一縷の望み

ザクバラ国の王座の間で、セルフィーネは呆然として、目の前の黒いもやのようなものに包まれた国王を見た。

その気配は、先月に見た時よりも、ずっと恐ろしいものに変化していた。

先月は竜人族に似ていると思ったが、今はもう、似ているのは無意識に竦んでしまう事くらいだ。


直視するのも恐ろしい筈なのに、セルフィーネはその人の形をした黒いものから目が離せなかった。




『そなたの香りは、朝の清々しい空気のようだ。朝露の蒼い香りがして、吸い込むと胸が洗われる気がする。とても良い匂いだ』

頭の中で、優しい声が甦る。


カウティスがそう形容した香りは、人間の持つ匂いとは違い、彼以外には分からないものだったはずだ。

理由は分からないが、カウティスと二人だけの繋がりを得たようで、嬉しくなったのを覚えている。


それなのに。


目の前の、人とも思えないザクバラ国王は、セルフィーネの香りを嗅ぎ取り、カウティスと同じように『朝露のようだ』と形容した。



「嘘……。嫌だ……、いやっ!」


セルフィーネは震えながら、強く首を振る。

この身の魔力を塗り替えられただけでなく、内の内まで全てあらわにされたようで、ひどい嫌悪感に喘いだ。

もうここにいることが少しも我慢出来ず、足枷を付けられてから初めて、半実体を解いて駆けようとした。

しかし、試みは上手くいかず、足首から身体中を襲う激しい痛みに悲鳴を上げる。


魔術布の上で悶え、耳障りな悲鳴を上げた水の精霊の腰を、ザクバラ国王は苛立ちをあらわにして杖で打った。

打つ度にただれた部分が広がるのを見て、リィドウォルは全てが終わる覚悟で、王を止めようと口を開きかけた。



「陛下、お待ち下さい!」


制止の声を上げたのはリィドウォルではなく、たった今、王座の間に入ってきた魔術師長ジェクドだった。

彼は足早に人垣の間を抜けて、王の前に進み出ると跪礼きれいした。


「陛下、先日の集中雨の影響で、東部寄りの貯水池のせきが切れたと、たった今緊急連絡が入りました」

ざわと人垣が揺れる。


リィドウォルは眉根を寄せた。

確かに最近の貴族院会議でも、東部、中央、南部の幾つかの貯水池は危険水位に達している報告が上がっていたが、既に対応策は講じていたはずだ。

「策は講じていたはずだが、何に問題が?」

同じ様に考えた国王が、いぶかしんで問う。

「ネイクーン王国の新しい魔術技術を取り入れていた部分に、対応が追い付かなかった模様です」


ネイクーン王国から派遣されていた魔術士から、新しい魔術技術を取り入れて活用を始めた箇所は多い。

しかし、先月末にネイクーンの魔術士が一斉に帰国したことで、まだ新技術に対応しきれない部分があったようだ。


「ネイクーンめ、どこまでも忌々しい……。リィドウォル、急ぎ被害状況を確認して、救援に当たるように」

王が言って車椅子を動かそうとした時、ジェクドが膝を一歩分前に進めた。

「陛下、水の精霊をお貸し下さい。水害の被害を最小限にするには、水の精霊を留めるのが一番かと」

王は、ぐりと落ち窪んだ目を動かしてジェクドを見た。

しばらくそのまま目を合わせていたが、不意に車椅子を動かして、入口へ向かう。

「良かろう、連れて行け。魔術士館預かりで好きに使え。ただし、決して逃がすでないぞ」




水の精霊は魔術布に巻かれ、魔術士館へ運ばれる。

巻かれる時に僅かに抵抗したが、その後動くことはなく、ぐったりとしていた。



「どうやったのか分からんが、地下牢の罪人は一人残らず昏倒して、魔術陣は機能停止していた」

魔術士館の廊下を最奥へ歩きながら、ジェクドが説明する。

留置場にいた見張りの兵も魔術士も、水の精霊が泣いていた以外に変わったことはなかったと言い、結局原因は分っていない。


「それで、貯水池の決壊は事実なのか?」

事実ならば早急に対応が必要で、リィドウォルは、ジェクドがなぜ最奥の魔術師長室へ導くのか疑問に思った。

「事実だ。対応に魔術士館と文官が当たっている。お前は、まずこっちだ」

言ってジェクドは、魔術布を巻かれた水の精霊を、抱えて運んでいた兵士から受け取ると、人払いして魔術師長室の扉を開けた。




入口を潜ろうとして、リィドウォルは一度止まった。

魔術師長室の中には、タージュリヤ王太子がいた。

濃紺の細身のドレスで一人、毅然と立っている。


リィドウォルは部屋に入って、その場で立礼した。

周囲に人がいない状況でタージュリヤと向き合うのは、王の居室での昏倒以来、初めてのことだった。



「こうして直接話すのは、久しぶりですね、リィドウォル卿」

「殿下……」

顔を上げないリィドウォルに、タージュリヤの小さな溜め息が聞こえた。

「まったく、私を守る為だったとはいえ、あれはやり過ぎでした。近衛騎士が支えていなければ、もっとひどい打ち身になったでしょう」


魔眼を使った理由をタージュリヤが知っている事に、リィドウォルは眉根を寄せる。

視線を上げ、雑多に床に置かれた物を退かして、水の精霊を下ろしているジェクドをキツく睨んだ。

「貴様、あれ程殿下には言うなと!」

「俺は何も言ってないが?」

「…………何?」

「語るに落ちたな、リィドウォル」

ジェクドが軽く肩を竦めた。



「やはり、そうなのですね?」

静かな問い掛けに、リィドウォルは顔を上げた。

タージュリヤは両手を前に組み、真剣な面持ちで、真っ直ぐリィドウォルを見詰めていた。

「私に防護符を携帯させたのは、王太子となった私の身を常に守る為なのだと思っていました。……しかし、あれは、陛下から私を守る為の物だったのではないですか?」

「それは……」

「側近の一部は、卿が元々私を敬うつもりなどなかったのだと言いますが、私にはどうしてもそうは思えないのです」


タージュリヤは幼い頃から、祖父の側にいたリィドウォルを見てきた。

幼い王女に上辺だけの敬意を払う者達とは違い、後にザクバラ国を継いでいく王族として、どの王族にも等しく接する彼を尊敬してきた。

その彼が、国王の在位を守り、国の安寧の為だけに、この数年の待遇を耐えてきたようにはどうしても思えない。

リィドウォルの行いには、何か思惑があるに違いないと感じていた。


「陛下が目を覚ませば、こういう事態に成り得る事を想定して、防護符の携帯を約束させたのでしょう? だから私が陛下の目覚めを早めようとした時にも止めた。……違いますか?」

リィドウォルは口を開かなかったが、彼の右手が細かく震えているのをタージュリヤは見た。


タージュリヤは歩み出て、リィドウォルのすぐ前に立ち、床に力なくうずくまる水の精霊を見遣った。

彼女の姿は、身体の半分ほどが赤黒い泥のようなただれに覆われている。


「事態は逼迫しています。陛下は既に慈悲深い王ではなく、水の精霊は狂いかけている。このままでは、三国間どころではなく、我が国の至る所に軋轢を生むでしょう。リィドウォル卿もまた、後がなくなっているはず。そうでなければ、今のような鎌をかけても、普段の卿ならば簡単には引っ掛からなかったはずです」



タージュリヤは顔を上げ、正面からリィドウォルの瞳を覗いた。


「まだ未熟な王太子であると分かっています。それでも私は、この身に国を背負い、守る覚悟を決めています」

その黒眼には、強い決意が込められている。

「私を真にザクバラ国の後継と思っているのなら、今ここで、その口で! 全てを明かしなさい、リィドウォル卿!」



正面に立つ年若い王女を、リィドウォルは黙って見詰めていた。

魔眼の恐ろしさを身をもって感じたであろうに、その恐怖を無理矢理に抑え込み、両手をキツく握り締めて、細い面を気丈に上げる。

決して魔眼から、リィドウォルから目を逸らさないという、その覚悟が胸に刺さった。


この国を暗く覆い、敬愛する叔父を絡め取ってしまったのろいを消し去り、一人で背負って消えようとすら思っていた己は、何と身勝手で、何と小さいことか。

この若い王女ですら、ザクバラ国王太子という運命を背負い、茨の上を踏み出そうとしているではないか。



リィドウォルは自然と膝を折る。

項垂うなだれるように頭を深く下げ、跪礼きれいすると、口を開いた。


「……全て、お話し致します。王太子殿下」






ネイクーン王国城下のオルセールス神殿で、カウティスは、昼の鐘が鳴る前にイスターク司教と面会した。



太陽神殿の礼拝の間で、イスタークは街の人々と祈りを捧げ終え、人々が神殿を後にするのを見送る。

それを待ってから、カウティスは声を掛けた。

城下こちらにおいでだったとは、知りませんでした」

互いに立礼して、イスタークが軽く笑む。

「ザクバラ国へ行く前にと、陛下に謁見要請をしたのですが、カウティス殿下はご存知なかったですか?」

「はい、今朝は陛下とお会いしていなかったので……。それにしても、猊下がザクバラ国へ行かれるのですか?」

カウティスは驚いて尋ねた。


ザクバラ国から帰って来た魔術士達の報告で、ザクバラの民からの嘆願があって、オルセールス神聖王国が調査に乗り出す事は知っていた。

しかし、まさかイスターク司教が向かうことになっているとは思わなかった。


「本国からは、誰もザクバラ国へは行きたがらないのですよ。既に以前、聖人を遣わせて失敗していますからね」

イスタークが皮肉めいた笑顔で言った。


ザクバラ国からの嘆願は、今に始まったことではない。

過去にも、災害や不作が続いたりすると、民は神殿に気を払って欲しいと訴えていた。

それで一度、オルセールス神聖王国は聖人を送り、大規模な気払いの神事を行った。

しかしザクバラ国を覆う病んだ気は、一年もせず元に戻ってしまったのだ。

それ以後、神聖王国は大きく関わろうとしてこなかった。


「今回は何と言っても、“呪い”であるのではという声が大きく、放っておくわけにはいかなくなったのですよ。それで、私が手を挙げた訳です」

聖堂建築はまだ土台に手を付け始めたばかりで、現場監督に加えてハルミアンという助力もある。

ザクバラ国の隣国にいる高位聖職者で、神聖王国としては都合が良いのだ。




「それで、殿下の御用件は何でしょう? まさかと思いますが、ザクバラ国へ一緒に連れていけと仰るのではないですよね?」

どこか揶揄やゆするように言ったイスタークを、カウティスは正面から見て頷いた。

「仰るとおりです。私を、ザクバラ国へ入る視察団に加えて頂きたく、お願いに上がりました」


イスタークは、ふうと小さく溜め息をついて、焦茶色の頭を振った。

「残念ながら、それは出来ません。我々は聖職者としての役割を果たしに行くのです。殿下が水の精霊を取り戻しに行きたいのならば、それはネイクーン王国の方々と為さるべき事。神の下僕しもべである我々に頼るのは、お門違いですよ」


水の精霊がザクバラ国から戻っていないのは、イスタークにも分かっていた。

魔力が輝きを失っていることは残念だったが、全ては神の意志によるもの。

水の精霊が聖職者でないのなら、無関係だ。

そういう判断をされることは、おそらく分かっていたであろうに、カウティスがここへ来たということは、もう手がなく、藁をも掴む思いなのかもしれないと、イスタークは思った。


しかし、目の前のカウティスは当たり前の事だというように頷いた。

「聖職者としての役割で、ザクバラ国へ同行させて頂きたいのです」

イスタークは焦茶色の瞳を、不快感をあらわにすがめた。

聖職者でない者を、聖職者と偽って同行するのは、教示に反する。



「神をたばかれと?」

「いいえ」

声を低くしたイスタークの前で、カウティスは右手の皮手袋を外すと、その掌を広げて見せた。


掌には、月光神の聖紋が浮かび上がる。


「イスターク司教猊下、私を聖騎士に任命して頂きたい」





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