交錯 (3)

セルフィーネは馬車の中から視界を伸ばす。

魔力封じの足枷を外したので、外す前よりも楽に魔力を動かせた。

もっとも、セルフィーネの魔力量では、付けていても殆ど効果はなかったが、気分的にずっと楽になった。



まず、街の外壁から領主別邸付近までを見た。

壁外まで浸水被害の影響はなさそうだったが、この辺りは水捌けが悪いようで、季節的な影響もあってか、地面は乾ききっていない。

沼狼が移動しようとすれば、難なく移動できそうだった。


半実体を解くことが出来れば、そこへ降り立って、水気を抜いてやることも出来るが、ここからでは困難だ。

ひとまず、壁外に魔獣が出ていないことを確認して、セルフィーネは視界を大きく広げる。



貯水池で、討伐隊が魔獣と戦っているのが見えた。

今回の討伐隊は、水魔が相手ということで魔術士を中心とした構成になっている。

見た限り、水上を素早く動き回る沼狼相手でも、順調に数を減らしているようだ。


セルフィーネの見ている前で、リィドウォルの放った風魔術が一体を切り裂き、水面に鮮血が散った。

「っ!」

その光景に、反射的にセルフィーネは視界を戻す。

血は、いやだ。


馬車の入口側に陣取っている魔術師長ジェクドが、怪訝けげんそうに尋ねた。

「どうした?」

「…………血が見えただけだ」

残っている美しい半顔が、僅かに歪んでいる。

「……貯水池の討伐は順調だ。壁外に魔獣は出ていないが、やはり街の方には下りているようだ。……もう少し、街を見てみる」

軽く首を振って、セルフィーネはもう一度視界を広げる。

貯水池は見ず、街の中へ視線を移した。




外壁の門はどこも、魔獣を外へ出さない為か、衛兵らしき者が数名ずつ見張りについていた。

領主が指示を出して統率しているのだろう。


浸水した後の泥濘ぬかるみはひどく、今後の状態回復の作業は困難だろうと思われた。

そのひどい泥濘みの中、郊外の領主別邸へと向かう側の門の近くで、魔獣と戦っている者が二人いるのを見付けた。

泥で汚れているが、一人のあの白いローブは、オルセールス神聖王国の聖騎士なのではないだろうか。

聖騎士が魔獣と戦っているというのは、どういう状況なのだろう。


群れの半数近くが獲物を求めて移動したのか、まだ無事な沼狼が五、六体程、二人を半円状に囲んで、襲いかかるタイミングを計っていた。


もう少し視線を寄せようとして、セルフィーネはひるんだ。

魔獣数体を斬り倒した彼等の周りには、遠目で見ても多くの血が散っている。


側にいないセルフィーネには、手助けするすべもないのだから、これ以上は見ない方が良い。

そう判断して、視界を馬車に戻そうとした時、聖騎士が長剣を振って、飛び掛かってきた沼狼の首を飛ばした。



「…………まさか……」


セルフィーネは目を見開く。

身体に震えが走るのに、鮮血をまき散らす光景から目が離せない。



数体同時に飛び掛かった沼狼をかわし、短剣を構えたもう一人の男と連携して、更に一体を斬り伏せる。

沼狼の爪が聖騎士の腕をかすった瞬間、耐えきれずにセルフィーネは視界を戻した。




「あっ……あ……っ」

突然、右手で泥のような胸を押さえ、あえぐように顔を歪めた水の精霊に、驚いてジェクドが寄った。

「どうした! 領民に被害があったか!?」

セルフィーネの耳には、ジェクドの声は聞こえていなかった。

今見た光景だけが、頭の中を占める。


そんなはずはない。

あれは聖騎士だ。

黒髪でもなかった。

でも、でも……。


セルフィーネは胸に当てた手を握る。

あの動き、あの太刀筋を見間違えようがない。



―――カウティスだ。



どうしてあそこにいて、どうして聖騎士の姿なのか分からない。

でも、あれはカウティスだ。

顔を見ることも出来なかったのに、セルフィーネは確信した。

では、側にいた灰色の髪色の男は、きっとラードなのだろう。


「…………駄目……」

目の前のジェクドを見ることもなく、セルフィーネは震える声で呟いた。

魔獣に取り囲まれていた二人を思い出し、首を振る。


助けなければ。


ただそれだけを考えて、セルフィーネは半実体を解こうとした。

赤黒い泥の塊のような身体が、グズグズと歪み、全身に痛みが走る。

「っっ……ん……!」

「おいっ、やめろ、どうしたんだ!」

訳が分からず、ジェクドは座面に敷かれたままの毛布でセルフィーネを包む。

セルフィーネは毛布の中で藻掻いたが、どうやっても痛みが走るだけで、泥化した半実体を解くことが出来なかった。


早く、早く助けなければ。

それしか考えられなかった。

カウティスの腕に魔獣の爪がかすった光景がよぎり、居ても立ってもいられず、セルフィーネは半実体を解くことを諦めて、広がった魔力を集めていく。





