母からの手紙
イスターク司教を中心にした視察団は、ネイクーン王国の城下、オルセールス神殿を予定通り出発した。
ザクバラ国の中央を目指すなら、ネイクーン王国の西部、イサイ村近くの橋から越境するのが一番早い。
しかし、カウティス王弟の聖職入りは、既に国中に知れ渡っており、復興支援で馴染み深いイサイ村を視察団が通るとなれば、それなりの騒ぎになりそうだった。
それで、途中から街道をやや北部に逸れて、北部の端にあるギリミナの街の近くを北上し、ザクバラ国の東部に入ることになっていた。
途中で休憩した街の神殿に寄り、また、別の町で馬を換えながら、五人は進む。
何か行動する度、聖職者としての所作や小さな決まり事を指導され、カウティスは取り零さないように頭に刻んでゆく。
おかげで、馬に乗っている時以外は、セルフィーネやネイクーン王国の事を考える余裕がなく、却って良かったのかもしれなかった。
昼の鐘が鳴り、五人は昼食を摂る為に街道沿いの町で馬を降りた。
「疲れましたか?」
馬の側で、カウティスが騎士服の胸を握り締めて空を眺めていると、聖騎士ダブソンが声を掛けてきた。
「いえ、平気です」
カウティスが答えると、ダブソンは髪と同じ赤味がかった茶の瞳を細め、人懐こく笑う。
カウティスより年上のはずだが、笑うとその顔は幼く見えた。
「カウティス殿は、元々
「え?」
「祈っていたのでしょう? でも珠を握るなら、服から出した方が良いですよ。シワになってしまうので」
ダブソンがカウティスの胸元を指差した。
カウティスが胸の辺りを握っていたのを、服の下の銀の珠を握っていると思ったらしい。
「……分かりました」
カウティスは僅かに苦笑して答えた。
確かに珠を握っていたが、これはガラスの小瓶を首から下げていた時からの、クセのようなものだ。
空を見上げていたのも、太陽に向かって祈っていた訳ではなく、セルフィーネの魔力を見ていた。
准聖騎士のダブソンには、空の魔力は見えないので、太陽神に祈っているように思えたのだろう。
特に否定する必要もないので、カウティスはそのまま頷いておいた。
ラードが呼びに来て、町にある小さな神殿の住居棟で昼食を摂る。
「司教が声を掛けるまで、手を付けないで下さい」
席に着く前にラードに小声で耳打ちされ、カウティスはハッとして、小さく頷いた。
朝はイスタークとは別に食事をしたので考えなかったが、この場で最初に食事に手を付けるのは、一番上の立場の司教でなくてはならないはずだ。
王族として生きてきたカウティスは、常にまず自分から手を付けるのが当たり前の作法だった。
辺境や西部では、カウティスの意向で作法を取り払ってあったが、他の者が手を付けるのを待つということではなく、一緒に食していただけだ。
しかし、これからは、オルセールス神聖王国内の作法も覚えていかなければならない。
神妙な表情で席に着き、他の三人の気配を慎重に
そして食前の祈りを捧げた。
「とりあえず、下男としての働きは認めて頂けたようです」
馬の側に腰掛けているカウティスの側に来て、ラードが言った。
イスタークの所に休憩後の行程を確認に行ったら、『任せる』と言って手を振られた。
カウティスは見上げて、顎を撫でる。
「神殿の下男姿も、なかなか似合ってるぞ」
ラードは渋面になって、つるつるの顎を掻いた。
「整った髭は良いのに、無精髭は駄目ってどうしてですかね?」
「“無精”なんて、駄目に決まっている」
笑うカウティスを見て、ラードは内心安堵していた。
聖職者になると決めた時には、随分と思いつめていた様子だったので心配だったが、こうして笑えるなら、これからもカウティスらしくいられるはずだ。
「髭がないと顔に渋味がなくなって、女性を口説く時に困るんですけどね」
「阿呆。それこそ今必要ないだろうが」
軽口を叩くと呆れたように睨まれて、ラードも笑った。
「セルフィーネ様は、変わらずですか?」
ラードが空を見上げて聞いた。
雲は随分と流れて、青空が見えている。
今夜は月も姿を見せるかもしれない。
「……ああ。苦しそうな魔力だ……」
魔術素質のある者を、今まで何度も羨んだが、まさか彼女の魔力をこんな風に見ることになろうとは思わなかった。
ザクバラ国が、セルフィーネにどんな仕打ちをして、こんな魔力になったのか。
それを想像してしまうと、カウティスの胸の内に、憎しみのような感情が湧きそうになる。
「……っ!」
右掌が焼けたように熱を持って、その痛みにカウティスは我に返った。
「大丈夫ですか!?」
「……大丈夫だ。心を乱されなければ収まる」
カウティス自身、この不自然に湧き上がる感情を以前から不審に思っていたが、見て見ぬ振りをしてきた。
しかし、ザクバラ国へ向かうことが決まって、曖昧にしておくべきではないと思い、出発前にハルミアンに覗いてもらい、確信した。
