bye-bye

「……あのね、それが、凛子が言っている人なのかどうかは、わからないんだけど」


 すっかり腫れぼったくなった目で、ママを見上げる。


「凛子の治療費とか入院費とか……出していってくれた人がいるそうなの。全額現金で」

「……え?」

「そんなの貰えないし、返さないでほしいって言うなら、せめてお礼でもと思ったんだけど……その人が誰なのか、それからどうなったのか、なぜか誰も知らなくて……」


 額に光が射して、目の前がさぁっと明るくなったように思えた。それはまるで夜明けみたいに。


 病院での治療費と入院費は決して安い金額じゃない。それを一度に全額、しかも現金で支払う。そんなお金の使い方をする人を、私は一人だけ知っている。


 それとね、とママはちょっとだけ笑みを浮かべて、病室の隅を指さした。私の右足が吊られた反対側、ベッドの頭の先。


 ママに手を貸してもらってなんとか起き上がり、腰をひねって後ろを見る。


 そこには、大きなウサギのぬいぐるみが、壁にもたれかかるようにして椅子に座らされていた。首には、赤と金色のリボンが巻きついている。


「あれのことも、看護師さんたち、誰も知らないみたいで」


 ママは困ったように、でも、少しだけ楽しそうに言った。


 私の目からまた、ぼろぼろ、と涙が零れ落ちた。


 あれは朝日と出会った日。その直前に、ショーウインドウの中に見かけたその姿を、私はしっかり覚えていた。


 あの日、あの道で立ち止まり、ぬいぐるみをしばらく眺めていた私を、どこかの影から眺めていたのだろうか。あれは確か隣に住む女の子だ。ウサギが好きなのかな。プレゼントしたら、少しは励ましになるだろうか。そんなふうに思いながら。


 わからない。

 わかるのは、とても優しい殺し屋だったこと。

 自分の運命を呪い、それでも受け入れる術しか知らない、悲しい暗殺者だったこと。


 穏やかに笑うこと。

 ギターが上手だったこと。

 歌う声がきれいだったこと。

 お供の黒猫を可愛がっていたこと。

 約束を守る誠実な人だったこと。

 強い人だったこと。

 純粋な人だったこと。


 私を愛してくれた人。

 そして、私に愛された人。


「ふ……」


 無事だった。きっとレインも。


「凛子……パパのこと、聞いたわ。だからって、こんなことを言うのは調子がいいと思う。だけど」


 ママはしっかり私を見つめながら、手を取って言った。瞳はもう揺れていない。


「……凛子がよければ、また一緒に暮らせないかな?」


 ママの手は温かい。

 朝日の温もりが思い出される。胸が締め付けられて、また涙が溢れ出す。


 誰かの温もりがないと、人は生きられない。

 それは別に肉親じゃないといけないわけじゃない。まったくの他人でも、出会ったばかりでも、気持ちが通い合えば、きっとそれはお互いに生きる支えになる。


 朝日が、たった三日間の中で、私の中に残してくれたものだ。

 だから、たぶん、もう私は大丈夫。


 こんなふうに、朝日の中にも、大切なものを残せてあげられなかったことが、悔やまれるけれど。


 ママの手を、私はぎゅっと握り返した。


 私はもう二度とカタバミの葉を千切らない。もう誰の不幸も願わない。

 代わりに、年が明けて春がきたら、四つ葉のクローバーを探し出して、そっと祈ろう。


 美しい殺し屋。

 優しすぎるヒット・マン。

 どうかあなたが、人を殺める生き方から、少しでも遠ざかれる日が訪れますように。


 苦しみや悲しみに、一人打ちひしがれる夜がやってきた時のために、あなたのそばから、大きな瞳の黒猫が離れることなどありませんように。いつまでもあなたのそばにいて、その優しい温もりがあなたを慰めますように。


 そして、雨の日にはそっと思い出す。

 あなたが歌った、あの「アメイジング・グレイス」を。


 どうか、いつかあなたのもとにも、あの歌のように、神の御加護が舞い降りますように。


 本当にありがとう。元気でいて。


 わたしが愛した、RAINMAN。





(fin)

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Rain man 行方かん(YUKUKATAKAN) @chiruwo

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