戻らない水の精霊 (前編)
水の季節後期月、一週二日。
ネイクーン王城の王の執務室から、やり場のない苛立ちを滲ませて、カウティスが出て来た。
そのまま足早に廊下を歩いて行く。
「少し頭を冷やす。一人にしてくれ」
内庭園に続く扉を出る前に、後ろを付いて歩くラードにそれだけ言って、カウティスは扉を開ける。
ラードはその場で立礼して見送った。
カウティスは大股で内庭園を抜ける。
内庭園には、もうすぐ咲くのであろう大振りの花々の蕾が多く並んでいて、既に咲いている少し小振りな赤い花が、微風で揺れている。
その香りは濃く甘く、今の気分をなぜか逆立てた。
美しい花々も、楽しげに鳴く小鳥の声も、大樹の葉を揺らす微風も、全てが苛立ちを誘う。
ずっと強く歯を食い縛っていたようで、泉の庭園に着いた時には、顎が痛いほどだった。
泉を覆うガラスは、陽光を反射してキラキラと輝いていた。
天井が複雑に重なり合っているからか、黒い土には、小さな虹色の光が幾つも落ちている。
カウティスは扉部分を開けて、誰もいない中に入った。
ここに来れば、もしかしたらセルフィーネが半実体を現して待っているのではないか。
『驚いたか?』と、
そんな僅かな希望を胸に残していたカウティスは、落胆して泉に近寄る。
「……セルフィーネ」
水面に向かって声を掛けると、少しの間を空けてパシャと僅かに水が跳ねた。
カウティスは大きく息を呑む。
「セルフィーネ! 無事かっ!?」
飛び付くように縁に掴まり、再び声を掛ける。
「セルフィーネ! もう一度返事をしてくれ!」
カウティスは必死に何度も名を呼んだが、水面はもう反応をしなかった。
北部から西部の拠点に戻っていたカウティスは、月初めに日付けが変わる頃、ラードとマルク、ハルミアンと共に、拠点近くの川原に下りてセルフィーネが帰って来るのを待った。
しかし、日付が変わってもセルフィーネは戻らなかった。
ハルミアンやマルクが空の魔力を見たところ、魔力は回復の速度を増していた。
しかしその色は、褪せたように乾いた色合いに変わってしまっているという。
一体、いつこんな色になってしまったのか。
集中雨の間、雲が厚く、空はずっと暗い色だった。
天候を司る水の精霊と風の精霊が勢いを増していて、セルフィーネの魔力がよく見えない状態だったので、気付くのが遅くなってしまったのかもしれない。
半日待って、セルフィーネの魔力がザクバラ国から動く気配がないことを確認し、カウティス達は昨日の内に王城へ戻って来た。
泉の縁に腰を下ろして
扉を開けたのはハルミアンだった。
くすんだ金髪の頭を傾げ、おずおずと足を踏み入れる。
「……ごめん、考え事の邪魔をした?」
「いや……。さっき、一度だけセルフィーネが返事をした」
「本当に!?」
ハルミアンは急いで泉に寄って、地面に膝をつき声を掛けたが、水面に反応はなく、魔力の名残もない。
それでも、一度でも反応したということは、きっと無事ではあるのだ。
ハルミアンは膝をついたまま、隣で項垂れたカウティスを見上げた。
「陛下は何て?」
「…………落ち着いて待てと」
カウティスは帰城してすぐ、ザクバラ国へ行く許可を得ようとしたが、エルノートは許さなかった。
幸いと言うべきか、以前祖父が会いたいと書簡を送ってきていたので、それを理由にすれば中央へ出向けるのではないかと思ったのだが、一度断りの返書を送っている手前、それを覆した上に、突然訪問が出来ないのは当然のことだ。
ネイクーン王国へセルフィーネが留まる予定なのは、月初めの二週間。
その間に、ザクバラ国へ派遣されていた魔術士達も帰って来るはずだ。
ザクバラ国がセルフィーネを留めるのには理由があるはずなのだから、まずそれを探るのが先だという。
三週一日には、とうとうセイジェが王城を出て、ザクバラ国へ向かう。
最悪の場合、そこに組み込んでもらって同行することは出来るだろうが、その場合、急ぎの行程ではないので、ザクバラ国の中央に到着し、登城するのは四週末以降だ。
セルフィーネの魔力は三国に広がっていて、どの水源も問題なく保たれている為、水の精霊の契約自体に問題はない。
三国が取り決めた協約に反するとザクバラ国へ抗議は出来ても、最初に協約を変えたのはネイクーン王国とフルデルデ王国で、それに譲歩した形にも見えるザクバラ国へ、強く抗議するのは難しい。
しかも、セルフィーネが自らの意思でザクバラ国に残っているのだと、向こうが主張することは目に見えていた。
結局のところ、ザクバラ国は最初からそれが狙いで、協約を改定したように見せたのだろう。
カウティスは強く奥歯を噛む。
