邂逅

セルフィーネは、一人うずくまっていた。



魔術陣の上に立ってからずっと、何かが無理やり口をじ開けて、冷たくて痛いものを流し込んでいるようだった。

嫌だと口を閉じて両手で覆っても、それはどこからか流れ込んでくる。

吐き出したいのに吐き出すことも出来ず、は、すっかり身体中を満たしてしまった。


そのせいで、身体がひどく重い。

気が付くと、周りは真っ暗で何も見えず、泥のようなものが纏わりついていて、重い身体は動かすことが出来なくなってしまった。

何かをしなければいけなかった筈なのに、苦しくて、上手く頭も働かなかった。


それでも意識を外へ向けて考えようと努力したが、人間から向けられた悪意が、嘘が、暴力が、セルフィーネの心を固く縮こまらせてしまった。

様々な所から声を掛けられているような気配がするのに、朦朧もうろうとして目を向けるのも難しい。



しかし、水源だけは、守らなければならない。

水の精霊としての本能というものであるのか、セルフィーネは三国の水源だけに意識を向けて、ただうずくまっていた。





それは、ほんの僅かな光だった。


白く細い糸のような光が、切れ切れに降ってきて、セルフィーネは薄っすらと目を開けた。

光はセルフィーネの目の前に降ってきた。

その美しい輝きが、泥に落ちて消えてしまうのが惜しくて、セルフィーネは重い腕を何とか持ち上げて、右手で受け止めた。


掌に落ちた光は、弱々しいのにとても温かく、セルフィーネの掌をゆるゆると温める。

もっとその光が欲しくて、頑張って左手も上げてみると、手首のバングルが揺れた。



揺れるバングルに、セルフィーネは目を奪われる。


何故だかその揺れが、優しく呼んでいる気がした。

固まっていた心が揺さぶられ、苦しいのに目が離せない。

見ている内、冷えていた胸で、バングルの揺れに合わせて鼓動が強くなっていく。

両手には、弱い光が少しずつ降り積もる。

光の温かさを感じていると、右の肩甲骨の下辺りがうずいた。



揺れと、鼓動と、疼きと、光。

小さな刺激がどんどん重なって、気が付けば、セルフィーネは明るい場所へ戻って来ていた―――。




「……あっ……目が覚めたのか……。だ、大丈夫か?」

突然、視界が明瞭になったセルフィーネの前に、見知らぬ魔術士の男がいた。

魔術陣の側に膝を付き、セルフィーネの膝のたたれの上に、手をかざしている。

黒眼黒髪の男は、黒地に白い線が一本入ったローブを着ており、ザクバラ国の者だと分かった。


「……誰……?」

セルフィーネが警戒気味に身を竦めたのに気付き、彼はぶるぶると首を振った。

「私は、ただの見張りだ。ええっと、以前、国境地帯で堤防建造の現場に配属されたことがあって……」

彼は、はっとして、セルフィーネに翳していた手を引っ込めた。

そして、表情を歪めて、頭を下げる。

「すまない。いや、私が謝って済むような事じゃないのは分かっているけど、きっとリィドウォル様だって、君をこんな風にするつもりはなかった筈なんだ」

セルフィーネは目を瞬く。

「……どういうことだ?」


魔術士は、入口に立っている見張りの兵と顔を見合わせてから、拳を握って口を開く。



彼等は昨年、まだリィドウォルが国境地帯の復興団の代表だった頃、共に派遣されていた兵士と魔術士だった。

ザクバラ国側から橋を渡り、ネイクーン王国の領土に入る度、その空気感の違いを身をもって感じた者達だ。

『ネイクーン王国の水の精霊が欲しい』と、度々声に出してしまっていたのは、彼等や作業員達だったという。

「それよりずっと以前から、リィドウォル様はフルブレスカ魔法皇国に、水の精霊を授けて欲しいと粘り強く嘆願し続けて下さっていた。でも、魔獣騒ぎがあって、その後あの一帯が浄化されて、私達はリィドウォル様に嘆いてしまった……」



なぜ略奪国だったネイクーン王国だけが、あのように水の精霊の恩恵を受け、温々ぬくぬくと暮らしていけるのか。

なぜザクバラ国我等の国はこんなに生き辛いのか―――。



それは、誰もが大なり小なり感じてきた、やり場のない気持ちが噴出ただけだった。

その時に上の立場でいた者が、たまたまリィドウォルだったから、皆の気持ちが彼に向かっただけ。

しかしリィドウォルは、それをザクバラ国民の真の嘆きとして受け止め、結果、起爆剤となってその後の強引な行動に繋がっていく。



「浅ましいと分かっていても、私達はネイクーン王国の清浄な魔力を望み、リィドウォル様はそれを何とか実現しようとなさった。だから……、最初から君の魔力を汚すつもりではなかった筈なんだ」