この身体の奥に燻る黒いものは、“ザクバラ国の
聖紋は
「これは、セルフィーネの聖紋を預かっているのではないだろうか」
「預かっている?」
カウティスは掌を眺めて頷く。
「本当に聖紋を刻まれたのなら、神聖力も授かるはず。だが、私の神聖力は微々たるものだ。だから、きっと今でも、この光の部分はセルフィーネのものなのだ」
月光神が、セルフィーネの聖紋を一旦カウティスに預けた。
もし、その仮説が合っているのなら、セルフィーネは、聖紋を保てない状況なのかもしれない。
その状況をまた想像しそうになって、カウティスは急いで頭を振った。
「少し休んでて下さい。暫くしたら、交代して猊下に付かないといけないんでしょう」
ラードに言われて、カウティスは深呼吸して伸びをする。
「大して疲れていない。いつもに比べれば、のんびりした行程だ」
今までカウティス達が西部と王城を行き来していた行程は、速さ重視のものだった。
しかし、カウティスの様子を見て、ラードが軽く眉を上げた。
「身体じゃないところが疲れてるはずですよ。とにかく、休める時は休んで下さい。いいですね」
念を押して、ラードは
取り残されたカウティスは、小さく溜め息をついた。
休んでいると、余計な事ばかり考えそうなのだ。
開けた場所で剣でも振ろうかと考えて、立ち上がりかけたカウティスは、胸の内ポケットに入っている封筒に気付き、そっと取り出す。
その白い封筒は母からの手紙だ。
まだ読めずにいたのだが、今なら読めそうだと思い、カウティスは腰を落ち着けて封筒を開く。
…………
カウティス、貴方が私の手を離れて随分経っていたというのに、今ネイクーン王国を発とうとする貴方を見て、寂しさに胸が潰れる思いです。
そして又、立派な人間に成長してくれたことに、感謝しています。
私はネイクーン王国に嫁いでから、祖国ザクバラを思い出すことなく、平穏な日々を送ってきました。
敵国の妃だと
しかし、それはもしかしたら、兄リィドウォルの犠牲の上にあったものかもしれないと、今になって思うのです。
セルフィーネ様の三国共有から、度々ザクバラ国の事が頭を
嫁ぐ直前の事を思い出そうとする度に襲う頭痛は、おそらく、兄の魔眼の仕業であると見当は付いていましたが、魔術素質のない私には、それを打ち破る術はありません。
ただ、頭痛の度に、酷く辛そうな兄の顔だけは思い出すのです。
思い返せば、幼い頃より、兄の幸せそうな顔は見たことがありません。
辛そうな顔ばかり思い出される兄は、国王の最側近として多くを
王が命じた母と長兄の処断にも、最後まで撤回を懇願したと聞いています。
その兄が、私を記憶操作してまでも急いでネイクーン王国へ送り出したのは、一体何故だったのでしょうか。
その理由が、両国の縁を深める為だけだったとは思えません。
もしも。
もしも、兄が、私を守る為にネイクーン王国へ送り出したのだとしたら。
今の生は、兄のあの苦し気な表情の上にあるのかもしれません。
貴方とフレイアは、兄の犠牲の上に与えられた私の宝なのかもしれないのです。
だからといって、ザクバラ国と兄の行いを擁護するつもりはありません。
しかし、カウティス、出来ることなら、今でも貴方にはザクバラ国へ行って欲しくありません。
あの地には、怨恨が根付いています。
貴方には、ザクバラ王族が繰り返してきたように、縁者が互いに命を削り合うような場に立たないで欲しいと思っているのです。
我が兄と、愛する息子が刃を向け合う、そのような事だけは起こらないで欲しいと、母は切に願います。
カウティス、貴方の門出に際し、力付け、勇気を持って背中を押してやれない母を許して下さい。
どうか、身体を大切に。
何処にいても、貴方の健康と幸せを祈っています。
…………
読み終わった便箋を握り、カウティスは俯いてキツく目を伏せた。
視察団は、予定通りネイクーン王国北部にある、ギリミナの街の側を通り北上する。
林道を抜けると、紛争時に焼け野原になった辺りに出る。
この辺りはまだまだ緑が少なく、閑散とした雰囲気だ。
鎮魂碑のある所で一度馬を降り、カウティスは鎮魂の祈りの作法を教わった。
夕の鐘が鳴って半刻、太陽が夕の赤い光を放つ頃に越境した。
カウティスの中で、緊張感が高まる。
セルフィーネが三国共有となった今は、見上げる空の魔力は、ネイクーン王国側と同じ様に見えた。
予定していた国境近くの街に入り、神殿へ向かう。
その道すがら、感じる街の雰囲気が何処となく落ち着かないのは気のせいだろうか。
「どうやら、先の領地に先日水害があったようなのですが、そこに魔獣が湧いたそうです」
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