海に生きる・中

「今さ、ウラガ君と話してきたんだけどさ、すごいね」

 雄星がご機嫌でバンに戻ってきたのは、出てから十五分ほどした時だった。

「ウラガ君? あの人、そんな名前なんですか?」

「あ、聞いてないの? 浦賀朝陽うらがあさひっていう名前。年は今二十二だって」

「てことは、私の二つ下ですね」

「そうか。ちょうどいいじゃん、お似合いじゃん」

「え、いや、そんな」

 和花は顔を両手で隠した。

「もう、この時点でリアクションが可愛すぎるから行けるって」

 これまで、雄星にそんなことを言われるとますます赤面ものだったが、今はこの軽口さえも頭から通り過ぎてゆく。

「あのさ、でまあ話してて、ちょっとうちに協力してほしいことがあるんだってよ」

「それは、どういう?」

「それを、今から聞きに行ってくれよ」

「えぇーっ?! 私が?!」

「そ。ほら、浦賀君待ってる」

 バンの窓からそっと覗くと、浦賀は海の向こうを澄んだ瞳で眺めながら、髪を掻き揚げている。

「……行ってきます」

「行ってらっしゃい」

 雄星は白い歯をチラリと出して、まるで中学二年生の男子のような顔で和花を送り出した。


「えっと、私が交渉を命じられたので……」

「あ、そうなんですか? 良かった」

 まさに朝陽のような、キラリとした笑顔を浦賀は浮かべた。

「名前言ってなかったですね、確か。僕は浦賀朝陽って言います。二十二歳です」

「えっと、青木和花です。当年二十四です。お願いしますっ」

 和花はバッと、勢いよく腰を九十度に折った。

 浦賀はそれを見て、どうすればよいのやらと首をウロウロさせていたが、やがてクスクス、ク、クハハハハハハハ、と愉しげに笑い出した。

「え、な、何ですか、なんか変なことしましたっけ?」

「いや、別に、変じゃないんですけど……なんか、良いっすね」

「何がですか?」


「ウブだから」


 浦賀はそう言って、自分たちだけの秘密を作った子供のように、「シーッ」と、長い人差し指を立てた。

「え、ど、どういう……?」

「そういうところ。ハハハ。まあ、それはさておき、僕が個人的にお願いしたいことがあるんです」

「あ、はい、何でしょう」

 和花は自分の胸をギュッと両手で押さえた。


「本を、置いてくれませんか?」


「……ホン?」

「はい、本です。お願いできませんか?」

「え、あの、ブックですか?」

「えぇ? いや、BOOK MARKさんにお願いするんだから、それ以外無いでしょう?」

「あ、まあ……」

 呆れた様子で言う浦賀に、和花はぺちゃん、と目を伏せた。


「……まあ、そういう青木さんの抜け感、僕は好きですよ」


「え、今なんて?」

「そういうところですよ、まさに!」

 浦賀は腰を曲げ、目をクシャクシャにして口を押さえている。

「えっとまあ、本題です本題。そう、ブックの方の本を売っていただきたいのですが、その本のタイトルは『海に果てた女』と言います」

「はぁ……」

「それは、ノンフィクションなんですね。ノンフィクション作家の今宮源いまみやはじむっていう人が書いたものなんですけど、今はもう絶版されています」

「ノンフィクションなんですね? なら、題材は何なんですか?」

 冷静さが戻って来たのか、「え? え?」とオロオロしていた時よりも一オクターブ低い声が、和花の口から出ている。


「僕の母の生涯について、です」




「あら、お客さん?」

 ごってごてに化粧液やクリームを塗りたくった、お団子ヘアーの女に、和花は汚い物でも見たように、額に皺を寄せる。

「いや、こちらは移動書店・BOOK MARKの店員の青木和花さん。母さんの弔いに協力してくれるらしい」

「移動書店? ナニ、ソレ」

「本屋の無い町とかを、大きめのバンに本を積んで回ってるんだってさ」

「てことは、実質アタシらの同業者みたいなもんってわけねぇー」

「そう」

 相手の女は、それ以上興味が無い、とでも示すように、頬杖をついて、ソファに寝転がりながら、海のさざ波を眺めた。

「挨拶ぐらいすればどう?」

「そうねー。アタシは山口江三子やまぐちえみこ。この店の店主」

 山口と名乗ったごてごて化粧の女は、ソファに寝転がって足をダランと垂らした態勢のままそう言って、再びさざ波に視線を移した。

「青木和花です。どうぞ、お見知りおきを」

 和花の挨拶も、「お見知りおきを」のところがチクリと尖った。

「えーっと……とりあえず二階に来てくれませんか? 部屋があるので」

 和花は一つ、首肯だけして、浦賀へ付いていった。


「ごめんなさいね、決して悪いやつじゃないんですけど……ちょっと常識知らずで世間知らずな奴なんで……不思議と、お客さんの前ではハキハキしていて人気者なんですけど」

「いや、良いんですけど……え?」

 途中まで言って、和花は浦賀を二度見した。

「どうしたんですか?」

「人気者って……あ、いや、何でも無いです。えーっと、本のこと、教えてもらっていいですか?」

 和花は少し慌てたように言って、浦賀に水を向けた。

「ん……ああ、そうですね。えっと、僕の母親は海女だったんです」

「……アマ?」

「海に潜って、アワビとかサザエとか海藻を採っていたんです。地元ではかなりの有名人で、時々全国放送のテレビに出たこともあります。環境活動家としても活動していましたから」

「すごい人だったんですね。そりゃあ、ノンフィクションにもしたくなるかと思います」

「ですがね、そのノンフィクション、『海に果てた女』は、母の死後、地方の小さな出版社から出された本なんです」

「……え?」

 浦賀は、重々しく切り出した。


「二〇一九年、まだ海が冷たかった三月六日のことです。夕方に海へ飛び込んでいった母は、海中で行方知れずになったんです」


 和花は、頬をピリピリと引き攣らせ、手の中に爪を立てた。


「その日から、僕を含め、人々が母と再会したことはありません」

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