魔術士は拳を握りしめ、兵士は苦し気な表情で視線を落とす。

「本当に、すまない。君をこんな姿に……」


セルフィーネは魔術士から視線をそらし、ぼんやりと鉄格子の向こうを見た。

「……ネイクーンの魔術士達はどうなった?」

「……彼等は……ネイクーン王国へ帰された」

記憶操作が行われたことは、ここでは口に出来なかった。

セルフィーネはほっと息を吐く。

「良かった。それならば、魔術陣ここを出ても良いだろうか。ここは苦しい……。どうせ、枷が付いていて私は逃げられない」

しかし、魔術士と兵士は、どちらも困ったような顔をした。

「私達では、何とも……」

「……そうか。…………そういえば、さっき、私に魔力を送ってくれたのは、お主か?」

セルフィーネの言葉に、魔術士は目を瞬く。

「そうだ。水属性の魔力を送れば、少しでも傷を治してやれるのではないかと思って……」


セルフィーネはゆっくりと瞬く。

やはり、この者の魔力が、細い光となって降ってきたのだ。

この者達は後悔しながらも、逆らえず見張りをしている。

それでも、セルフィーネを気遣い、こうして魔力を注ぎ込んだ。

「……ありがとう。お主の気持ちは、温かかった」

セルフィーネが小さく呟くと、途端に魔術士は泣きそうな表情で顔を歪ませた。


彼等はそれ以上何も言えず、ただ深く頭を下げていた。





セルフィーネは魔術陣の上で、不快感に耐えながら、やるせない気持ちでいっぱいになった。


ザクバラ国の者達も、その者達なりの理由や感情があり、多くが複雑に混ざり合って、今の状況に繋がっている。


一体、誰を責めることが出来るだろう。


この世界に生きる誰もが、自分の求める物の為に必死に藻掻いて生きているいるのだ。

セルフィーネ自身も、ザクバラ国を清められるかもしれない魔力を全て使って、自分の願い実体を叶えようとしているではないか。


セルフィーネは震えるように息を吐いた。

身体中が痛んで、軋み、背中は熱い。

魔力は回復したというのに、自分のものではないかのように重かった。

ネイクーン王国やフルデルデ王国を見たくても、思うように視界を伸ばすことが出来ない。

それでもここではない場所が見たくて、どうにか広げた視界に、上空の月が映った。


今夜は雲もなく、月が真ん丸く輝いていた。


あの空へ行きたい。

あの清廉とした月光を、存分に浴びたい。

そして、あの下を駆けて、ネイクーンへ、カウティスの下へ、今すぐに……。




パタリ、と雫が魔術陣の上に落ちた。

セルフィーネの頬に次々と涙が流れて、落ちる。

胸が痛んで、堪らなかった。


私はどうしたら良いのだろう。

こんな魔力では、ネイクーン王国に駆け戻ることも、ザクバラ国を救ってやることも、進化を遂げて実体になることも出来ない。

中途半端で、何の役にも立てない、狂いかけのちっぽけな精霊。 


視界が霞んで、丸い月が揺れる。



ああ、月光神様。

こんな私に、貴女は一体何をお望みなのですか?



痛くて、苦しくて、悲しくて、涙を流し続けるセルフィーネの周りを、いつの間にか側にいた精霊達の淡い光が飛ぶ。


不意に優しい声が聞こえた。


『セルフィーネったら、前にも言ったでしょう? 欲しいものは欲しいって、嫌なものは嫌って、言っていいの。言わないと、伝わらないの』


「アナ……リナ……」

セルフィーネが目を瞬く。

霞んでいた視界が明瞭になり、月がはっきりと映った。


『さあ、セルフィーネはどうしたいの?』



「………………カウティス」

名を口にすると、更に涙が溢れた。

頬を流れ、顎を伝い、パタパタと落ちる涙が、魔術陣の表面に波紋を広げていく。

「……会いたい……」

背中の聖紋が、焼けるように痛んだが、そんなことはもう、どうでも良かった。

セルフィーネは顔を両手で覆って、心からの願いを叫んだ。

「カウティスに会いたい! もうここにいたくないの!」



『セルフィーネ!』



カウティスの声で呼ばれて、弾かれたようにセルフィーネは両手に伏せていた顔を上げた。

留置場の床に座ったままで、足枷も付いているのに、周囲には青銀の光の粒が散っている。


『セルフィーネ! こっちを見ろ!』

再び呼ばれて、セルフィーネは声のする方を見た。

足下にあったはずの魔術陣が、泉のような澄んだ水面に変わり、その向こう側から、カウティスが水面を覗き込んでいた。


「カウティス……、カウティス……!」

思わず両手をつくと、水面に大きく波紋が広がったが、それはすぐに消えて、鏡面のような滑らかな水面に戻った。

カウティスの心配そうな顔がはっきりと見えて、セルフィーネの涙が更に溢れた。

『セルフィーネ、無事か!?』

「……無事だ……」

カウティスの顔が、僅かに苦しく歪んだのが分かった。

『今、何処にいる? ザクバラで捕まっているのか!?』

セルフィーネは頷く。

涙は止めどなく溢れるのに、胸が詰まって言葉が上手く出なかった。


セルフィーネは震える手を伸ばし、水面に映るカウティスの頬に指を添わせる。

澄んだ青空色の瞳が、切な気に揺れた。

「かえ……り……たい……っ」

辛うじて絞り出せたのは、たった一言で、その後は嗚咽にしかならなかった。


『迎えに行く! 必ずっ!』

カウティスが強い声で言った。

『待っていろ、セルフィーネ。必ず迎えに行く!』

カウティスの手が、水面についたセルフィーネの手に合わさる。

波紋が広がって、水面に映るカウティスの姿が虚ろになった。


周囲の青銀の光が散ってゆく。


『必ずだ! 信じて待っていろ!』

カウティスの叫びを聞き、セルフィーネは泣きながら何度も頷いた。




「……カウティス」

もう一度名を口に出来た時には、青銀の粒は消え、足下の魔術陣が涙に濡れて鈍い光を失っていた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る