海に生きる・後

「そう……だったんですね」

「当時、僕は小学校五年生の時で、そろそろ色々なことが分かる年齢になっていましたから……その後、僕は父に我儘を言って、内陸へと引っ越したんです。当時、小学校二年生だった妹を連れてね」

「はぁ……」

 たった今起きた出来事を語るかのごとく、浦賀は目に薄っすら塩水の膜を張って、何度も唇を噛んでいた。

「転向してから、やっぱ第一印象が暗かったからなのか、全く馴染めませんでした。調子乗ってんじゃねーぞ、ってなじられたりして……。それから当分、海に行けませんでした。修学旅行で海の方に行った時は、思わず一人で旅館に引き返したくらいなんです」

「浦賀さんがいじめられるなんて……」

「で、まあ中学高校と階段を上がっていくわけなんです。中二くらいに、他の海女さんとか、地元の漁師さんとかが時々辺りを気に掛けたりするんだけれども、耳の骨すらも見つからないんです」

 浦賀の語りは、ポツポツとものをそぎ落とすようなものだったのが、だんだんバチバチと口調が速く、激しくなってゆく。

「当時の僕には将来の夢とかいうものもありませんでした。ただただ、ひっそりと暮らしたいと考えていたんです」

「え、でも何で……」

 会話に突っ込もうとした和花が見えていないくらいに、浦賀は言葉の炎を燃やした。

「そんな時、大学に入ったところで、ポストに手紙が投函されるようになりました。『お母さんの話を聞きたいので、会ってくれませんか?』というのから始まって、『お母さんの生涯を世間に伝えたいんです』だとか『お母さんを弔うことに協力してください』だとかいう手紙がジャンジャン入ってくるんですね」

「それが、今宮源さんからのものだったんですか?」

「そうです。ですが、母親のことは昔の話だし、正直思い返したくも無いし、そもそもその人が誰なのかも分からない。なので、ずっとスルーしていたんですね」

 浦賀の語り草が、少しずつ抑揚の効いたものになってきた。

「でもね、いつだったか忘れましたけど、また手紙が入っててたんです。別にね、今振り返ったらそこまでかな、とも思いますけど、その時は何か凄い心動かされちゃって、会いに行ったんですよ」

「そんな……ちなみに、どんな手紙だったんですか?」


「『海と家族が大好きな朝陽君に帰ってきてほしいと、晃大こうだいさんも、汐音しおねちゃんも、そして小波さなみさんも、絶対思ってる』っていう」


 浦賀は、海に浮かぶ部屋の窓から見える大海原をうっとりと見つめた。

「あ、ちなみに、手紙の中に出てくる名前は順番に、父親、妹、母親なんですけど、みんな海とか空とかっていう、自然の名前なんですよ」

「確かに、すごい、素敵ですね!」

「でしょう? で、まあ会いに行って、そしたらものすごい熱意を持った人だったんですよ。そこまで全く売れずに無名の方だったんですけどね、何回か母親の講演とか、そういう活動に参加したことがある方だったみたいで、絶対に書きたい! って」

 浦賀の頬はどんどんと緩み、ニマッと、一番の朝陽の笑みを浮かべていた。

「なので、色々、子供の時からのね、母親の思い出話とかする中で、もうなんか、色んなこと思い出して、なんか、話している時に、母親が後ろからギュッと抱きしめてくれているような気がしてたんですよ。もう、冬の毛布とか炬燵じゃ絶対叶わない温かさがあって」

 またこのタイミングで何かを思い出したのか、浦賀は水平線の彼方を優しい目で見つめている。


「それで僕ね、結構広々とした喫茶店だったんですけど、感極まってボロ泣きしちゃったんですよ」


 青年は、ほんのり顔を赤らめて、髪をポリポリと掻いた。

「で、まあ色々なところに取材を重ねて、母親の人生と考え、遺志を描いたノンフィクション『海に果てた女』が誕生したんです」

 浦賀は、小さなクローゼットを開けた。中から、両手で抱えるサイズの段ボール箱を取り出してくる。

「これですね」

 その中には、二十冊以上ある本が積まれていた。

 和花は、その中から一冊、手に取ってみる。

 その本は厚めの単行本で、表紙は様々な貝や海藻が生息し、ところどころにヒトデやカニが見える海だ。バックの方には、群れを成して泳ぐ魚影が描かれている。

 よく見ると、海面に差し込んでくる光が、海を抱く女神のような形になっている。海底には一つの指輪が刺さっていた。

「……美しい装丁ですね」

「裏表紙も見てみてくださいよ」

 言われるがままに裏側を見ると、シックな木目の机の上に、自分の考えや経験を書き記した、講演の原稿と見られるものが、紺色のボールペンと共に置いてある。

「結構色々書いてあるでしょう? 僕はここがお気に入りなんです。で、もう一つ、どうしてもこの本を置いていただきたい理由があって」

「何でしょう?」


「作者の今宮源さんもまた、肝臓がんで亡くなっているからなんです」


 和花は再び、息を詰まらせた。


「なので、どうにか、これを広めて、自滅に向かっている日本、そして世界・地球を少しでもいい方にしたいんです。その方法でしか、僕は母親と今宮さんを弔うことが出来ないんだ」


 段ボール箱の傍にしゃがんでいた浦賀はスッと立ち上がり、空気の音がなるほど素早く腰を折った。

「お願いします」

 和花は、キリリとした眼差しで浦賀を見つめていたが、やがて、フフ、ハハハハハッ、と肩を細かく震わせながら笑い出した。

「え、ちょ、何ですか?」

「いや、なんか、さっき私が名乗った時、深くお辞儀したらいきなり笑い出したじゃないですか。なんか、シチュエーション一緒だなぁって思って」

「え、いやそれとこれとは違うでしょ?!」

 顔を真っ赤にしながら、目を剥いて反論する浦賀に、和花は悪戯な顔をしていった。


「そういう浦賀さん、私は好きですよ?」

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