孤立

水の季節後期月、一週四日。


日の出の鐘が鳴るまでに、まだ四半刻はあろうかという頃、ラードは訓練場に来ていた。


じっとしていられなくて、昨日殆ど訓練場にいたカウティスは、最終的にラードに止められて剣を置いた。

ラードの予想通り、腕や肩に熱を持ち、マルクに用意してもらった魔術符で冷やしたまま眠ったはずだが、どうせ今朝も早朝鍛練を行っているだろう。


しかし、訓練場にカウティスの姿はない。

習慣通りに鍛練しているのなら、場所を移動して泉の庭園にいるのだろうと見当をつけて、ラードはきびすを返す。


訓練場にいた騎士の話では、カウティスは今朝ずっと左手で剣を振っていたらしい。

右腕には昨日の痛みが残っているのだろうか。

毎度のことながら、限界まで剣を振らないと吹っ切れないのだから、本当に不器用な主だ。

新しい魔術符をもらってきておいて正解だったと、ラードは思った。



泉の庭園に着いた頃には、ちょうど月は東の空で、太陽に替わる前の最後の光を放ち始めていた。

青白い光に目を細めて、ラードは小道を抜け、黒い土を固められた庭園に踏み込む。


カウティスはもう剣を振るのをやめて、ガラスの覆いの中にいた。

泉の前に膝をつき、右手を泉の水に浸しているように見える。

冷水で冷やしているのだと思い、余程痛むのかと、ラードは覆いに近付いて声を掛けた。


「王子、少し無茶し過ぎでは……」

ラードの言葉は途中で途切れた。

泉に向かっているカウティスの横顔に、決意のようなものを見たからだ。


カウティスは右手を泉に浸けたままで、左手は節が白くなるほど、強く泉の縁を握っていた。

「……セルフィーネの姿を見た」

「本当ですか!? ご無事でしたか!?」

ラードも泉の側に寄り、思わず水面を覗き込む。

水は、相変わらず恐ろしく澄んでいて、噴水の水滴で波紋を作っているだけだ。


今月に入ってからうずき始めた右手の聖紋は、今朝になってひどく熱を持った。

あまりの熱さに耐えきれず、泉の水に浸した途端、セルフィーネと繋がったのだった。

きっと、セルフィーネが呼んでいたのだとカウティスは思った。


カウティスは顔を上げず、水面を見詰めたまま言った。

「半実体を現していて、ザクバラ国で囚われている」

「やはり……」

ラードは顔をしかめた。

心配していたことが起きてしまったのだ。

「しかも、セルフィーネは、狂いかけていた」

カウティスはギリと奥歯を噛む。


水面越しに目を合わせ、思わず無事かと問うてしまった。

『……無事だ……』

しかし、そう答えたセルフィーネの姿は、少しも無事なものではなかった。

美しい顔の右頬から下はただれ、左肩から胸にかけても赤黒い泥のようなものが広がっていた。


ラードもまた、怒りをあらわにする。

「ザクバラの奴らめ! セルフィーネ様に一体何をしたんだ」

カウティスは泉から右手を上げる。

濡れた手を握り締めて、一度深く息を吐いた。

「ラード、頼みがある。イスターク司教に急いで会いたい。手配してくれ」

「司教にですか? 分かりました」


日の出の鐘が鳴る。


東の空で、月が太陽に替わるのを睨むようにして見詰める。

「必ず、助けに行くから」

長剣を拾い上げ、カウティスは立ち上がった。






ザクバラ国の貴族院では、会議が紛糾していた。

昨夜、反意の疑いで貴族院の貴族がまた数名捕らえられたのだ。


「陛下は一体どうされたのだ」

「以前よりも処断が厳しすぎる」

疑わしき者は全て罰する、という勢いで処断する国王に、貴族達は戦々恐々とし始めている。

今までは、前宰相ザールインと何かしらのよしみがあったことが発覚した者の処断が殆どで、政変の後始末としての位置付けに見えた。

しかし、昨夜は穏健派の若手だった。


「王太子殿下寄りの者を、あのように罰するとは……、これは分裂が加速するのでは……」

隣からもそんな声が聞こえて、リィドウォルは深く溜め息をついた。



以前、国王の居室でタージュリヤを昏倒させてから、王と王太子との関係は良好とは言い難い。

表面上はタージュリヤが過ちを認め、翌日王に陳謝したことで収まった。

以前と同様、毎日の挨拶も行われているが、何分、周囲の目が変わってきている。


強硬派は変わらず王を支持しているが、穏健派は、若手を中心に王太子支持を明確にし始めてしまった。

タージュリヤの婚姻と即位まで、出来る限り両派閥の溝を深めたくなかったリィドウォルには、頭の痛い話だった。



何もかもが、ギリギリの所まで来ている。

リィドウォルが想定していたよりも早く、事は進んで行く。

しかも、思っていた道からは外れてしまった。


強引にでも幕引きを図る方法は、水の精霊に神聖力を使わせることだけだ。

どんな形であれ魔力は回復して、神聖力は失くなっていない。

水の精霊あの者が狂ってしまう前に、浄化させるのだ。


それなのに、昨日から右手の震えが収まらない。

