の中で一体どうするべきか。どうしようもなくなって天蓋を見上げた。そして嫌なことに気が付いた。天蓋の赤の中心に不釣り合いな黒い丸がある。立ち上がってみると、なるほど、カメラだ。部屋中に仕掛けられているのと同じ監視カメラ。隠す気もなく堂々としたものだ。こんなところまで映しだそうとは、趣味の悪さに口も曲がる。

 手持無沙汰に知恵の輪気分で手枷をいじる。もう半ばやけを起こしそうだった。優しく、激しくいじるが外れたりはしない。これは知恵の輪ではないから。

 すると静かに無機質な音が聞こえた。そして壁に少しの隙間ができた。外へ繋がる鍵が開いたらしい。カチャという馴染んだ音ではなく、電子的な、耳馴染みのないものだった。

 千和は瞬時にベッドを降り、身構える。今は足だけが頼りだ。地面にいた方がいい。

 ドアが開いて現れたのは、やはりというか、加美山だった。

 以前に見たまま、豊かに蓄えたひげと皺のない鋭い眼光。ゆとりなくきっちり着たスーツが威厳を出している。

「美しいお嬢さん、ようこそ我が屋敷へ」

 年の割に若い声で加美山が言う。千和は憎々しさを隠そうともしないで睨んだ。

「私は望んでいないんだけど」

「私が望んだのだ。だから君がここにいる」

「随分自分勝手なこと」

「この世界は既成事実が全てなんだ。意志も手段も順序も、事実には劣る。今君は私の手の中にいる。この事実が大切なんだよ。……それにしても京月の若頭は君を相当気に入っているようだ」

 その言葉に千和のまぶたがぴくりと動いた。加美山は仁の事を相当気にかけている。ここまでの暴挙に出たということは、この二日間の工作にしびれを切らしたのだろうか。目の前の狂人もまた欲に飲まれた憐れな存在ということだ。

「……だとしたら、あなたは無事では済まないんじゃないの?」

「それはそうだ。だがそんなの、私のコンツェルンの手にかかれば造作もないことだ」

「じゃあ私がここを抜け出したって事実があれば、それも正当化されるわけね」

「もちろん。それができればの話、だけどね」

 千和の減らず口にも臆することなく、加美山は笑みを隠そうともせず千和を観察する。ニヤニヤともニコニコとも言えない、気持ちを逆撫でるような表情だ。

「染原千和くん。逸材だね、本当に」

「……それはどうも」

「その美貌に、類を見ない強さ、そして空っぽな中身」

「……空っぽ?」

 千和は怪訝そうに繰り返す。誰もが振り向く外見と腕っぷしの強さは今まで嫌と言うほど賞賛されてきたし、多少の自覚もあった。しかし空っぽとは何事か。自分には和泉がいる。それに、少し前にもどこかで聞いたような評価だった。

 加美山は千和の反応に目を細めた。

「自覚がないのか」

「どういうこと」

「なに、もう気にすることはない。君はもう私の物なのだから、透明に輝くその洞に、私の色を注ごう」

 加美山がゆっくりと近づく。自由が無いのをいいことに何か行動するつもりなのだろうか。千和は距離を取りながらも隙を見定める。彼が入室して来た時、鍵は開けられていた。そこまで行ければこの部屋を出られる。

「――この部屋はオートロックなんだ」

「……っ⁉」

 動いた目線の先を悟られた。意外と鋭い洞察力にこの男の底知れ無さを感じ始めていた。

「だから扉まで行こうとも、ここからは出られない。ちなみにこちら側からも開けられない。君はずっと私の手の中だ。素敵だと思わないか? 美しく若々しいまま、君をここで見続けられる」

