脱出

この回には暴力的表現がありますが、行為を容認・推奨するものではありません。


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セルフィーネは魔術陣の上に立ち続けていた。



苦しい。

確かに魔力の場に立っているはずで、取り込むことが出来ているのに、ここは何故こんなに苦しいのか。


月光を浴びる時のような、身体の表面からじわじわと染み入るものではない。

ネイクーン王国のガラスの覆いのように、温かいものを飲み込んで、身体の内からジワリと温もりが広がるようなものでもない。


冷たく尖った魔力が、魔術陣から湧き上がる。

じ開けた口に、無理やり流し込まれるような不快感に、何度も喘ぎそうになった。

苦しくて堪らないのに、ここから動くことは許されない。

いっそ、目を閉じてしまいたかった。

しかし、この不快な感覚の中では、それすらも上手く出来ない。


セルフィーネは左手首のバングルを胸に抱き込んで、ただ黙って耐えた。



鉄格子の向こうでは、ネイクーン王国の魔術士達が拘束されたまま、心配そうな目でこちらを見ていた。

腕を折られた魔術士は、あれから治療もされないままだ。

痛みからか発熱している様子だったが、水や食事が運ばれて来ても、盆には薬すら乗っていない。

セルフィーネは、「どうか薬師を呼んで欲しい」と水を通して懇願したが、見張りに立つ兵士も、食事を運んで来た下男も聞こえないふりをした。


セルフィーネは唇を噛んだ。

せめてもっと近くであったなら、治してやれるのに。

「……皆、すまない。私のせいだ……」

「いいえ! 違います!」

ポツリと零したセルフィーネの言葉に、魔術士達が一斉に反応したので、見張りの兵が鞘付きの剣で鉄格子を叩いて牽制した。

ガンガンという大きな音で、セルフィーネはビクリとした。

また魔術士達に酷いことをされてはいけないと、セルフィーネは彼等に話しかけるのもやめた。





水の季節前期月、最終日。


午後の二の鐘が鳴り、セルフィーネは視界を外に向ける。

今日は久しぶりに雲が晴れて、長雨で湿りきった大地を暖めるように、太陽が煌々と輝く光を放っていた。

きっと今夜は、月も冴え冴えとした月光を降らせるに違いない。


月光を浴びたい。

明るい月の下を駆けて、早くネイクーンへ戻りたい。

祈るような気持ちで、セルフィーネは左手首のバングルを撫でた。




「せめて、手枷だけでも外してやってくれませんか」


ネイクーンの魔術士達の方から声が聞こえて、セルフィーネは我に返った。

腕を折られた魔術士の熱が高いようで、他の魔術士が見張りのザクバラ兵士に懇願していた。

兵士は午後の一の鐘で交代した青年で、始めて見る顔だった。


「お願いです。体勢も変えられないんです。発動体もない魔術士我々には、どうせ何も出来ません」

魔術士達は皆、両手首をくっつけた状態で魔封じの手枷を付けられていて、腕を折られた魔術士も手枷の付いたままだったので、横になっても楽な体勢になれなかった。

彼はぐったりしていて、動かない。


見張りのザクバラ兵士には、魔術素質があるのだろう。

迷うように、ぐったりした魔術士と、魔術陣の上に立つ水の精霊魔力の纏まりを、何度も交互に見た。

セルフィーネも『頼む』と言いたかったが、ここには水が置かれていない。

声を掛けられることを避けるためか、セルフィーネが水を操作するのを警戒してか、食事を運んで来る時以外、徹底して水を置かなくなっていた。

兵士は、迷いに迷った末、決心したように鉄格子の扉の鍵を手にした。


「お前達は下がって膝をつけ」

五人の魔術士達は、兵士の言う通り、大人しく壁際に下がって膝をついた。

それを見てから、兵士は片刃剣を鞘から抜き、鍵を開けて入る。

五人を警戒しながらも、横になったままぐったりと動かない魔術士の手枷を外した。



途端にぐったりとしていた緑ローブの魔術士が、目を開ける。

「昏倒」

兵士を睨んで一言発すると、目が合った兵士が白目を剥いて、その場で床に倒れ込んだ。



呆気に取られているセルフィーネを他所よそに、五人の魔術士達が一斉に動き出した。

「良くやったぞ」

倒れていた緑ローブの魔術士が助け起こされる。

彼は苦痛に顔を歪めながらも、小さく笑う。

「……ネイクーンの魔術士を舐めるなってんだ……」

緑ローブの魔術士ともなれば、正確さは格段に落ちるが、発動体がなくても極簡単な魔術なら発現できた。



兵士の持っていた鍵で、手枷を外した別の緑ローブの魔術士が、セルフィーネの下に走って来た。

「水の精霊様、今の内にお逃げ下さい。昏倒は長くは保ちません」

セルフィーネは驚いて大きく首を振る。

« 出来ない。私がここから出ればまた、そなた達が…… »

