思い遣り (2)

フルデルデ王国の王都にあるオルセールス神殿では、聖女アナリナが、神殿の前庭で夜空を見上げていた。

眩しい程に、月が青白い光を降らせるのはいつぶりだろう。


アナリナは水色の祭服の首元から、銀の珠を取り出して握り、周囲を見回す。

神殿の敷地内なので、護衛は側にはおらず、前庭の門の辺りに衛兵の姿があるだけだ。


そして、アナリナ以外には誰もいない月光で明るい前庭に、ふわりと精霊の光が踊る。





あの日。

一週四日の早朝に、ふと目が覚めたアナリナは居住棟を出た。

日の出の鐘にはまだ時間があるようで、東に傾いた月は、まだまだ明るい光を放っていた。


だが、その空に広がるセルフィーネの魔力は、あまりにも辛い色合いだ。

きっと彼女は、ザクバラ国の何処かで、一人きりで苦しい思いをしているはずだ。


アナリナは薄桃色の唇を噛んで、月を睨んだ。

神々は、この世界に生きる者に様々な試練を与える。

しかし、気まぐれに力を貸してはくれるが、常にその試練に打ち勝てる手助けをしてくれるわけではない。

毎日、それこそアナリナが数え切れない程に祈っていても、月光神はセルフィーネを助けてはくれなかった。

だからアナリナは、今は月光神に祈るよりも、この光がセルフィーネに届いたら良いのにと思った。



そんなアナリナの目の前を、ほのかに青味がかった白い光が、スイと横切った。

世界中に存在する、水の精霊だ。


アナリナは思わず、その光に手を伸ばす。

「ねえ! あなたの仲間が苦しんでいるわ。助けてあげられないの?」

人間に、精霊の存在は正確には掴めない。

魔術士にとっては当たり前のことだが、セルフィーネと意思の疎通が出来るアナリナには、精霊はそれ程遠い存在には思えなかった。

「お願いよ。セルフィーネを……あなた達の仲間を助けて」

アナリナは周囲に見える限りの精霊達を、順に見遣る。


「ねえったら! もうっ! せめて、この光を届けてあげてよ!」

何も出来ないもどかしさに、半ば自棄やけになって言ったアナリナの身体から、神聖力の白い光が湧いた。



突如、アナリナの身体を精霊達魔力が包み込んだ。

驚いたアナリナの耳に、耳鳴りにも思える音がワッと響き、思わず顔をしかめる。

しかし、それはほんの一瞬で、目を開けた時には周囲に一つも精霊の光は見えず、辺りは静まり返っていたのだった―――。





アナリナは、冴え冴えと輝く月を見上げる。

あの時、確かに精霊達はアナリナの願いに反応したのだと思う。

それがどういうものだったのか、人間のアナリナには分からない。

それでも、精霊達もセルフィーネを救いたいのだと感じた。


前庭を、精霊達の光が通る。

月光の中では分かり辛いが、カウティスには見えるだろうか。

カウティスがどういう状況に置かれるのか分からず、曖昧あいまいな文しか送れなかったが、彼が何かを感じ取ってくれることを願う。


セルフィーネを救えるのは、きっとカウティスしかいないのだ。


「カウティス、セルフィーネを助けて」

アナリナは丸い月を見上げて呟いた。






ザクバラ国の村の高台で、リィドウォルの腕に抱き抱えられて、セルフィーネは久し振りに月光を浴びた。


芯まで冷え切ったような身体には、冴え冴えとした光さえ劇的な救いにはならなかったが、その染み入るような心地良さに、自然と細く細く息が漏れる。

やっと呼吸が出来たような気すらして、何とか動かせた右手で首元を撫でるが、指先に触れた感触は粘る泥のようで、右手は再び力なく垂らされた。


もう、殆ど身体を動かす事が出来ない。

月光の清浄な輝きも、汚泥のようになったこの身体をすぐには浄化出来ないだろう。


セルフィーネは再び、細く息を吐いた。

留置場で夜空に視界を広げた時、アナリナの優しい声が聞こえた気がした。

その声に、どれ程勇気づけられたか。

アナリナは心配しているだろう。

マルクも、ラードも、王城の皆も。


―――カウティスも。


「ご……な、さい……」

右端はヒビ割れてしまった薄い唇から、呟きが漏れた。


カウティスに会いたい。

会って、謝りたい。

私がいたずらに魔力を纏わせたことで、背負うはずのなかった重荷を背負わせてしまった。

苦しませたくなど、なかったのに……。

澄んだ青空のような瞳を曇らせるようなことになったのは、私のせいだったのだと、謝りたい。


……そして。

そして、もし許してくれるのなら、それでも側にいさせて欲しいと言いたい。



「ごめ……、さ……」

セルフィーネの呟く声に反応したように、抱き抱えている者の黒髪が揺れる。

セルフィーネの目は、反射的にその毛先を追った。

青味がかったその黒い髪が、セルフィーネの胸の奥を揺さぶる。


カウティスに会いたい。


何十回、何百回と胸に込み上げる想いに、セルフィーネが唇を震わせた時、耳元で小さなが聞こえた。


« 同胞よ 我等を取り込め »


世界中に広がる、水の精霊の声だった。

いつの間にか、側近くに来ていた。


« そのままでは 

 お前は狂ってしまうだろう »

« 出来ない そなた達も狂わせてしまう »


