王城を後に

日付が変わって随分経ってから、メイマナ王女はネイクーン王城の廊下を歩き、王の執務室へ向かう。 


日の入りの鐘が鳴る前に、最後の挨拶を終えてカウティス王弟が王城の前門を出た。

それからエルノート王は、居室に戻っておらず、メイマナの居室も訪れていない。


執務室の前の廊下に立った近衛騎士と侍従を見て、やはりエルノートは執務室から出ていないのだと分かった。

彼女が歩いて来るのを見て、侍従が縋るような目をしたので、小さく頷いてメイマナは静かに扉を開けた。




「今夜は星が見えますか?」

執務机から離れ、銀の水盆が置かれた窓際に立っていたエルノートは、側にメイマナが来るまで人の気配に気付かなかった。

部屋の外に近衛騎士が立っているとはいえ、警戒心が薄れていたと、内心反省しながら微笑む。

「いや、雲が多くて、ろくに月も見えないな。……こんな時間にどうした? 眠れなかったか?」

「眠れないのは、エルノート様の方ではありませんか?」

緩く結った錆茶色の髪を撫でるエルノートの手に、メイマナはふっくりとした柔らかな手を添える。


「……行ってしまわれましたね」

月光の乏しい空は暗い。

窓から外を覗いても、魔術ランプに照らされたテラスが見えるだけだ。

「そうだな……」

エルノートが低く答えた。



王の最側近を司教に突然引き抜かれて、周囲の者は大いに慌て騒いだ。

エルノート王の治世になって、まだ二ヶ月余り。

カウティスが抜ける穴は、相当に大きい。

しかも、一時的に政権から後退するのではなく、国籍を抜かれてオルセールス神聖王国の所属となった。

王族でなくなったどころか、ネイクーン王国の人間ですらない。



だが、そういったこと以上に、カウティスがもう自分の側にはいないのだという事実だけが、エルノートの心をえぐった。



再び窓の外に視線を投げて、エルノートが口を開く。

「……カウティスがこんなに早く私の側を離れることになるとは、想像もしていなかった」


カウティスは幼い頃から真っ直ぐで、努力家で、何があっても兄である自分を信じてくれる。

自分を慕う弟だからというだけではなく、カウティスのその一本気な気質を好んだ。

あの強さが側にあることに、随分と救われていた気がする。


「…………お寂しいのですね」

メイマナの静かな声に、エルノートの手がピクリと震えた。

「……寂しい……。そうか、寂しいのだな」


抉られた胸の穴は、そういうものなのだ。

きっとこの穴は、簡単には埋められるものではないだろう。



エルノートはメイマナの身体をそっと引き寄せ、胸に抱く。

柔らかな錆茶色の髪に頬を寄せて、今は胸の穴を見ぬように目を閉じた。






同じ頃、カウティスは城下のオルセールス神殿にいた。


聖職者の居住棟の空いている部屋を、カウティスの今夜の寝室として整えてくれた神官が、恐縮して部屋の中に通してくれる。

「感謝する」

「とんでもございません、殿下」

カウティスは鼻の頭を指で掻く。

「私は聖職者となったのだから、“殿下”はやめてくれ」

「ですが……」

聖女アナリナがネイクーンに駐在していた頃から、カウティスが神殿を訪れることは度々あった。

神官にとってカウティスは、王族としての印象が強く、急に変えろと言われても受け入れ難かった。



「神殿の者にすぐに変えろというのは難しい。今夜はそれで構わないだろう」

イスタークが聖騎士二人を連れて近付いて来たので、カウティスは膝を折ろうとした。

跪礼きれいは必要ない。普段は立礼で済ますように」

イスタークに薄い笑みで言われて、カウティスはそのまま姿勢を正して立礼した。

「はい、猊下」

カウティスが立礼するのを見て、イスタークは軽く頷いた。



カウティスが右掌の聖紋を見せ、ザクバラ国への視察団に入れてもらうことを願った時、イスタークから出された条件は三つ。

聖紋を授かった正聖騎士として、オルセールス神聖王国に登録すること。

元王族としての特別な扱いはせず、一聖職者としての当然の扱いを受け入れること。

同行は視察団がザクバラ国へ入る間だけの特別措置で、視察がどんな結果に終わっても、その後オルセールス神聖王国の召喚に従って、本国で一年間の研修を受けること。


つまりは、ザクバラ国への視察団には加えるが、それ以外の特別扱いはしないということだ。



「明日、共にザクバラ国へ向けて出発する聖騎士を紹介しておこう。正聖騎士のカッツと、准聖騎士のダブソンだ」

イスタークの後ろには、二人の聖騎士が付いていた。


正聖騎士は、神々から聖紋を刻まれ、神聖力を授けられた者。

准聖騎士は、自ら誓いを立てて聖騎士と認められた者で、神聖力は持っていなかった。

カウティスは月光神の聖紋を刻まれた正聖騎士となり、准聖騎士より基本的には立場は上だ。


聖騎士の二人は、共に白いローブを着ていた。

右胸に太陽神の赤い聖紋、左胸に月光神の青い聖紋が刺繍されてあり、ダブソンは前開きを両肩にまくし上げて、マントのようにしてある。

「よろしくお願いします」