「……清々しいくらい狂ってる」

「聡い君だ、見つけたろう、この部屋にある監視カメラを? 君がカメラを見つけて睨むたび、私の心は激しく震えた。酷い動悸だった。そのまま命が尽きそうなくらい……!」

「尽きればよかったのに」

「刺々しい、実に。でもその方が楽しい。穢れが無く高潔で鋭く、着飾っているものを自分の手で壊す快感。それがたまらなく好きなんだ」

 仁の言っていた通り、いやそれ以上に狂気じみた内面に千和の肌は粟立っていた。この様子では同じようなことを何度も繰り返しているのだろう。手慣れた手段にも納得がいく。

「奪ってまで欲を満たすこと、どれほどの背徳感かわかるか? 清い君はまだ知らないだろう、いや、今後も知る由はなかったはずだ。ここに来なければね」

 ついに部屋の隅に追い詰められる。すぐに動けるよう、構えは崩さない。唯一動く足を繰り出していいものか、虎視眈々と状況を見極める。

「そんなに怖い顔をするな。しかし、歪んでも美しいな、君は」

「それはどーも」

 するとその一瞬で空気が変わった。ハッと気づいた時には首を掴まれていた。

「………ッ」

「あぁ、口のきき方がなっていないな、こんな美しい口なんだ、美しい言葉を使ってもらわないと。私が喜ぶさえずりを聞かせて欲しいものだ……あぁあぁ。私が直々に再教育しよう、全てをね」

「は……ッ」

 年齢の割に強い力に千和の体が震える。混乱の中、咄嗟に放った蹴りも簡単に止められた。

「足癖も悪いようだ。最悪切り落とそう。なに、手段はいくらでもある。足が無くとも十分暮らせる設備もね。それに、足が無いと逃げようとも思わなくなるだろう。ああ、それがいい」

 そして不意に手が離される。重力にひかれるまま、千和は床にうずくまった。毛足の長い絨毯は千和を優しく受け止めてはくれなかった。

「は……っ……はッ」

 急いで酸素を取り込む。首をきつく締められた経験などない。視界の狭窄がようやく収まってきた。

「美しさが歪む姿は至高品だ。実に素晴らしい、美味だった。さて、君のために美しい衣装を用意した。ぜひ着飾ってくれ」

 加美山が手を伸ばした先に、いつの間にか漆黒のタイトドレスがそこにあった。以前の会合で千和が着ていたようなものである。

「誰が、こんなの……」

「ああ先に伝えておくが」

 加美山はくるりと背を向けると演説のように高らかに話し始めた。

「この部屋は私の手足のごとく自由に動かすことができる。監視カメラもそうだが、鍵の施錠、空気圧の調整、温度の調整にいたるまで、私の手の内だ。つまり君を苦しめることも、その反対も私次第」

「…………」

 得意満面な加美山を千和はただ忌々しそうに睨むことしかできない。

「おやおや、威勢のよさはどこに行ったのかな。染原嬢」

「……手、取りなさいよ。着替えられないでしょう」

「それでいい」

 加美山は意地悪く笑むと、手枷を外してやる。自由になった手で殴りかかりたい千和だが、部屋の仕組みを解説された今ではそれも考えものである。

「ここにいる気?」

「いてはいけないかね?」

「出て行って。監視カメラでも好きに見れば」

「仕方ない、君の純情に免じて、今回は従って差し上げようか」

 満足気な表情を崩さないままに、加美山はドアの隙間から退室した。ちらりと見えた奥は暗闇で、何も情報は得られなかった。

 残された千和はキッと服を睨む。見るからに動きにくそうなタイトさ、そしてやたらと長い裾が目に付く。スリットや腕周りの露出も多い。

 苛立ちとため息を交えて長身のドールから服をはぎ取る。酸素を抜かれ、温度を下げられてはさすがの千和でも敵わない。

「…………」

 思った通り、動きがかなり制限される。肌触りは良いが、全身に隠された仕付け糸が拘束着のようになって満足に手足が回らない。歩幅も精々普段の半分と言ったところか。さらに腕も全て露出されているため、まさに生身である。

