精霊の集結

水の季節後期月、二週三日。


夕の鐘が鳴って、半刻。

ネイクーン王国の西部国境地帯では、ハルミアンが聖堂建築現場から戻って来て、魔術士達の詰所で忙しく立ち働くマルクを見て、腰に手を当てた。


「何だ、思ったより落ち着いてるんだね」

拠点に派遣されている魔術士達に、あれこれ指示を出していたマルクが、声を聞いて顔を上げる。

「ハルミアン。どうしたの?」

「どうしたも、こうしたもないよ。精霊達の動きを見てないの?」

ハルミアンは長い指で、窓の外を差した。

「……見たよ。精霊達が騒いでるのは分かってる」

人間はエルフ程はっきり精霊を見ることは出来ないが、その異常な動きは、ここにいる魔術士達が全員感じていた。


マルクはチラと窓の外を見た。

精霊達は今も落ち着かず、ざわめいているように見える。

それは、セルフィーネがカウティスに贈られたバングルを、初めて身に着けた時のようだった。



「……ザクバラ国で、謀反の動きがあったって。政変に繋がるかもしれないって、ラードさんから通信があったんだ」

マルクの言葉に、ハルミアンは形の良い眉を寄せた。

「王城に伝えたの?」

「すぐに魔術士館に知らせた。きっともう、陛下に届いたと思う」


ネイクーン王国の通信符を、国籍を抜かれたカウティス達に持たせたことが分かれば、マルクは罰を受けることになるかもしれない。

だが、それも覚悟の上で持たせた。

カウティスとセルフィーネの為になる手段があるなら、全て用意したかった。


「国同士の事は、陛下と王城の方々が対応して下さる。精霊の動きは、私達が感知しても出来ることはない。……私達は、別の出来ることをしないと」

何処か決意したように言ったマルクを見て、ハルミアンは首を傾げる。

「出来ることを?」

「水源が危ない所が幾つかあるんだ」

ハルミアンが顔を曇らせた。

水源が一つでも枯れれば、契約違反となり、水の精霊セルフィーネは消滅する。


ネイクーン王国は、火の国と呼ばれる程に、火の精霊の影響が強い国だ。

水源の維持は難しく、竜人族に水の精霊を授けられてから、その確保と維持は彼女の力に頼ってきた。

三国共有となることが決まってからは、水源の維持を魔術士達の努力で補ってきたが、それでも危ないということは、セルフィーネに力が足りないということだろう。


マルクは手元の書類をまとめて、魔術士に渡す。

拠点ここは任せられる者がいるから、私はこれから、北部の水源に向かう。セルフィーネ様を守らないと。水源は、魔術士達私達が絶対に枯れさせないよ」

マルクの真剣な表情を見て、ハルミアンは強く頷くと窓から空を見上げた。



セルフィーネの魔力は輝きが弱まっている。

そして、精霊達はかつてないほどざわめき立っていた。

大規模な魔法の使用があっても、離れた場所でこんなにも精霊達が反応することはない。

精霊にも、何かが起こっているのかもしれない。

きっとそれは、精霊という存在から完全に離れてはいないセルフィーネに関わるものだ。


「セルフィーネ、頑張って……」

ハルミアンは、深緑の瞳で精霊達を見つめて呟いた。






カウティスは領街の外壁から離れて、ザクバラ国の中央へと繋がる街道側、西側の大門を睨んでいた。



一行は街の上空に上がった信号弾を見て、南東の側門へ向かって馬を走らせたが、側門に辿り着くと、門を守っていた騎士に阻まれた。

壁内で問題が起こり、門はすべて閉鎖命令が出ていて、街の中へ入ることは出来ないという。

どうやら、魔術の信号弾が上がったのは、外壁の門を一斉封鎖する為の合図だったようだ。


領街の神殿に駐在する聖職者であること主張してみたが、街の中へ入れると安全は保証できないとして、聖職者を危険にさらせないので、暫く郊外の住居群で待機するようにと言われた。