淡い金髪のカッツは、中肉中背で、実直そうな顔付きで立礼する。

「……よろしくお願い致します」

赤毛の長身のダブソンは、神官のようにどこか恐縮している様子だった。


「よろしく頼む」

カウティスが応えると、イスタークが首を振る。

「カウティス、君は既に王族ではない。今は誰よりも下の立場だよ」

イスタークの言葉に、周りの誰もが固まる。

正式に聖騎士となった今、カウティスは研修も終えていない、最も未熟な聖職者だ。

現時点では、この場にいる誰よりも下の立場になる。

とはいえ、そもそも王族から聖職者が出ることなど、世界的に見ても極稀ごくまれだ。

カウティスをどう扱えば良いのか、誰もが戸惑いを持っていた。


カウティスは僅かにひるんだが、顔色を変えずに一度だけ深く呼吸した。


「分からないことばかりで、当分ご迷惑をお掛けするでしょうが、よろしくお願いします、カッツ殿。ダブソン殿」

静かに立礼するカウティスを見て、二人の騎士と神官には戸惑いがあったが、イスタークは頷いた。


「明日は午前の一の鐘半に出発だ。世話役の下男が一人同行し、ザクバラ国に入ってから、向こうに駐在の司祭と合流して視察に入る。それから、これを」

イスタークが、細い革紐の付いた銀色の珠を差し出す。

「聖職者はこの珠を常に身に着ける。神祭時以外では、装飾品の類いは他に着けてはいけない決まりだ。首から下げている小瓶は外しなさい」

「……はい」

カウティスは銀色の小さな珠を受け取る。


滑らかで僅かにひんやりとした珠は、何故かセルフィーネを思い出させた。

胸に込み上げるものを押し留める為に、カウティスは珠を強く握り込んだ。



「ああ、後、これはアナリナから、新米聖騎士君宛にだそうだよ」

イスタークの表情が緩んで、祭服のポケットから半分に折られた一枚の紙を出すと、口元を押さえながらカウティスに渡した。

「アナリナから?」

カウティスは受け取って開くが、目に飛び込んできた大きな文字に、バツが悪そうにした。



  ばか! ばか! 大馬鹿!

  精々、月光と眷族に毎晩祈りなさい!



「共に巡教に出ていたのは知っていたが、思っていたよりも、君達は仲が良かったんだねぇ。君を聖騎士に認定したのを私だと知っているなら、今度会った時に、また怒られそうだな」

イスタークが笑いながら言うので、カウティスは紙を折り畳んで聞く。

「アナリナと、親しかったのですか?」

「私は彼女が聖職者となった時の指導役だったのだよ。アナリナは、とてもとても手の掛かる教え子で大変だった」

イスタークの焦茶色の瞳は柔らかく、答えに反して、何故かとても楽しそうだった。





カウティスは用意された部屋で、寝台に仰向けに倒れた。

目まぐるしい二日間だった。

脱力すると、どっと疲れが押し寄せたが、頭の中は、取りとめなく多くの事がぐるぐると巡っている。


王の側近達はカウティスが国籍を抜けることを憂いたが、貴族院の一部は、西部復興を投げ出す無責任さを揶揄やゆした。

騎士団員達は、揃ってカウティスの離脱を惜しんだ。


固い表情で多くを語らず、力強く肩を握った父。

怒りとも呆れとも分からない声で、『兄上はまた、私が追い付けない所へ行ってしまわれるのですね』と呟いた弟。

母は崩れるように縋って泣いた。

あんな母の姿は初めて見た。

カウティスが聖職者になることよりも、解呪を求める声の上がるザクバラ国へ向かうことが、彼女を取り乱させたのだろう。

胸が痛むと共に、それ程母を苦しめてきた、ザクバラ国の在り様を憎らしく思った。




カウティスは起き上がり、窓を開ける。

空には雲が多く、月は殆どその姿を隠しているので、辺りは暗い。


その中に、白と青銀を薄く薄く伸ばしたような光と、時折極薄い金の光がチラチラと飛んで見えるのは、おそらく世界中に広がる精霊達の魔力なのだろう。

きっと、これが聖職者の見る魔力なのだ。


昨日の早朝に、庭園の泉でセルフィーネと繋がってから、突如としてカウティスには魔力が見えるようになった。

右掌の聖紋が、一応完全な形になったからだろうか。


見上げる空には、カウティスが初めて見ることの出来た、三国を覆うセルフィーネの魔力が広がっている。

しかしその魔力は、魔力干渉で見てきたような美しい色ではなく、外に見える精霊達の色でもない。

褪せて今にもひび割れそうな、白と形容して良いのかも分からない色合いだった。




魔術士館での別れの際、ザクバラ国の中央から昨日戻ったばかりの魔術士達から話を聞いた。

五人は揃って、特に異常はなかったと言ったのに、緑ローブの一人だけは、カウティスを見て頭痛を訴えながらも『水の精霊様を助けて下さい』と訴えた。


その訴えこそ、この空の魔力に対する答えだ。

セルフィーネが、壊されかけている。



カウティスは拳を握る。

後戻りはできない。

するつもりもない。


「必ず、助けに行く」

月の隠れた空に向かって、カウティスは呟いた。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る