ザクバラ国の主従
領街のオルセールス神殿では、太陽神殿と月光神殿の間にある大広間で、リィドウォルと護衛騎士イルウェンが向かい合っていた。
空にはまだ太陽が出ている時刻だが、照明が一つもついていない建物内は、薄暗い。
領主邸での混乱の中、飛び出したリィドウォルに命じられるまま、イルウェンは付き従った。
国王の憤怒の声を背に受けて、激しく困惑しながらも、共に馬を駆けて中央へ続く西の大門を目指した。
しかし、二人が門に辿り着く前に、領主邸の方から魔術による赤い信号弾が上がった。
緊急事態において、制圧した場を封鎖する合図だ。
それにより、領街の各門は、配置されてあった騎士や兵士によって即時封鎖された。
リィドウォルは一旦強行突破を試みようとしたが、魔術の発動体をジェクドに抜き取られていて、その上水の精霊を抱えていては難しいと判断した。
そのまま馬首を返して街中に戻り、潜伏する場所に選んだのはオルセールス神殿だった。
「本気で陛下に反意を示されたのですか!? あれ程陛下の下へ戻られることを望まれていたのに、何故です!?」
イルウェンが
「陛下はもう、賢明であった以前の陛下ではない。……私が敬愛した叔父上は、もうこの世にはおられぬのだ」
リィドウォルは故意に淡々と言葉を発した。
感情を乗せて話すには、まだ時間が経ってなさすぎる。
しかし、そんなリィドウォルの心を知ってか知らずか、イルウェンは食い下がる。
「そんな! 陛下は覇王の再来と
リィドウォルは僅かに目を見張った。
「そうか、お前には、陛下はまだそのように映るのか……」
イルウェンが護衛騎士見習いとして王城に入ったのは、新成人となった約八年ほど前で、ちょうど王が側近達を側から離し始めた頃だ。
その頃には既に王政は正邪が入り乱れていたが、それでも王の側に
リィドウォルが真に求めていた王の姿を、彼が知らなくても無理はない。
リィドウォルは乱れたままの前髪を掻き上げて、小さく溜め息をついた。
「陛下は先程、“血の契約”を履行された。王に背いたとして、契約により私は死を
困惑したイルウェンが眉根を寄せる。
「何か誤解があるのでは……。リィドウォル様は生きておられます」
「……水の精霊が私を助けたからだ。彼女の神聖力がなければ、あの場で死んでいた」
いや、一度死んだのかもしれない。
リィドウォルは胸を押さえる。
契約は履行された。
確かに、心臓に見えない杭は打たれた。
そして、それにより“血の契約”は満了し、消滅したのだ。
その証拠に、王に背いた自覚があるというのに、心臓はもう少しも軋まなかった。
照明がなく薄暗い大広間に、上部の採光窓から夕の赤い光が入る。
向かい合う二人を、光が赤く染めた。
「私は陛下の臣を降りる。もしも許されるなら、これよりはタージュリヤ殿下に下り、新しいザクバラ国の為にこの命を使いたい」
信じられないというように、血の気の引いたイルウェンが一歩下がった。
リィドウォルは、困惑の色を滲ませるイルウェンの目を見る。
「
イルウェンが大きく顔を歪ませた。
「……っ、何を仰るのですかっ! 何があろうとも、私は決してリィドウォル様の下を離れたりしません! 私にとって貴方は師であり、父であり、全てを以ってお守りする……、っ、大切な……」
言葉を詰まらせて、拳を握る。
自分を側から離すことを想像している主に、衝撃を受ける。
そして、今になっても水の精霊をネイクーン王国へ戻そうとしている事に愕然とした。
怒りなのか、悔しさなのか、こみ上げる感情が彼の拳を震わせた。
そのイルウェンの姿は、リィドウォルの胸を揺さぶる。
かつて自分が叔父に抱いていたような想いを、イルウェンが自分に向けていたことに気付いた。
あの頃の自分の胸中を思い出し、思わず手を伸ばし、イルウェンの肩に手を置いた。
「…………お前には、感謝している」
リィドウォルが肩から手を離して、背を向ける。
「発動体の代わりになる物を探して来る。お前は水の精霊を守っていろ」
反射的に付いて来ようとしたイルウェンに指示を出し、リィドウォルは一度窓から外を確認してから、太陽神殿の方へ歩いて行った。
イルウェンは月光神殿の方へ戻る。
その足取りは重い。
頭の中は、混乱していてめちゃくちゃだった。
そして、今肩に置かれた温かく優しい掌は、更に彼を戸惑わせた。
彼にとってリィドウォルは、どんな状況にあっても、ザクバラ国の為に信念を持って突き進む、孤高の存在であった。
覇王の復活と国の宿願を叶える為、どんな手段も
祭壇の間の隣室から、裏階段を上がり、祭壇の間の二階部分に出ると、ちょうど採光窓から、太陽が月に替わる前の最後の強い光が入った。
窓の近くに転がる、赤黒い泥の塊のようなものが、光に照らされて浮かび上がる。
「…………お前のせいだ」
全ては、リィドウォル様が
一体これの、どこが清らかなのか。
何が神の御力を呼ぶ神聖力だ。
魔獣と変わらない、おぞましい、ただの化け物ではないか。
リィドウォル様は、この化け物に取り憑かれてしまったのだ。
そしてとうとう、あれ程の忠信を捨ててしまった。
イルウェンは一歩近付いて、泥の塊を睨み付けた。
日の入りの鐘が鳴って陽光が消え、代わって月の青白い光が差し込んだ。
それの顔である部分には、泥の中に埋もれた宝石のような瞳が、何の感情も乗せずに宙を見ている。
不気味な化け物であるのに、無駄に美しい瞳が月光を弾き、こちらを懐柔しようとしているように思えて、無性に苛立ちを覚えた。
暫く苛立ちに耐えながら、混乱していた頭を整理しようとしていたイルウェンは、ふと思いつき口角を上げる。
どうせもう、ここまで泥化しているのだ。
最後に残ったあの白い指を、今ここで突いて失くしてしまっても、自然にそうなったように見えるのではないだろうか。
自然にそうなったのなら、誰にも止められないのだ。
完全に化け物にしてしまえば、リィドウォル様も目を覚まして下さるかもしれない。
そうだ、これからどうするにしろ、この化け物だけは始末した方がいい。
心を決めて一歩踏み出し、腰の片刃剣の柄を握ろうとした時、突然イルウェンの右手が震えた。
「……何だ……?」
ブルブルと激しく震えて、柄を満足に掴めない。
それは、水の精霊が留置場で姿を現した時に、斬りつけてから始まった震えだった。
ずっと収まっていたのに、今この化け物を斬ろうと決めた途端に、発作のように震え始めた。
まるで、この世界の生き物に、
抑えようとする程、震えが酷くなり、イルウェンは左手で震える手首を掴む。
「くっ! 化け物めっ!」
それでも剣を抜くことが出来ず、思うようにならない腕に爪を立てた。
「あ……、あぁ……っ」
突如、泥の塊から声がもれ、イルウェンは驚いて構えた。
何も見ていなかった紫水晶の瞳が、光を取り戻して揺れる。
不自然に残された白い手が、何かを求めるように指を伸ばした。
辛うじて神殿の周辺に伸ばしていたセルフィーネの視界に、カウティスの姿が映った。
« カウティス! »
セルフィーネの叫びに、精霊達が動き出した。
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