セルフィーネが、望んでザクバラ国へ残っている訳がない。
ネイクーン王国へ帰れるのに、自分の下に帰って来ないはずがないのだ。
何かあったのだと分かっているのに、何があったのか探ることもままならず、ただ水に向かって声を掛けるだけの己に歯痒さが募る。
「……確かに、考えなしで単身乗り込んでも、何が出来る訳でもない……。王城にさえ、入れないだろう」
分かりきったことを口に出してみても、カウティスの心の中はそれでは納得しきれなかった。
セルフィーネを取り戻したい。
今すぐに、会いたい。
何を考えても、思考はそこへ戻ってしまう。
「使い魔がいたら、ザクバラ国を見に行けるんだけど……、ごめん」
申し訳無さそうに目を伏せるハルミアンを見上げ、カウティスは首を振った。
「ハルミアンが謝る事ではない。むしろ、ハルミアンのおかげで、早くセルフィーネが半実体を現すことが出来たのだから」
ハルミアンは形の良い唇を歪める。
カウティスはああ言ったが、もしかしたら半実体を現すことが出来るようになったが為に、セルフィーネはザクバラ国で捕まるような事になってはいないだろうか。
普通であれば、人間は彼女の半実体に触れることは出来ない。
しかし、魔力を持った物、例えば魔術具であれば、魔力の強い塊である半実体には触れることも出来、物によっては捕らえる事も出来る筈なのだ。
「何か……、何か手はないのか……」
セルフィーネの様子を知る、又は強く呼び掛ける方法が、何かないのか。
カウティスは膝の上で拳をキツく握る。
皮手袋の下で、聖紋の欠片が鈍く
ザクバラ国の留置場では、リィドウォルが魔術陣の前で息を呑んだ。
魔術陣の上には、
彼女の姿は、小柄な成人女性のようだった。
真っ直ぐな青紫の細い髪。
整った美しい顔立には、少し目尻の下がった、紫水晶の瞳。
白いドレスの裾から見える、陶器のような滑らかな足首には、ネイクーン王国の魔術士に付けていたような、魔術具の枷が付けられていた。
この美しい姿はまるで生身のようだったが、不思議と人間の手を擦り抜けてしまい、触れる事が出来なかった。
ただ、物を通しては触れる事が出来ると分かり、試しに足枷をつけてみると、しっかりと彼女の白い足を固定出来た。
セルフィーネはあの日、魔術陣の上で半実体を現し、水の季節後期月、一週二日の今になる迄、ずっと眠り続けていた。
ようやく目を開けた彼女は、何も言葉を発さず、リィドウォル達が側に来ても、宙を見詰めてぼんやりとしたままだ。
人のようでいて、人とは全く違う美しさを持つ
護衛騎士イルウェンの話では、その引き攣れは、鞘付きの片刃剣を打ち下ろした時に付いたものだという。
大きな傷口から血が出ているようにも見えたが、よく見ればそれは赤黒い泥のようで、彼女の呼吸に合わせて、僅かにグズリと動いていた。
「よもや、既に自在になる
リィドウォルの隣で、魔術師長ジェクドがゴクリと喉を鳴らして言った。
水の精霊の美しさに、見張りの兵や魔術士の数名は自失している。
「これは、王弟が惑わされる訳だ……」
“王弟”という言葉に、彼女はピクリと指を動かした。
紫水晶の瞳が、突然硬質に変わり、急激に魔力が薄く薄く空へ伸びた。
ネイクーン王国へ視界を伸ばしたのだと気付いて、リィドウォルは
一瞬顔をしかめて、水の精霊が魔力を消した。
しかし、リィドウォルが突いた膝の辺りは、滲むようにグズリと赤黒く
美しい見た目に反して、毒を含んだようなその色合いに、思わずリィドウォルは眉根を寄せた。
「……何だこれは。どうなっている?」
「傷が……膿むのか……? これは無闇に触れんぞ」
ジェクドが唸るように言った。
「……足枷は通用しているのだ。このまま動かぬように見張って、回復させておけ」
リィドウォルが棍棒を押し付けるようにして兵士に返す。
「しかし、空の魔力の色はどんどん悪くなっている。本当にこのままで良いのか?」
リィドウォルが
「色が何だ? 魔力は魔力だ。事実、
イルウェンに打ち倒され、暴行を受けたはずの魔術士達は、全員無傷であった。
折られた腕も元に戻っていたし、昏倒させられていたザクバラ兵も、倒れる際に受け身も取れていなかったはずなのに、打ち身や擦り傷ひとつなかった。
水の精霊が、この場にいた者を全て神聖力で癒やしたのだ。
「どうせやり方を変える時間など、既にない」
数日の内には、何が何でも
リィドウォルは暗い瞳で水の精霊を凝視する。
水の精霊は宙を見詰めたままだった。
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