思い遣り (3)
キンと耳の奥から頭の芯に痛みが走って、カウティスは強く顔を
身体の表面に、圧迫感を感じる。
鼻から入る空気は粘るようで、息苦しい。
目を開けたくても、瞼がやけに重い。
神殿の前庭にいたはずなのに、明らかに自分がいてはいけない場所に立ってしまったような気がして、酷く身体が強張った。
それなのに。
するりと、左頬に微かに触れた柔らかなものが、僅かにひんやりと感じた瞬間、カウティスの身体中に血が巡った。
反射的に瞼をこじ開ける。
辺りは全て、光に包まれていた。
青白い光、仄かに赤味がかった黄色の光に、時折青銀と赤金がチラチラと混じる。
光の中に埋もれて、立っているのか浮いているのかもよく分からない。
だが、そんなことは瞬間的に頭から吹っ飛んだ。
目の前に、セルフィーネがいた。
光に埋もれて、胸から上しか見えない。
しかし、そこから右腕を伸ばして、指先をカウティスの頬に添えていた。
「セルフィーネ!」
カウティスは両手をセルフィーネの身体に向けて差し出そうとしたが、纏わりつく光と圧迫感に、上手く動くことが出来なかった。
「……カウティス……本当に、カウティスなのか」
セルフィーネの虚ろな瞳が潤む。
右半分がヒビ割れたような唇が動き、震えるような声でカウティスの名を呼ぶ。
光の中で見えているセルフィーネの姿は、殆どが泥化していた。
美しい顔は、左半分の眉から下が辛うじて肌の色を見せていたが、右半分は瞳以外は赤黒い塊に覆われている。
細く艷やかなはずの髪は、濁った青に染まって重く垂れ下がり、見えている胸上も、無事なのは右肩周りと、伸ばしている右手首から先だけだった。
その無惨な姿を前にして、カウティスの身体の奥底から大きく震えが走った。
何てことだ!
どうしてここまで……!
カウティスの中に、言いようのない怒りが込み上げそうになると、セルフィーネが切な気に首を振った。
頬に添えられた指先から、弱々しくも清浄な光が流れ込む。
「カウティス、お願い、駄目……。すまない……、私のせいだった、私が……」
はあと苦し気に息を吐いて、セルフィーネが声を詰まらせた。
「しっかりしろ、セルフィーネ! すぐに助けに行く! そなたは今、何処にいるのか分かるか」
重く固められたような身体を強引に動かし、カウティスは歯を食いしばって、鉛のような腕を上げる。
ぶるぶると震える指を、セルフィーネの白い頬に添えた。
セルフィーネの瞳が潤みを増し、涙が盛り上がる。
カウティスの問いかけに答えず、セルフィーネは謝罪する。
「ごめん……なさい……、すまない……カウティス」
「謝るな、そなたは悪くない! 助けに行くから、居場所を教えてくれ。頼む、セルフィーネ!」
カウティスが何を聞いても、セルフィーネは苦しそうに喘ぎながら、謝罪を繰り返した。
カウティスは困惑して眉根を寄せた。
セルフィーネが狂いかけているからなのだろうか。
それとも、この特殊な場が原因か。
混乱しているのか、恐慌状態なのか分からないが、こちらからの問いかけが通じない。
ただひたすら、セルフィーネはカウティスに謝るのだ。
この光の世界からいつ元に戻されるのか分からず、カウティスは焦った。
助け出す為には、早くセルフィーネから情報を得なければならない。
「セルフィーネ! 教えてくれ! 今何処にいる!?」
セルフィーネの頬に添えた指先に力を込めたが、彼女は尚も切なく謝罪の言葉を口にして、涙を零した。
「……ごめ……な……さ……」
カウティスは彼女の頬を流れる涙に、胸を突かれた。
何の謝罪なのか分からない。
けれどもセルフィーネは、これ程酷い状況を脱するよりも、ただカウティスに何かを心から謝りたいのだ。
身体中の力を振り絞って、一歩前に踏み出す。
そして、セルフィーネの頬に添えていた右手を、彼女の垂れ下がった髪に差し込んで後頭を引き寄せると、謝罪を繰り返す乾いた唇に口付けた。
カウティスの左頬に添えられていた、セルフィーネの白い手が滑り落ちる。
は、と小さな吐息がセルフィーネの唇から漏れた。
カウティスは、その吐息も飲み込むように深く口付け、行き場を失くしたセルフィーネの右手を握った。
セルフィーネの右手が、弱々しくカウティスの左手を握り返すのを感じて、カウティスは唇をそっと離す。
そして、彼女の唇が再び謝罪を口にする前に、優しく言った。
「許すよ」
カウティスはセルフィーネの瞳を覗き込んで、微笑んだ。
「そなたが謝りたいことがあるのなら、俺は許す」
セルフィーネのヒビ割れた唇が、細かく震える。
「……私……、ごめんなさい……私が……」
「セルフィーネ、大丈夫だ。そなたの謝罪を受け入れるよ」
セルフィーネの後頭部を震える指で撫で、出来るだけそっと抱き寄せる。
「聞いてくれ、セルフィーネ。俺はそなたと出会えて、幸せなのだ。いつだって自分の未来は出来る限り自分で選び取ってきた。俺は、この先も、ずっとそなたに側にいて欲しい」
カウティスの左手が、セルフィーネの手を強く握る。
「だから、そなたが俺に謝りたいことがあるというのなら、俺は全て許すよ」
セルフィーネの虚ろだった目から涙が溢れる。
涙と共に濁りが流れたかのように、紫水晶の瞳に光が戻った。
「…………カウティス。カウティスが、好き……。ずっと、……側にいたい」
