mama

 ジングルベルが聞こえる。


 メロディーがどこで鳴っているのか見つけたくて、ぼんやりと目を開くと、目の前に白い天井が見えた。

 とたんに、音はすっと余韻も残さず消えてしまい、あ、夢を見ていたんだ、とわかった。


 目覚めたばかりだからなんだろうか。

 やたらと清潔な天井がどこの部屋のものなのか、まったく思い出せない。そればかりか、自分が今どんな状況でいるのか、ともすれば誰なのかさえも、なんだかよく理解できない。


 かすかな電子音、ゴム製のスリッパが廊下を踏む、きゅっ、きゅっとした足音。それらだけが、確かな現実感を携えて耳に届いていた。


「凛子……?」


 私を呼ぶ遠慮がちな声はわりと近くで聞こえたのに、声の主の姿が見えない。


 とても穏やかで、しっとりとした湿り気を帯びた声は、どこかで聞いたことがあるような気がするし、ないような気もした。


「どこか痛む……?」


 目に眩しいくらいの白い天井を背景に覗き込んできたのは、女性だった。


 全体的な線が、優しいと言うより弱々しい。鼻がつんと高くて顎が細かった。瞳が優柔不断に揺れていて、それがやけに目立つせいか、大人なのに頼りない印象を与えた。


 声が五感を呼び覚ましたかのように、急にそこかしこから医薬品独特のにおいが立ちのぼった。つい最近も嗅いだにおい。理科準備室の中にいるみたいなにおい。それは私自身からも香っている。


 周りの景色もにわかにクリアになり、そこで初めて、自分がベッドの上に寝かされていることに気づいた。

 そっと自分の顔に触れる。布の感触がした。頭から頬、顎にかけて包帯が巻き付けられている。


「大丈夫、見た目ほど怪我はひどくないって……三週間くらいで退院できるそうよ」


 女性はそう言って、私の額にそっと触れてきた。

 柔らかい温度の手は、小刻みに震えている。女性の焦げ茶色の目がみるみる細められて、押し出されるみたいに涙が溢れ出した。


「よかった……」


 その温もりも、目の色も動き方も、初めて見たものじゃなかった。ちょっとだけ癖のある髪の毛も、ぽってりとしたプラム色の唇も、よく知っている。

 私とそっくりだ。


「……ママ?」


 唇だけをむくむくと動かして呼びかける。

 すると、ママは一瞬目を見開き、すぐに瞳を破裂させるようにして泣き出した。


「ごめん……ごめんなさい……! 本当に私、なんてことを……!」


 そこにいたのはママだった。うんと昔に、私を捨てた人。


 でも、私はママを忘れていなかった。

 忘れたふりをしながら、何の関心もなくなったふりをしながら。


 どれほど長く会っていなくても、どれだけ頑張って思い返したところで、残像が霞んだものにしかならなくても、ママを形作るパーツたちは、私の中から消えていなかった。記憶の引き出しに、ちゃんと大事にしまってあった。びっくりするくらい鮮やかなままで。


 嗚咽を漏らしながら、ママは言った。


「許してなんて言えない……ママがしたことは、とてもひどい、罪深いことだもの」


 顔を覆って泣くママの手は、ずいぶん骨張っている。指は想像していたよりもずっと荒れていて、枯れ木みたいだ。


 隙間から涙が零れ出してくる。抑え切れない後悔のように。雫は手首の手前で膨らみ、私の鼻先に落ちてくる間際、蛍光灯に照らされ、清流みたいに光った。


「……どうしたらいいか、わかんない」


 正直な気持ちだった。


 ずっとママを恨んでいたはずだった。

 パパの元に置き去りにされて、それこそパパが言ったように、私のことを愛していなかったんだと怒りに任せて暴れたことも、ただひたひたと泣いたこともあった。


 すぐに許すとは言えない。ママが一人で出て行ってしまったことに、怒りを感じていることは本当だ。あの時の絶望や悲しみは、きっと一生忘れられない。


 だけど、ママが今ここにいて、私を心配して、悔やんで、泣いている。そのことに心を動かされている。


 それって、とても大事なことなんじゃないかって思う。突っぱねたり無視したりしたら、だめなんじゃないかって思う。

 そうしたら、私が言えることは、一つしか思い浮かばなかった。


「でも……生きてて、よかったって思うよ」


 ママはゆっくりと両手を離すと、ずぶ濡れの顔で微笑んだ。


「……知らない間に、大人になったのね」


 その表情が悲しそうだったのと、大人になったと言われたことで戸惑った私は、その笑顔からつい目をそらした。


「……私、どうしたんだっけ」


 私はもう一度、自分の今の状況を確かめた。


 ここは病院のベッドで、頭には包帯。

 腕を持ち上げてみると、キャミソールしか着ていなくて、露わになった細い腕には青あざや擦り傷がいくつも出来ている。足元に目をやれば、掛け布団から飛び出した足は包帯でぐるぐる巻きで、ベッドの上から吊られていた。


 自分のことは自分がいちばん知っているはずなのに、まるで記憶のフィルムが焼き切れてしまったみたいだ。光が映し出されるだけのスクリーンを、広い映画館の中、たった一人で席に座って見上げている気分だった。


「事故に遭ったのよ。トラックとぶつかったとか」

「……事故?」


 鼻をすすって、真っ赤な目で、ママは説明してくれた。


「この近くで銃撃事件があったらしいの。凛子は買い物にでも出てきていて、巻き込まれたんじゃないかって……。必死に逃げている最中にうっかり車道に出たか、もみくちゃになって誰かに押されたか……」


 銃撃事件? 巻き込まれた?


「トラックに撥ねられたのは痛かっただろうし、怖かっただろうけど、流れ弾に当たらなくて、本当によかった」

「……ママは、なんでここに?」

「病院から連絡をもらったの」


 それはおかしなことだった。


 ママの居場所は大家さんでさえ知らないはず。どうして病院側が連絡先を知っていたのか。その前に、私がどこの誰かなんて、いったいどうやって調べたっていうのか。


 私はスマホを持っていないし、普段は現金くらいしか持ち歩いていない。自分の身元がわかるような物なんて、何一つ身につけていないはずなのに。


 でも、ママに嘘をついている様子はない。嘘をつく理由も見当たらない。


 それよりも。


 何だろう。

 とても大切なことを忘れている気がする。

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