思い遣り (1)
水の季節後期月、二週一日の日の入りの鐘が鳴った。
フルブレスカ魔法皇国、竜人族の管轄区域。
竜人シュガは、旅装の濃灰色のローブを纏った兄のハドシュを見て、
「兄者、今日戻ってきたばかりだというのに、こんな時分に何処へ行くつもりだ?」
ハドシュは
今日戻って来て、報告を終えたばかりだった。
大きな爪で器用にフードを被り、ハドシュはのっぺりとした顔で、口だけを動かす。
「ネイクーン王国へ向かう。水の精霊の魔力をこの目で確認する」
シュガは呆れたように口を開ける。
その仕草はまるで人間のようだが、目には感情が現れておらず、ちぐはぐな印象だ。
「まだ水の精霊にこだわっていたのか? 兄者が
新皇帝になってからのフルブレスカ魔法皇国は、未だ纏まりに欠けているので厄介だった。
皇帝は、竜人族に手綱を引かれることをあからさまに拒否する。
暫くは
水の精霊が三国共有になり、引き伸ばされて消えるかと思われた魔力が、徐々に回復していたのは知れている。
それがここにきて、急激に劣化したような状態になったという報告を聞き、シュガは、特殊であってもやはり精霊は精霊だったと思った。
ここまでくれば、放っておけば消滅するだろう。
それよりも皇国としては、水の精霊が消滅した後の、三国の均衡を気にせねばならない。
「この目で確認してから決める。皇国担当のお前が口を出すことではない」
ハドシュは無表情に言ったが、血のような深紅の瞳には、僅かな怒りが込められた。
水の精霊が三国共有になった時、シュガが出張って来た事を、未だに良くは思っていないのだ。
「……これは、兄者は本当に水の精霊に
シュガは軽く鼻で笑う。
しかし、ハドシュは相手にせず、大きな体躯でスルリと横を擦り抜けて行く。
一人残されたシュガは、はは、と乾いた笑い声を出した。
竜人族すら、変わっていく。
変わらないものなど、ないのだ。
「……
シュガは去って行くハドシュの後ろ姿を見詰めたまま、僅かに期待を込めた声で呟いた。
ザクバラ国では、リィドウォル達が目的地の領地を目前にして、立ち往生していた。
知らせによると、
堰の修繕の為に集まっていた作業員や兵士達に、死傷者が出た。
水魔を何とかしなければならないが、領地民の避難等に自警団や駐在兵の多くは出払っていて、残っていたのは修繕目的の人員が殆どだ。
リィドウォル達の一行も、魔術士と護衛騎士が数名ずつはいるが、魔獣討伐にはとてもではないが戦力が足りない。
しかも、既に領民から王城に救難を求める知らせも送られたという。
太陽が隠れてから、魔獣の討伐は出来ない。
今夜準備を整えれば、明日、早ければ午前の二の鐘半には、王城から討伐隊が来るだろう。
馬車の外に立ち尽くして、リィドウォルは歯噛みした。
領地の手前の村までは来たが、既に手詰まりだ。
水の精霊に、何としてでも
「リィドウォル……」
ジェクドに声を掛けられ、リィドウォルは深く息を吐いた。
「……終わりだ。これ以上水の精霊を抱えていても、状況は悪化するばかりだ。それよりもまず、目の前の民を救わなければならない」
詛の浄化を諦めるのは苦渋の決断であったが、ザクバラ国の未来のことにこだわり過ぎて、今目の前で苦しんでいる民を見捨ててはならない。
民を優先すると静かに言ったリィドウォルに、ジェクドは深く安堵した。
国王のように、このまま人格が変わるようなことになれば、例え魔術でやり合うことになったとしても、止めなければならないと思っていた。
「明日状況を見て、討伐隊が到着次第、私と魔術士達は合流して討伐に参加する。残りの者達を頼む」
「宰相のお前が参加してどうする! 俺が行く」
ジェクドがキツく眉根を寄せて言ったが、リィドウォルはバカにしたような視線を向けて、鼻で笑う。
「魔獣討伐に関しては、今の魔術士館に私に勝る魔術士はいない。お主は大人しく引っ込んでいろ」
その憎たらしい顔付きと言い様は、以前のリィドウォルそのもので、ジェクドは顔を
どのような経緯があったのであれ、水の精霊がリィドウォルの
リィドウォルは空を見上げる。
今夜は数日振りに雲が晴れ、夜空に月がくっきりと浮き出ていた。
大型の馬車の扉を開け、リィドウォルは中に入る。
昨夜から掛けたままの薄い毛布を
放っておけば、朝には殆ど肌は見えなくなるかもしれない。
それは、完全に狂った精霊になるということだ。
リィドウォルは暫く水の精霊を見詰めていたが、膝をついて、その赤黒い泥の塊のような身体を、毛布ごと横抱きに抱き上げる。
軽い身体を持ち上げる瞬間、水の精霊はイヤイヤと弱々しく首を振って、リィドウォルの胸を掌で押そうとした。
「月光を浴びるだけだ、セルフィーネ」
リィドウォルの口から、自分でも驚くような優しい声が出た。
その声が聞こえたのか、水の精霊は抵抗をやめて、黙って身を委ねた。