ようやく、セルフィーネの口から謝罪ではない言葉が出て、カウティスは安堵の息を吐いた。
「俺も好きだ、セルフィーネ。約束したろう? ずっと側にいてくれ」
カウティスが身体を離し、紫水晶の瞳を覗き込んで尋ねた。
「教えてくれ。そなたは、今何処に……」
突如、耳を圧迫するような、耳鳴りの音が再びして、弾けた。
カウティスは弾き飛ばされるようにして、オルセールス神殿の前庭に落ちた。
受け身がまともに取れなかった上、突然空気が喉を通って、激しくむせる。
身体の圧迫感がなくなった代わりに、解放された身体から汗がどっと吹き出て、立ち上がれずに四つん這いになった。
激しい倦怠感が襲い、肩で息をする。
「カウティス様!」
ラードが駆け寄って助け起こす。
「くっ……、もう少しだったのに……」
悔し気に石の床を掻くカウティスを、ラードが長椅子に座らせる。
「一体、どうなったんです!? おかしな音が聞こえたと思ったら、急に姿が消えて……、大丈夫ですか?」
顔色の悪いカウティスは、困惑して首を振った。
「消えた……?」
ラードが言うには、耳鳴りがして一瞬目を閉じたら、目を開けたときにはカウティスが消えていたという。
慌てて周囲を捜している僅かの間に、ここにカウティスが戻っていた。
「一体何がなんだか……」
「“
突然近くで声がして、二人は顔を上げる。
簡素な法衣を着たイスタークが、側で見下ろしていた。
異常事態で混乱していて、イスタークが近くまで来ていることに気付かなかったようだ。
「異常な魔力の動きを感じて出て来てみれば……、君は本当に予測不能だな」
立ち上がりかけるカウティスを制し、イスタークは寛いだ法衣の首元から金の珠を取り出して握り込むと、カウティスの額に手を
イスタークの掌に淡い金の光が見えると、カウティスの倦怠感が薄れていく。
「猊下、……“魔穴”とは何ですか?」
「精霊が突発的に、別の世界層へ繋げる場のことだ。狂った精霊がバランスを崩して魔界に繋げる事が多く、そこから魔獣が湧くのでそう呼ばれるようになったが、本来は魔界に限ったものではない」
カウティスはそれで納得がいった。
精霊は世界を繋げる役割を担っている。
きっと彼等がセルフィーネとカウティスの場所を繋げたのだ。
「その様子だと、魔穴で水の精霊に会ったのかい?……いや、聞くまでもないか……」
イスタークがふと空を見上げて、小さく笑う。
カウティスとラードがつられて空を見上げた。
「……ああ! セルフィーネ!」
カウティスの顔がくしゃりと歪み、泣きそうな笑みになった。
月が輝く空に、褪せたような色を
青銀の輝きを散りばめた光が波状に広がり、まるで乾いた大地に水が染み込むように、柔らかく
ザクバラ国の北の国境付近を、一頭の白い翼竜が飛んでいた。
硬質な鱗が浮く筋肉質な身体は、大柄の成人男性より一回り大きい程だったが、両の翼を広げると、優に三倍以上に見える。
翼竜は、竜人ハドシュの変態した姿だ。
竜人族は竜の姿で生まれ、成長と共に
しかし人間は、翼竜の姿を魔獣と同様に感じるらしい。
世界に人間が増えて広がる程、竜人族は翼竜の姿を晒さなくなった。
今では、フルブレスカ魔法皇国の人間でさえ、翼竜の姿の竜人族を知らない者が多い。
水の精霊が三国共有となって三ヶ月が過ぎても、ハドシュは契約を破棄することが出来ないでいた。
何度も破棄しようとしたが、魔法陣を前にして
それが何故なのか、自分でも分からない。
いっそ、狂いかけているという水の精霊の魔力をこの目で見れば、思い切りもつくだろうと思い、皇国を出て来た。
夜目の効く魔獣に乗って駆けていたのに、皇国を出る頃に翼竜に変態した。
竜の姿で飛ぶ方が早い。
どうしてこんなに気が急くのが分からないまま、彼は飛んでいた。
ハドシュは飛びながら、周りに広がる褪せた魔力を見る。
こんな魔力になってしまうのなら、さっさと契約を破棄すれば良かった。
ハドシュはギチと牙を鳴らした。
どうせならば、あの美しい魔力の層のまま消した方が、こんな苦しい思いもせずに済んだだろうに。
そう思ってふと、進むのをやめてその場で羽ばたく。
一体誰が“苦しい”のかと、疑問に思った。
水の精霊か、ネイクーン王国の人間達か。
―――それとも、この私なのか。
褪せた魔力に囲まれて、空中に留まっていたハドシュの視界に、輝くものが映った。
ギョロリと盛り上がった深紅の瞳を向ければ、ザクバラ国の中央方面から、魔力の層が波打って押し寄せて来ている。
〘 あれは…… 〙
呆然と見つめるハドシュの前に、見る見る間に波は押し寄せ、彼の身体を、輝く魔力がドウと飲み込んだ。
身体全てを覆い尽くした魔力は、水色と薄紫色の美しい層が揺蕩い、青銀の輝きが散りばめられている。
ハドシュは両手でその魔力を握る。
〘 戻っただと? 何ということだ…… 〙
言った自分の顔が、不器用に表情を作り、笑っていることに気付いた。
〘 は、はははは…… 〙
ハドシュは声を上げて笑う。
何故だか高揚感を増して、遠く遠く、ネイクーン王国の方へ魔力が押し寄せて行くのを、彼はずっと見ていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます