迫られる選択
水の季節後期月、二週二日。
カウティス達は、この街に駐在中の女司祭と神官を加え、日の出の鐘半に神殿を出発して、北に向かう街道を進む。
この先の領地で水害があり、郊外の領主の別邸付近へ避難しているという、領民の救護状況を見に行く。
領地の薬師や、近隣の神殿から神官が向かっているはずだが、水害の後に魔獣の出現で死傷者も出ているというので、必要であれば救護協力することになる。
イスタークは馬を進めながら、カッツと共に前を行くカウティスを見た。
聖職者の旅装である白いローブを着たカウティスは、今朝の出発前に、髪を色粉で茶色に染めてある。
ザクバラ国人は、殆どが黒髪黒眼だ。
オルセールス神聖魔法の視察団が人々の中に入れば目立つのに、そこに黒髪青眼の者が混じっていれば、否が応でも目を引く。
昨夜聞いたところでは、ネイクーン王弟の聖職入りはザクバラ国までは聞こえていないようだったので、今は目立たない方が良いだろう。
“
しかし、予想以上の早さで回復したのは、カウティス本人の基礎体力の高さによるものか。
カウティスの周りにあった、弱々しい褪せた魔力は、空の魔力が全て色を取り戻すと同時に消えた。
弱いなりにも神聖力を手に入れているカウティスには、自身の周りにあった魔力が消えたことに気付いたようだった。
しかし、険しい表情を浮かべながらも、空に輝く魔力の層を見て奥歯を噛んでいた。
どのような心境だったのかは分からないが、水の精霊を取り戻すまでは、全ての事に黙って耐えるというような彼の横顔に、イスタークは不覚にも感心した。
昨夜、空の魔力が変化した起点は、
意図しなくてもカウティスと水の精霊が引き合うのは、やはり神の意志なのだろうか。
イスタークは、既に太陽に替わっている東の空を見上げて、眩しさに焦茶色の目を細める。
ザクバラ国の淀んだ気は、誰もが入国してすぐに感じた。
まるで空気が汚れているかの様で、息苦しい気分になった。
中央の方向は、今も太陽が出ているのに暗く見えるような気さえする。
それでも、昨夜水の精霊の魔力が戻ってから、まだ半日も経っていないのに、心なしか息苦しさが減ったようだ。
ザクバラ国が水の精霊に執着し続ける理由が分かる気がして、イスタークは白いローブの上から胸の金の珠を軽く握り、前を行くカウティスの後ろ姿を見た。
リィドウォルが宿で目を覚ましたのは、日の出の鐘が鳴って半刻は経ってからだった。
起き上がってすぐ、背中を中心とする身体の痛みに顔を
昨夜気を失った時に比べれば、倦怠感はずっとマシだったが、時間が経って却って打ち身の痛みが際立った。
村には小さな神殿があったが、老神官一人しかおらず、その者が神聖魔法を施したというから、これでも多少和らいだのだろう。
「慈悲を乞うた?」
用意された食事に手を付ける前に、リィドウォルはジェクドに聞き返した。
正面で半分程食べ終わっているジェクドが、グラスを煽ってから、小さく頷く。
「正気に戻って泥化は止まり、魔力も本来のものに返った。それなら、何かしらの働き掛けはやってみるべきだろう?」
「……それで? 水の精霊はどんな反応を?」
リィドウォルがスプーンを手に取る。
腕を動かすと、背中が軋むのが忌々しい。
「迷いが生じたという感じで、黙ってしまった。はは、慈悲深い水の精霊らしいことだ。あの分なら、多くの者が泣いて懇願すれば、ある程度の要求は飲むかもしれんぞ」
リィドウォルが眉根を寄せたのを見て、ジェクドは持っていたフォークを置いて、料理が半分程残った皿を避けた。
貴族が宿泊するような宿ではないので仕方がないが、簡素な味付けで量だけは多い。
「リィドウォル。昨夜諦めるつもりになっていたんだ。情に訴えて駄目なら、もう諦めろ」
「何を……」
ジェクドはズイとテーブルの上で前のめりになり、より深くなったリィドウォルの眉間のシワに人差し指を向ける。
「大体、あの精霊には、情に訴えて懐柔する方が効果がある。お前もそうするつもりだったろう。だが、陛下の容態が変わって時間がなくなったから、
リィドウォルは目前の指を払う。
「しかし、それではタージュリヤ殿下にも、その先にも、詛の影響が出ることになるのだ」
「それがどうした。今までもザクバラ国はその時々の困難に、その時生きている者達が立ち向かってきた」
何処か達観したように言って、ジェクドは懐から煙草入れを取り出し、一本摘み取る。
「俺はな、リィドウォル。今詛を解くことが出来なくても、先の事は次代の者達が何とかすればいいと思っている。……今になって考えれば、ザールインの判断はあながち間違ってなかったのかもしれん。国政を乱し始めた陛下を止め、“血の契約”に縛られた数多くの者を生かして使う為に、陛下の意識を奪って軟禁した。……いっそ、今からでも陛下を以前の様な状態に戻せばいいとすら思うね」
リィドウォルがガタンと音を鳴らして、椅子から立ち上がる。
テーブルの上に前のめりになって、巻煙草をくわえようとしていたジェクドの、黒い上着の肩口を掴んだ。
摘んでいた巻煙草が手を離れ、テーブルの上を転がる。
「馬鹿を言うな! ザールインが間違っていなかっただとっ!?」
「結果的には、陛下に民を殺させずに済んだろう」
リィドウォルは息を呑む。
この二年強、確かにザールインは悪政を敷いたが、不要に民を殺しはしなかった。
王が目を覚ましてからの方が、次々と人が死んでいる。
「……今朝の魔術士館からの通信で、昨夜穏健派の貴族院数名が処断されたと」
目を見張るリィドウォルの手を引き離し、ジェクドが巻煙草を拾う。
「何かおかしいと感じ始めている者は多い。このままでは、陛下を討たんとする
何か言おうとリィドウォルは唇を震わせたが、言葉は出なかった。
ジェクドが煙草を咥えて火をつける。
「情に訴えて駄目なら、諦めろリィドウォル。陛下を落ち着かせて、水の精霊の三国共有が続けば、少なくとも淀んだ気は弱まり続ける」
立ち上がって固まったままのリィドウォルを見上げ、ジェクドは白い煙を吐いた。
「…………俺は、今
リィドウォルは、水の精霊が入れられている部屋に向かう。
王城から魔獣の討伐隊が到着すれば、リィドウォルも隊に加わって貯水池へ向かう。
討伐が終われば、状況を確認して王城へ戻らなければならない。
水の精霊は魔術士館に任され、水害の起きた地に留める為、リィドウォルが王城の外で水の精霊と話せるのは、これが最後かもしれない。
リィドウォルが部屋に入ると、水の精霊は正面の寝台の上で、横座りに座って上体を起こしていた。
自力で動くことは出来ず、狂いかけて泥化が進行してからは、半実体を解くことも出来ない。
その為、部屋の中に魔術士が一人見張りとして付いているだけだった。
リィドウォルが指示して、魔術士が部屋を出ると、水の精霊はリィドウォルの方を上目で見た。
昨夜まで虚ろだった紫水晶の瞳には、はっきりとした警戒の色があったが、意思のある光が灯って輝いていた。
全身は赤黒い泥の塊のようで、所々に僅かに残っている白い肌が異様に浮いて見える。
ジェクドの話では泥化は止まっているというが、魔力が回復しても、その姿は元に戻せていないようだ。
話をするつもりで来てはみたものの、一体何をどう話せば良いのものか。
口を開くことを
「私の
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