 最悪、と小さく呟く。

 そして監視カメラを睨んだ。しかしその奥で加美山が顔を歪めているかと思うと、癪に触って、背中を向けた。

 ここに助けは来るのだろうか。見捨てられるのだろうか。あの仁を信じたいが、虚像の世界に生きる彼を、そして彼の言葉を信じていいものか……。

 もはや心細いのかなんなのかすら分からなくなってきた。抵抗できない自分の無力さを改めて感じ、無気力に襲われる。

 仁に誘拐された時はまだ良心的だった。京月組が穏健派で親切というのがやっと実感できた。





 どのくらいの時間が経っただろう。部屋には時計が無いので何時間にも何日にも感じる。

 そんな折、二度と開かないと思っていた扉が開いた。

 加美山かと思って身構えるが、見えたシルエットは違った。

「溝田……さん?」

 なんでここに、と声が出る。

「や、染原ちゃん」

 軽薄でヘラヘラ笑いが特徴の因縁の相手、溝田がそこにいた。

「素敵なドレスだね。それで動けるの?」

 唖然としている千和に普段と変わらぬ様子で話しかける。

「どっちにしろ、多少は動けないと困る。さ、行くよ」

 そう言うと、溝田は踵を返してすぐにいなくなった。手を離された重い扉はゆっくりと閉まりはじめる。千和は慌てて溝田を追う。

「若、染原を見つけました」

 追いつくと、溝田が電話で話していた。先程の軽々しい様子とは真逆で、彼が唯一真面目になる相手は仁だ。電話口の奥に彼がいると思うと、千和の心は不意に熱く焦がれる。

「ええ、では手筈通りに」

 電話を切ったらしい溝田は「はいこれ」と自分のジャケットを千和に渡した。

「腕、防御力ゼロはかわいそうかなって。自分の身は守れる?」

「……銃が出てこなければなんとか」

 建物を溝田について進む。京月邸のような屋敷というよりは、オフィスのような無機質な空間だった。誰かと会う様子もない。端々に見える窓から今が夜なのだと分かる。とすると、囚われていたのは数時間らしい。

「向こうの窓から外に出るよ」

 何度か階段を下りた後、そう指示される。大きなスライド式の窓の前には棚が置いてあって、それが良い足場になりそうだ。物音を立てないよう、そっと移動する。棚があるおかげで、足の自由が少ないドレスでも楽に乗り越えられた。

 トンッ、と芝生の上に降り立つ。

 外だ。

 もうとっぷり日は暮れているし、雨は止んでいた。芝生が少しぬかるんでいるのが、和泉と出かけていた今日の名残を物語っていた。

 千和はやっと一息つく。

「……溝田さん」

「ちょっと待ってね、油断していいのはもう少し先」

 暗闇に紛れるよう、敷地内の街灯を割けて移動する。ここで漆黒のドレスが役に立った。

しばらく行けば芝生の庭を抜けた。硬い地面を触ったところで、自分が裸足だったことを思い出した。

「あ、それ歩ける?」

 溝田は少し目を見張って言った。

「……少しなら」

「うーん、じゃあはい」

 すると溝田はしゃがんで腕を指し出した。千和はつい目を丸くする。

「えっ」

「抱えてあげる。少し歩くから、多分その足じゃ無理。若からは早く戻れって言いつけだからね。攪乱も長くはもたないし、ほら早く」

「……分かりました」

 千和は溝田の細い腕に腰かけ、首元に腕を回した。タイトドレスでは後ろに乗れないと配慮した上でのことだろう。

 しばらくして闇に溶ける黒い車が姿を現した。停車した車内に下ろされ、本当にやっとの思いで一息ついた。懐かしの車だ。

「災難だったね」

 素早く隣に乗った溝田もふぅと一息ついた。こういった隠密行動もお手の物のようで、疲労の表情は一切なかった。

「あの、私全く意味が分かっていないんですけど……」

「君を攫ったのは加美山。この世界のタブーを破った。他人の物を無断で引き抜くっていうね。で、ここに迎えに来たのは若の指示。明日、加美山は本格的に潰される。結構な大ごとになるから、大事な人材が巻き込まれないようにってせめてもの配慮だろうね」