水の精霊を傷付けた、この右手。

まるで、神聖なる神の眷族水の精霊を汚した罰であるかのように。


それとも、のろいに犯されたこの身で水の精霊に触れたのを、神が怒っているのだろうか……。




「リィドウォル様」

会議が終わろうかという時に、侍従が側に寄って耳打ちした。

「陛下が魔術士館に、水の精霊を王座の間へ召し出すよう下命されました」

「何だと!?」

リィドウォルは椅子を鳴らして立ち上がった。



出来ることなら、のろいを解くその日まで、ザクバラ国王と水の精霊を会わせないようにしたかった。


水の精霊を留めておく魔術陣を留置場に敷いたのは、魔力を搾り取る地下牢の罪人に近い場所だからというのも理由も一つだが、車椅子で動きが制限された王が簡単には近寄れない場所だから、という理由が大きい。

水の精霊が極端に近寄りたがらなかった王が、彼女の側に寄れば、何かしらの異変が起こるかもしれないと懸念していた。


リィドウォルは焦燥感に駆られながら、王座の間へ急いだ。


どうあっても、ザクバラ国ののろいを水の精霊に解かせたい。

しかし、万が一、王が「水の精霊を消してしまえ」と命じれば、リィドウォルには拒否することは出来ないのだ。

 



冷えた王座の間にリィドウォルが入った時、壇上の王座に王はおらず、広間の中央に向けて人垣ができていた。

人垣には、近衛騎士や魔術士、文官も混じっている。

遠巻きには侍従までもが、興味津々で背伸びをし、或いは恐れの交じる視線を向けていた。



リィドウォルが近付くと、人々が気付いて立礼し、道を開けた。

人垣が囲っていた中央が見えて、リィドウォルの喉が引きった。


足枷がついたままの水の精霊が、広間の床にうずくまっていた。

青紫の髪が垂れ下がった身体の下に、防腐の魔術布が敷かれてあるのを見て、あれに巻いて運ばれてきたのだと分かった。


「来たかリィドウォル」

側には車椅子に座った王が、鈍く光る、使い込まれた杖を膝に乗せていて、リィドウォルを認めて掠れた声を出した。

王の盛り上がっていた顔の赤い肉塊には、張りのある瑞々しい皮膚が被さり、そこだけ見ればまるで若返っているようだ。

しかし別の部分には、また赤い肉が盛り上がっていて、よりいびつな印象を受けた。


「陛下、水の精霊は、回復のため魔術陣の上から動かせないと……」

王の側へと歩きながら、横目で見た水の精霊の身体に、突いたような傷が数ヶ所増えているのに気付く。

その傷からジワリとただれが滲み出て、リィドウォルは眉を寄せた。

今、突かれたところなのだ。



「報告では、魔術陣は止まっているようであったからな。魔力回復は完了したのであろう?」

リィドウォルは内心ヒヤリとする。

昨日の時点では、魔術陣は正常に動いていたはずだ。

王は水の精霊に興味を示していないようでいて、都度都度報告をさせていたのだろう。

「しかし、リィドウォルよ。回復すればどれ程の物かと思っていたが、期待外れもいいところだ。よもやこのように醜悪な精霊であるとは」


王は持っていた杖で、水の精霊の後ろから肩を突いた。

水の精霊は一瞬顔をしかめたが、声は上げなかった。

突かれた白い左肩に、小さな穴のような傷が付き、そこから赤黒い泥のような爛れが滲む。


「回復した魔力も、清らかさなど全くない。解せぬ。ネイクーンは、なぜああもこの精霊を敬っていたのか。この美しい外皮に騙されておったのか?」

がっかりしたように言う王の周りでも、美しいとは言い難い水の精霊の姿に、皆あからさまに蔑む視線を向ける。

「いいえ、この者の魔力は……」

「もう良い。確かに魔力は魔力だ。これ程強大な魔力は無駄に出来ぬ。水の精霊これは私の居室へ据えよ」

あっさりと言い放たれた言葉に、リィドウォルは目を見張った。

「陛下、お待ちを。水の精霊魔力の管理は魔術士館の管轄でございます」

「元々回復したら、我が国の為に魔力を使う予定であったろう。使い方は私が決める。


リィドウォルは愕然とした。

王の居室へ持って行かれては、何の手も出せなくなる。

しかし、命じられたことに反論しようとすれば、心臓が冷たく軋む心地がして、冷や汗が流れた。




王は俯いたままの水の精霊に近付くと、瞼を閉じて息を吸った。

「それに、この香りだけは、醜悪な見た目に反して、何とも言い難く惹き付けられる」


“香り”という言葉に、初めてピクリと水の精霊が反応した。

ゆっくりと顔を上げ、震えながら王の方へ紫水晶の瞳を向ける。


「この香りは何であろう。土の季節の明け方を思い出させる。蒼く、清々しい……。そう、まるで朝露のようだ」

どこかうっとりとしたような王の言葉に、セルフィーネの瞳が揺れた。



「…………うそ……」


漏れた言葉は、あまりにも細く、誰の耳にも届かなかった。


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