believe

 その時、聞くともなしに音楽が耳に入ってきた。


 換気のためなのか、少しだけ開けられた窓の外から。

 風に乗って届くようなかすかな音で、他の病室で誰かがこっそり聞いているラジオの音が流れてきたのか、近所のお店のBGMがここまで届いてきたのか。


 その曲名は、以前からそのメロディーに慣れ親しんでいた私には、すぐにわかった。

 レンタルした映画の中で聞いて、一目惚れさながらに好きになり、見つけたCDをほとんど衝動的に買ったことをよく覚えている。


 でも、今頭の中に流れている音は、嫌と言うほど聞いた古いラジカセからの音じゃない。ギターの音。低いけれど透明な歌声。


 その瞬間。

 脳が、雷に打たれたみたいな衝撃を受けた。


 そうだ、私は確かに街に来ていた。でも、買い物が目的じゃない。

 巻き込まれた? 違う。狙われていたんだ、最初から。


 私は上半身を起こそうとする。すぐに確かめたいことがあった。だけど、痛みが身体中に走り、顔を歪めるだけで叶わなかった。

 肘から崩れ落ちるみたいになって、ママが慌てて背中に腕を差し込んでくれたから、頭をベッドのふちに打ちつけずに済んだ。


「そんなに急に動いちゃだめ。死ぬような怪我じゃないって言ったって、足は折れているし、身体中に打ち身や傷があるんだから」

「……朝日、朝日は? レインも」


 首だけで部屋を見渡した。

 ここは個室のようで、私以外の怪我人も病人もいない。


 いない。朝日がいない。レインもいない。


「……あさひ?」


 ママは眉間にシワを寄せて、小首をかしげるだけだ。


「一緒に……一緒にいたの、ずっと」


 そうだ。私は知っている。思い出した。


 大通りで起きていたのは、殺し屋同士の銃撃戦だ。

 自分の雇い主である組織から逃げ出した、裏切り者の殺し屋。そして、彼に制裁を与えるために追ってきた別の殺し屋。彼らの、まさしく死を懸けた闘いがそこでは繰り広げられていた。


 すべての引き金になった人物は、私を受け入れて、愛していると言ってくれた。最後まで私を守ろうとして、代わりに弾丸に貫かれた。


 鮮明に思い出す。

 道路に向かって落ちていく、バスケットの中の怯えた大きな瞳。

 そして、飛び立つみたいに両腕を広げて、後ろ向きになって私に舞い降りてきた彼の、コートの背中から噴き出した血の赤い色までをも。


 彼らがここにいないのは、最悪の事態が起きた証なの?

 仰向けに寝転がったままの私の両目から、涙が溢れ出た。


「嫌……嫌だよ、朝日、どこ? 出てきて……嫌だ」

「凛子……?」

「怪我の手当てしてるんでしょ? 別の病室にいるんでしょ? 看護師さんに訊いて、ここに連れてきて」


 朝日だって大怪我をした。私のすぐ近くに倒れていたはずだ。

 殺し屋たちは伊達ではないようで、私が覚えている限り、巻き添えで怪我をした人は他にいない。それなら一緒に運び込まれているはず。生きているなら。


「一緒にいたんだよ。私を守ってくれてた人がいたの。その人は撃たれたから……すぐにわかる。猫……その人が連れてた、黒猫のことも訊いて」


 撃たれた、という単語を言葉に出す時には、唇が震えた。


 私も朝日も倒れてしまったから、レインをバスケットから出してあげられる人がいない。まだ道路に転がったままだったらどうしよう。車に撥ねられたらどうしよう。また頭のおかしな人間に捕まってしまったら……


「連れてきて……早く連れてきてよ、ねぇ」


 私はわんわんと泣き出した。


 どうして忘れていたんだろう。


 しとやかな、まるで女性のような顔立ちをした、背の高い紳士。長いコートを羽織って帽子を深く被り、白いマフラーを巻いた、穏やかな目の殺し屋。

 そして、彼が連れた愛らしい黒猫。


 私は彼らと三日間、一緒に過ごしていた。

 古いアパートの一室で、ごはんを作って食べて、笑って、一緒に眠って。そんな当たり前の、どこにでもある家族のような日常を。


 ママがおろおろとしながら言う。


「……ごめんね。ママは、病院からの電話で、娘さんが事故に遭ったかもしれませんって聞いたから来ただけで……その他のことは何も……」


 それを聞いてはっと思いつき、しゃくり上げながらママに言った。


「ねぇ……おかしくない?」

「え?」

「だって、私のことを病院の人に教えたのは誰? 私がどこの誰か知ってる人がそばにいたってことだよ。きっとその人がママのことも話して、だから呼んでもらえたんだ」


 私は朝日に、ママのことをほとんど話していない。

 だけど、殺し屋のメソッドを駆使すれば、見ず知らずの他人の情報を調べることは、そんなに難しくないのかもしれない。


 考えたくないけれど、それは、朝日を追ってきたあの男たちにだって言える。私があのアパートの住人だってことも、彼らなら知っている。


 でも、彼らじゃない。朝日だ。そう信じたい。


 ちょっと伏し目がちの優しい笑顔が見たい。日向のにおいがする、ふかふかの毛並みの黒猫を抱き締めたい。


 それがもう叶わないなんて、そんなこと絶対にない。信じたくない。

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