セルフィーネは答えるが、土の精霊も側に来て言う。


« ならば いっそ消えてしまえ

 水源を枯らせば良い

 そうすれば 再生して我等の元に帰れる »

« 駄目 決して消えないと約束した »


精霊達が揺れる。

風の精霊も近寄り、セルフィーネの身体を撫でた。


« このまま狂えば 長い年月再生も出来ず 

 苦しむことになるのだぞ »

« それでも良い

 いつか 必ず側に戻ると約束したから »


かたくななセルフィーネに、精霊達がざわめくようにサワサワ密かなを立てて、周りを動いた。


« お前は以前 我等を助けた 

 今度は我等がお前を助けたいのに 

 何の手助けも要らないというのか »

« せめてもう一度 聖女の光を送ろうか »


精霊達の声に、セルフィーネはピクリと指先を震わせた。

あの時、アナリナの優しい気配を届けてくれたのは、精霊達同胞だったのだ。

それなら、それならば。


« ならば カウティスに »

 お願いだ カウティスに伝えて 

 “すまない”と “許して欲しい”と »



精霊達が更にサワサワと動く。

まるで精霊同士が話し合っているようだった。

いつの間にか、多くの精霊達が集まって、セルフィーネの身体を取り巻いていた。


« 我等は人間の言葉は話せない 

 繋げてやるから 自分で伝えるが良い »


サワサワとしたが、突如膨張したように破裂した。




リィドウォルはセルフィーネを抱えたまま、高台で立ち尽くしていた。

掛ける言葉を探したが、何も口にすることが出来なかった。

悪意の籠もった上辺だけの言葉を掛けてきたのに、今更何を言えるだろう。

今どんな言葉を発しても、水の精霊の害にしかならない気がして、ただ黙って、共に月光を浴びていた。


ふと、リィドウォルは、周りに幾つもの精霊の小さな光があることに気付いた。

精霊の魔力は世界中に広がっているが、魔術素質が高くても、人間の目には曖昧あいまいに映る。

普段、自然の中に光を見ることがあっても、気になる程身の周りには見えないのに、どうしたことだろう。


眉根を寄せて考えている僅かな間にも、精霊の光は数を増していく。

「……これは何だ」


抱えた水の精霊に群がるように光が集まり、毛布を掛けた身体が光で覆い隠されていく。

リィドウォルは全身が粟立ち、おののいて下がろうとしたが、身体が強張って動けない。

水の精霊だけは離すまいと、腕に力を込めた時、耳に耳鳴りのような音が聞こえ、一気に破裂したように弾けた。






ラードは明日の支度など、細々したことを終えて、カウティスを探す。

イスタークによれば、今夜はもう務めから開放されたらしいが、神殿の居住棟に割り当てられた部屋には帰っていないようだった。


カウティスのことだから、落ち着いて眠れず、剣を振っているのだろうと思い、神殿の前庭に出てみると、水場の側に人影を見付けた。




「探しましたよ。……それ、聖女様からの通信記録でしたっけ?」

水場の長椅子に腰を下ろし、何やら紙を広げているカウティスを上から覗き込んで、ラードが言った。

「ああ。さっき、猊下に『アナリナの言う通り、月光神と眷族に祈れ』と言われたのだが、少し引っ掛かって……。ほら、ここ」

カウティスが紙を指差す。

今夜は眩しい程に月が輝いていて、外灯なしでも文字を読むのに苦労はなかった。

紙には、アナリナの憤りを含む文が短く綴られている。


  精々、月光と眷族に毎晩祈りなさい!


「“月光神”ではなく、“月光”とあるだろう? 月光神の聖女であるアナリナが、こんな間違いをするだろうか」

「通信記録の間違いでは?」

ラードが首をひねると、カウティスも又、軽く首を傾げた。

「そうかもしれないとは思ったが、眷族に祈れとは何だろう。南部への巡教に同行したが、アナリナが眷族精霊に祈っているのは見たことがない。やはり、これは意味のあるメッセージなのだと思う」



カウティスは紙の上の文字を、指先でなぞる。


アナリナは、カウティスが聖紋の欠片を持っていたことを知っている。

それを自らさらして、今この時に聖職者となった意味を、彼女なら察するだろう。

それならば、きっとこの言葉にも意味がある。


「月光と眷族……」

呟いてカウティスは顔を上げた。


今夜の月は、惜しみなく青白い光を降らす。

この光をセルフィーネが浴びることが出来るなら、どんなに彼女の救いになるだろう。

「セルフィーネ……」

ふと、見上げる青白い月に、光が滲んだ。

カウティスは目を瞬く。

気のせいかと思ったが、月が青白く光を降らせる中に、時折ほのかな光がチラチラと混ざっている。



「月光と……、精霊の光……」



光は、月光に混ざるとよく目を凝らさなければ分からなかったが、確かにあれは精霊の魔力だ。

目を凝らしている内に、耳鳴りのような微かな音が聞こえてきて、何故だか分からないが、カウティスには精霊達が何かを訴えているような気がした。


カウティスは無我夢中で立ち上がり、月に向かって手を伸ばした。

「精霊達よ! 水の精霊に力を貸してくれ!」

胸の珠を、服の上から右手でキツく握り締める。


セルフィーネそなた達の同胞に! どうか!」



カウティスの懇願に反応したように、耳鳴りのような音が大きくなって、破裂したように弾けた。






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