ただ、抵抗するだけの力が残っていないだけかもしれない。
馬車から降りたリィドウォルを見て、ジェクドが目を丸くした。
「リィドウォル、どうする気だ?」
「月光に当てるだけだ」
「今更月の光を浴びて、どうにかなるものか?」
リィドウォルは首を振る。
緩くクセのある黒髪が揺れると、一瞬だけ、水の精霊が髪先の動きを目で追った。
「……もう、どうにもならぬ。このままでは狂った精霊になるだけだろう」
最早何もしなくても、
「それなら、どうして……」
「…………このまま狂っては、この地の害になる。月光の中で消滅でもしてくれた方が、まだマシだろう」
どちらにしろ、水の精霊を損ねただけで終わることになる。
王の
リィドウォルは足を踏み出した。
護衛騎士のイルウェンが付いて来るのは気にせず、村の高台に向かった。
高台にある広場は、静まり返っていた。
風もなく、低木の茂った葉や草むらからも、虫の一声さえ聞こえてこない。
リィドウォルは、出来るだけ振動を与えないように運んで来た、毛布のに覆われた水の精霊を見る。
それは羽根を抱えているように軽く、片腕だけでも支えられたので、左腕で抱え直し、まだ時折震える右手でそっと毛布をはぐった。
月光に照らされた水の精霊は、半面しか残っていない美しい顔を、安堵したように緩ませる。
薄い唇から細く細く息が吐かれた。
ザクバラ国内の街に入ったカウティス達五人は、今夜はこの街で休む為にオルセールス神殿に入っていた。
この先の領地で水害があり、水魔が湧いていると聞き、イスタークは明日領民が避難しているという、郊外の領主の別邸付近へ向かうことを決定した。
水害での人的被害は少なかったというが、魔獣の出現で死傷者が出ているという。
魔獣討伐には関わらないが、領民には助けが必要かもしれない。
イスタークは、夕食を摂りながら、カウティスの様子を
このまま先の領地に足を伸ばすことが決まり、中央へ向かうつもりだったカウティスが、何かしらの不満を漏らすかと思った。
しかし彼は、終始静かにイスタークや聖騎士達からの指導を受けながら、聖職者として今出来ることをこなしていた。
神殿の隣にある治療院で、イスタークが患者の話を聞き、神聖魔法を施すのを、カウティスは側に付いて見ていた。
イスタークはアナリナがそうしていたように、患者と同じ目線で手を握り、背を
そして、乞う者には柔らかな語り口で教えを説いた。
患者達は、カウティス達聖騎士にも頭を垂れて感謝を述べる。
アナリナを護衛していた時とは違い、カウティスは自らも聖職者になった自覚を新たに、彼等の手を握った。
ネイクーン王国では、立場上民の手を簡単には取ることが出来なかった。
ザクバラ国へ来て、こんな風に見知らぬ人々の手を握り返すことになるのは、とても複雑な心境だった。
日の入りの鐘が鳴って二刻は過ぎた頃、ようやくカウティスは治療院を出た。
自然と緊張していたようで、外へ出るとホッと息を吐いてしまった。
「驚きましたか?」
聖騎士カッツが側に来て声を掛ける。
「猊下はいつもああですよ。乞われれば、日付が変わっても治療院におられます」
「聖女様の師であるとお聞きしました。向き合い方が、よく似ておられます」
「……私は正直、貴方に驚きました。元王族が聖騎士など務まるのかと思いましたが、さすがエンバー殿が聖騎士にと望まれた方だ。貴方のその誠実性は、聖職者としては望ましい素質です」
「エンバー殿が?」
エンバーはイスターク付きだった聖騎士だが、そんな風に評価されていたとは知らなかった。
カッツは頷く。
「それに、神の眷族である精霊に好かれているようです」
カウティスは目を丸くした。
「精霊に、好かれている……?」
「ええ。自覚がなかったのですか? 貴方の周りには、常に何かしらの精霊がいます。水の精霊の加護持ちだからなのでしょうか」
カッツが太い首を回し、カウティスの周囲を見回した。
カウティスもつられて見回すが、神聖力の乏しいカウティスには、セルフィーネの色褪せてしまった魔力が、極僅かに身体の周りに見えるのと、一つ僅かな精霊の光が見えただけだった。
「水の精霊に好かれているから、付いて回るのか。それとも、君自身の素質に惹かれてくるのか、どちらだろうね?」
ダブソンと共に治療院から出て来たイスタークが言った。
カウティスは姿勢を正して、カッツと立礼する。
「そんな君だから、アナリナが『月光神と眷族に毎晩祈れ』なんて書いて寄越したのかな」
イスタークは楽しそうに肩を揺らして笑うと、カウティスの肩を軽く叩いて、神殿に向かって歩きながら言った。
「もう今晩は休みなさい。ああ、アナリナの言う通り、祈ってからね」
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