 重宝されてるね、と溝田は無神経にも流し目を送った。

「……和泉は?」

「やっぱりそれなんだね。和泉くんは何事もなく無事だよ。今から一旦屋敷へ向かう。詳細は若にお聞きな」

 しばらく走った車は京月邸へと到着した。使用人に靴を渡され、久しぶりにまともに地を踏んだ。

 そして懐かしささえ感じる仁の部屋に通された。

「千和、無事で何よりだ。災難だったな」

 彼はいつも通り椅子に腰かけていた。広い机の上にはたくさんの書類が乗っている。

「本当ですよ。色々聞きたいことがあるのですが」

「和泉くんか?」

「はい」

 仁は千和の気持ちを察したようにさっと口を開いた。

「彼には何も危害はない。君が攫われた後、真っ先に俺に連絡をくれた。姉弟して聡い。おかげですぐに動けた」

 千和はその報告にほっと溜息をつく。無事ということはきっと家にいるのだろう。和泉も和泉で千和の事を案じているに違いない。買い物終りに自分の姿を探す弟を想像して胸が苦しくなる。

「――ところでその服装」

「え、ああ……あの変態に着せられたんです」

 不意に聞かれて、つい愚痴っぽく言う。本当に不快だったあの時を思い出し、背筋に悪寒が走った。

「なるほど。加美山にしては、いいセンスじゃないか」

「そうですか? 私としては加美山のチョイスって事実が既に嫌というか」

「じゃあ代わりに俺が褒めようか?」

「え、なんで――」

「似合ってる」

「あ……りがとう、ございます」

 聞き間違いかと思う言葉に口がもつれ、反射的に顔を背けた。一体どういうつもりなのか。彼のことだ、きっとからかいの言葉で自分を弄んでいるのだろう。

 すると仁は千和のとある一点をじっと見つめた。その視線に気づかないほど鈍感でもない。千和はおずおずと口を開いた。

「何か、ついてますか」

「首、どうした」

「首? ……ああ、締められただけです、あいつに」

「抵抗しなかったのか?」

「しましたよ、もちろん。でも手塞がれてましたし」

「そうか、すまなかった」

「……なんで仁さんが謝るんです? 謝罪なら、加美山から――」

 無言で近づいてきた仁が、赤く残る手の跡をすっと撫でた。千和は押し黙る。

「あいつの感触が残ると、嫌だろ?」

「え、ええ……まぁ……」

 加美山とは異なる優しい手つきに千和は自然と力が緩んでいくのを感じた。温かくはない、冷たい手だった。しかしそれが心地よい。

「綺麗なまま戻ってくれて良かった。危ない目に遭わせてすまない」

「でも、私は護衛ですよ」

「今回のは護衛とはまた別の危険だ」

「それは……確かにそうですね」

「京月組若頭の持ち物に手を出したんだ。相応の報復を与えるさ。たとえ加美山でも」

 千和から離れた仁は部屋のドアを開けて退室を促した。

「明日は呼び出さない。ゆっくり休むといい」





 家に到着した途端、和泉が血相を変えて出迎えた。

「千和、大丈夫⁉ 何があったの⁉」

「大丈夫。和泉こそ大丈夫そうで安心した。でもごめん、明日でいい? ちょっと疲れた」

「う、うん。こっちこそごめん。無事でよかった」

「ん、ありがと」

 千和はそのまま風呂に向かった。今日のこと全て、一から十まで洗い流したい気分だった。

そして部屋で一人。

 眠るでもなくぼうっと考える。

 加美山、汚らわしい狂人。自分を見つめる歪んだ顔が頭から離れない。

 そしてあの言葉、お前は空っぽ……。分からない。和泉のために生きている自分が空っぽ? 分からない。何を言っているのか。自分は、人を、和泉を護ることができる。それが自分そのものだ。

 やがて瞼が勝手に落ち、激動の一日に別れを告げた。

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