「まったく! ザクバラの討伐隊は何やってるんだか」

ラードが刃こぼれした短剣を一瞥いちべつして、憎々しげに吐いた。

目の前には、まだ三体の沼狼が残っているが、一体は確実に他の個体よりも一回り大きかった。

おそらく、あれが群れのボスだろう。


領街こっちにも下りて来てるって知らせてやったのに、まだ来やしませんよ」

カウティスは魔獣から目線を逸らさず、軽く苦笑する。

「言ってやるな。貯水池むこうに残っている数が、思ったよりも多いのかもしれない」

数体斬って、その内の二体は首を飛ばしたというのに、カウティスの長剣には刃こぼれ一つない。

しかし、沼狼の血は少々滑るので、手元に散った返り血を気にしている様子だ。

足元の泥濘ぬかるみも相まって、時間が経つ程に戦いづらさが増す。


カウティスは深く息を吐きながら、群れのボスに狙いを定める。

「……一気に行くか?」

もう一本の短気を抜いて、ラードが目をすがめた。

「司教がいるから少々怪我してもいいと思ってるなら、駄目ですよ!」

軽くカウティスが唇を歪めたと同時に、ズッと足元が滑るように、地面が揺れた。



「地震か!?」

二人は腰を低くするようにして、足に力を込める。

沼狼も何やら叫びを上げて、地面に這いつくばった。


「違う……何だ?」

地震のように揺れていない。

それなのに、何故か足元がじわりと動いているように感じる。

周囲を見回そうとした視界の端に、揺れる魔力の層が映り、カウティスは弾かれたように上を向く。


「セルフィーネ!」

空に広がる水色と薄紫の魔力の層が、何層も重なるように集まって、色を濃くしていく。

まるで、晴れていた空に一角雨雲が出来たように、この一帯にだけ濃い紫の魔力が波打った。

「カウティス様! 下から……」

魔力が見えないラードは、空の異変には気付かず、地面を見て顔色を変えた。

動いていたように感じた地面は、泥濘ぬかるみが乾き始めていた。

代わりに湯気のように、足元をもやが覆っていく。


「セルフィーネ! いるのかっ!?」

魔獣の存在を忘れて、カウティスは叫んで素早く辺りを見回した。

これ程大規模に魔力を動かして水を操るなら、そう遠くない所にいるはずだと思った。

半実体を解いていても、今のカウティスなら見える。

「セルフィーネ!! 俺だ! 俺はここにいる!」

カウティスは声を張り上げる。



苦しく濁った雄叫びが耳に響き、カウティスは舌打ちするようにして、視線を戻す。


三体残っていた沼狼が、四つん這いに近い格好で背を向けた。

明らかに苦しんでいる様子で、貯水池の方へ走り始める。

「逃げる気か!?」

倒しておかねばならないと、武器の柄を握り直した二人の目の前で、ズアッと一気にもやが質量を増した。


一瞬視界が真っ白になり、次の瞬間には、広く空に霧散する。



靄が全て晴れた時、二人の目の前には、乾ききった街の景色と、ほんの僅かな泥濘ぬかるみすらなくなって、乾いた土を散らして苦し気にのたうつ、三体の沼狼の姿があった。






馬車の中で、毛布に包んだ水の精霊を押さえていたジェクドは、そこから立ち昇る尋常ではない魔力に圧倒されて手を離した。

はらりと毛布が滑り落ち、見えた水の精霊の半顔は作り物のようで、その目は硬質に輝き、ここではないどこかを見ている。


暫くして、唐突に立ち昇っていた魔力が消えると、水の精霊は目を閉じて、起こしていた上半身を崩れるように倒した。



「お、おい!」

我に返ったジェクドが、近寄って毛布越しに揺らす。

水の精霊は薄く目を開いた。

その白い肌は、血の気が引いて紙のようだった。

「お前、一体何をした?」

「…………街に、魔獣が下りていて……、戦って……血が……」

うわ言のように呟いて、水の精霊はゆっくりと目を閉じていく。

ジェクドは顔を近付けて尋ねる。

「領民は? 皆は無事か!?」



セルフィーネは、薄らいでいく意識の中、空に向かって叫んだカウティスの姿を思い出す。


『俺だ! 俺はここにいる!』


あれは、やはり確かにカウティスだった。

来てくれた。

あんなに近くにいた。

もう少し、もう少しで、きっと会える……。



セルフィーネの瞳に涙が滲む。

「答えろ、水の精霊! 皆は無事だったのか!?」

誰かの声が響いて、セルフィーネは口を開く。


街を乾かして、沼狼は動けなくなった。

もう、カウティスは大丈夫。


「……大丈……夫」

細く呟いて、閉じたセルフィーネの瞳から、涙が一筋流れ落ちた。





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