大人しく引き返す訳にもいかず、カウティス達は外壁をぐるりと回って、他の門へも行ってみたが、何処の門でも対応はほぼ変わらなかった。



そうこうしている内に、気が付けば街の周辺には、精霊が溢れ返っていた。

精霊達が街に集まっているのだ。


「精霊が近寄りたいような場ではないはずなのに……」

思わず女司祭が漏らした。

街の上空は、相変わらず淀んだ気が籠もっていて、精霊にとっては忌避きひする場のはずだった。


「きっとセルフィーネの為に……」

カウティスは奥歯を強く噛んだ。

こんな場に、セルフィーネが望んで精霊同胞を集めるはずがない。

精霊達が自らセルフィーネの為に集まっているのだ。


「急がねば、不味いのではないですか?」

聖騎士カッツが唸るように言う。

「このように集まった精霊達が、一斉に狂えば……」

それこそ、イスターク達が仮定した通り、そこかしこに魔穴まけつが発生する事になる。

側にいたタブソンがぶるりと震えた。




「見た所、やはり大門よりは側門の方が守りは薄そうですね」

確認の為に一行から離れていたラードが、戻って来て言った。

「ですが、どういう訳か、外より内に向けての警戒が強そうです」

「……セルフィーネを外に出さない為か? しかし、自分で動ける状態ではないはずだが」

カウティスが門を睨んだままで言った。

「逃がそうとする者がいて、それで騒ぎになっているとか?」

カッツが太い腕を組んで首をひねる。



「どうするつもりかね、カウティス」

イスタークに声を掛けられ、大門を睨んでいたカウティスが振り返った。

「この街の神殿は、どの辺りにありますか?」

「中心よりは、ずっと南にありますね。一番近い門は、南側門です」

ザクバラ国に駐在して長い女司祭が答える。


「……日の入りの鐘が鳴ったら、南側門から入りましょう」

カウティスの言葉にイスタークは頷いたが、焦茶色の瞳を僅かにすがめるようにして、カウティスの胸に指を突く。

「念の為言っておくが、街に入れば嫌でもザクバラ国の者と対峙するだろう。そこにはリィドウォル卿もいるかもしれないし、水の精霊を害するつもりの者も大勢いるかもしれない」

カウティスは込み上げそうになるものを、ぐっとこらえる。


のろいに呑まれるな、カウティス。神聖力を常に感じて、水の精霊を取り戻す事だけに集中しなさい。君の真に望むものだけを見るんだ」

イスタークの力強い瞳を真正面から見返し、カウティスは深く呼吸する。

「…………はい、猊下」

握る右手のいびつな聖紋が輝いた。






領街のオルセールス神殿は、南側門から少し離れた所に建っている。

神殿も、この街の他の建物と同じように、浸水被害を受けていて、床や壁の下部は乾いた泥で汚れていた。


神殿の多くは、基本的に平屋造りだ。

その代わり屋根が非常に高く、上部の窓の開閉や神祭事にタペストリーを吊る為に、壁に沿って通路のような二階部分がある。



今、セルフィーネはその二階部分にいた。

リィドウォルはここにセルフィーネを据えた後、護衛騎士のイルウェンと階下に降りた。

剣呑けんのんな声が僅かに聞こえるが、セルフィーネにそれを聞く余裕はなかった。


運ばれる時に使われた毛布の上で、セルフィーネは、その殆どが赤黒い泥に覆われた身体を横たえている。


顔面の白い肌は、既にない。

領主邸からの脱出の際に傷を受け、国王の黒い気配と憎悪の念にさらされて、止まっていたセルフィーネの泥化は進んでしまった。


淡紅色の薄い唇があった部分から、ヒビ割れた石の間を空気が通るように、ヒューヒューと微かな音を立てて、浅い呼吸を繰り返している。

泥に埋もれた宝石のような紫水晶の瞳は、右には赤い靄のような影が出来ていた。

唯一無事に残っているのは、右手首から先だけだったが、その境にもただれが溢れ始めていた。




セルフィーネの周りを、多くの精霊達が飛ぶ。


« ここにいてはいけない

 この地の気は毒になる 遠くへ行って »


セルフィーネがいくら呼びかけても、精霊達は声を聞かせてくれなかった。

だが、決して離れていかない。


この街の全体を、多くの精霊が覆っている。

彼等は、セルフィーネの居場所を隠しているのだ。

人間にとって、どれ程魔術素質が高くても、精霊は正確には掴めない魔力だ。

それがこれ程集まって街を覆えば、魔力を感知する感覚は完全に狂わされる。

セルフィーネの魔力を追おうとしても、これでは出来ないだろう。


しかし、逆に、この街の何処かにセルフィーネが留まっている事も、ザクバラ国王に知れているはずだ。

街の中心からは、憤怒に満ちた黒い気配が漂い、じわじわとその範囲を広げているように感じて、セルフィーネは息苦しさを増した。



ここにセルフィーネを据えた時、リィドウォルは、月が出たらどうにか街を出て、ネイクーン王国へセルフィーネを引き渡しに行くと言った。

それを信じて良いのか、思考は鈍ってもう分からない。




セルフィーネは採光窓から見え始めた、夕の赤い光を見詰めた。


カウティスがきっと近くに来ているはず。


―――会いたい。


その気持ちだけが、セルフィーネの胸に僅かに光を灯していた。



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