声は聞こえないが、魔力の纏まりがイヤイヤと首を振ったのが分かり、魔術士は強い口調で言う。

「水の精霊様、きっとザクバラの者達は、月が替わっても水の精霊様をザクバラ国から出すつもりはないでしょう」


これ程の扱いを受けても尚、協約の下、ネイクーンへ帰れると思っていたセルフィーネは、愕然とする。


「今月ザクバラ国が水の精霊様を自由に行き来させたのは、月が替わっても、水の精霊様が自ら望んでザクバラ国へ留まっているのだと言い張る為だと思います」

自由な往来を許可して、実際にネイクーンへ帰らせた。

その事実があるのだから、帰りたいのならば、水の精霊はネイクーン王国へ戻るはずだ。

戻らないのならば、ザクバラ国へ留まる意思があるということ……。

セルフィーネに震えが走る。


「事実、水の精霊様は脅されたとはいえ、ご自分の意思で留まっておられます。それではいけません! お逃げ下さい! ネイクーンへ戻って、陛下にご報告を!」

魔術士の切な訴えに、セルフィーネの足は震える。

自分がネイクーンへ戻ってしまったら、この魔術士達はどうなるのだろう。

セルフィーネの懸念を察して、魔術士は笑顔で頷く。

「陛下が帰国命令を出してくださいました。返信もしたので、我々を帰さない訳にはいきません。我々の心配要りませんから、早く!」


いくらエルノート王の下命があっても、ここでセルフィーネを逃した魔術士達を、ザクバラ国の者達が大人しく帰すのだろうか。

セルフィーネが視線を上げると、手枷を外した魔術士達が鉄格子から外へ出て、決意を込めた目でこちらを見ている。

彼等も、この後どういうことになるのか予想はついているのだ。

しかし、事を起こした以上、ここでセルフィーネがじっとしていれば、更に状況が悪くなることだけは確かだった。


「水の精霊様!」

魔術士が強く呼ぶ。


セルフィーネは震える足を叱咤しったして、魔術陣を一歩出た。

魔力の場を離れて、全身の解放感によろけながら、魔術士達の方へ何とか駆けて、手を伸ばす。

これから彼等がどうするにしても、腕を折られた魔術士を、そのままにはしておけなかった。

セルフィーネの掌が折れた腕を撫でると、腕は最初から折れてなどいなかったかのように、元通りになった。


« すまない »

聞こえない声で辛うじてそれだけを呟き、驚く魔術士を置いて、セルフィーネは上空うえに駆けようとした。




その時、鈍い叫びを上げて、廊下へ続く入口付近にいた魔術士が一人倒れた。


咄嗟とっさに振り返ったセルフィーネの目に、冷たい石床に倒れた魔術士の姿が映る。

入口から入ってきた目つきの悪い騎士が、鞘付きの片刃剣で、倒れている魔術士の後頭部を打ったのだ。


「……何だ、これは」

騎士は、リィドウォルの護衛騎士のイルウェンだった。

彼は目つきの悪い目を更にすがめて、魔術士達をギロリと見た。

「昏倒!」

緑ローブの魔術士が即座に声を上げる。

しかし、パンと軽い音が響いて、昏倒の魔術を使った魔術士に殴られたような衝撃が返った。

「ははっ! 馬鹿めっ!」

イルウェンは顎を上げてせせら笑うと、鞘付きの片刃剣で魔術士達を次々に打ち倒す。

その容赦ない剣の振りは、例え魔術士の骨が折れようが内臓を痛めようが、全く気にする様子がないことを示していた。




あっという間に入口付近にいた五人を打ち倒したイルウェンは、側に落ちた魔封じの手枷を蹴り飛ばすと、一人残っている、魔術陣の側に立ち尽くした緑のローブの魔術士を睨んだ。


「水の精霊を逃したのか?」

イルウェンはゆっくりと足を踏み出し、魔術士は黙って彼を睨み返した。

「……これだからネイクーン王国の者は嫌いなんだ。綺麗事ばかりで、気持ち悪い」

魔術士に逃げ場はない。

彼は必死に、近付いたイルウェンの脇を擦り抜けて走ろうとした。

イルウェンは、振りかぶった鞘付きの片刃剣を容赦なく下ろす。

魔術士は咄嗟とっさに腕で頭を庇ったが、打ち倒されて魔術陣の側に転げた。


「ネイクーンの者は皆そうだ。生温なまぬるく、偽善的で、自己犠牲も美徳だと思っている」

イルウェンは床を這う魔術士を蹴った。

「第二王子もっ、水の精霊もっ! 虫酸が走る!」

鈍い音を立てて、何度も蹴り付ける。

魔術士は這う事も出来ず、うめき声を上げるだけだ。



その暴力的な行動に、イルウェンは酔った。

ここ最近の、抑圧されたような不満が暴力により発散される。

殴れば殴るほど、蹴れば蹴るほど頭に血が上って、その衝動を増した。


「リィドウォル様が変わられたのも! 水の精霊に関わってからだ!」

いつも側に付いていたのに、国王が目覚めてから、度々離されるようになった。

思い悩んでいるようなのに、その内容を打ち明けては貰えない。



魔術陣の上に半身が入った魔術士の腹を、イルウェンが強く蹴った。

かふっという息と共に、魔術士の口から血の混じった嘔吐物が溢れる。


「何もかも、ネイクーンお前らのせいだ!」

憎々しげに叫んで、右手に握った片刃剣をイルウェンが振り上げた。




目の前に突然、白い光の粒が集まり、女性の形を成してイルウェンの前で両腕を広げた。


「っ!?」

人成らざる美しさが眼前に現れて、イルウェンは瞬間的に恐怖した。

驚きと恐れのあまり、上げていた剣を力任せに振り下ろす。


それは不思議な感触だった。

確かに女の肩から斜めに当たったのに、腕に強い衝撃はなかった。

「うああぁっ」

だが、訳の分からない震えが沸き起り、イルウェンは思わず数歩下がって剣を落とした。




魔術陣の上で、倒れた魔術士の上に額を落とすように、女がうずくまった。

流れるような青紫の長い髪。

白いドレスの襞から出た陶器のような手足。

彼女がゆっくりと頭を上げると、サラリと流れた髪が、青銀の光をはらむ。

その細い髪の間から、涙に濡れた頬が僅かに見えた。

パタパタと、魔術士の身体に涙が落ちる。

落ちたところを中心にして、青白い波紋のような光が、留置場内に静かに広がっていく。



その光が消えると同時に、彼女は魔術士の上に覆い被さるようにして倒れた。






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