会いたくて

ザクバラ国王の居室には、薬香の匂いが染み付いている。

今は薬香を使っておらず、部屋の仕様も随分変更されているが、長く焚き続けられた香の匂いは短期間で消えるものではない。



今その香りに、僅かに血と嘔吐物のえた匂いが混じっている。


柔らかな絨毯の上に転がったのは、今しがた絶息した貴族院の男が二人。

「片付けよ」

寝台の上から王の静かな声が降ると、近衛騎士と青褪めた侍従が、二体の死体を運び出す。


命じた王の指には、金の指輪が光る。

痩せ細り、すぐにでも抜け落ちそうな右手の人差し指に包帯を巻き、その上からはめられた金の指輪は、魔術士の発動体だ。

魔術素質が異常に高い王は、魔術も当然ひと通り身に付けている。


先程魔術を発現したばかりの指輪を親指でなぞり、王は一つ溜め息をついた。

死体の転がっていた絨毯が、侍従頭の指示で剥がされ、床が清められていく。


「忠臣とは、如何いかなるものか……」

虚ろに吐かれた言葉は、薬香の香りの室内に吸い込まれた。




水の季節前期月、四週五日。


ザクバラ国の貴族院館では、午前の会議が始まる前に、貴族達がざわめいていた。

昨夜、貴族院二名が謀反の疑いで処断されたというのだ。

その者等の一族は、既に国外へ出ていた者達もおり、追討の兵も出ているという。

しかし、彼等はザールインの腐敗政権の中、下の役職にされても国を支え続けてきた者達だった。



表面上、順調に滑り出したかに見えていた王の復帰政権に、小さな疑念が落ちた。

それは、透明な水の中に一滴の墨汁が落とされたように、波紋と共に人々の心に滲んでゆく。


現国王を支持することは、間違ってはいないのだろうか、と。


彼等の戸惑いと疑念を感じて、リィドウォルは背もたれに身体を預け、目を閉じる。

処断された二人は、“血の契約”を課せられていた。

王との“血の契約”は、後年になる程、秘密裏に行われた者が多い。

リィドウォルがそうであったように、押さえ付けられて強制的に行われた例もある。

二人はそうした者達だったはずだ。





昨夜、知らせを受けて、リィドウォルは即座に王族の居住区に向かった。


王の居室の前で待っていた侍従頭に、リィドウォルは息を切らして問うた。

「陛下は!?」

「ご無事です。久し振りに魔術を使われ、お疲れになったようで、今は眠っておいでです」

「陛下が魔術を? 発動体を身に付けられていたのか?」

「はい。先日ご所望でしたので、お持ちしました」


顔色を悪くしながらも、従順に王に付き従う侍従頭を見詰めて、リィドウォルは強く眉根を寄せる。

「……もしや、陛下自らが処断なさったのか」

侍従頭は目を伏せた。

「お二方は、“血の契約”を解いて頂きたいと申し出られ、陛下はそれを、反逆の意であると……」

リィドウォルは、目の前が暗くなるような気がした。

「叔父上……」


意識を取り戻し、回復を見せてからの王に、皆、過去の面影を見ていた。

苛烈な部分はあっても、一度懐に入れた者達には深い温情を見せる。

そういったところが人々を引き寄せた。

結果、ザールイン達に出し抜かれることにも繋がったのだが、それでも側近達は皆そういう王だからこそ惹かれて付いて行った。


しかし、今回の処断は違う。

その場で反意と判断し、自らが手を下してしまった。





リィドウォルは目を開き、背もたれから重い身体を引き剥がした。

「時間だ。会議を始めよう」

通る声で、ざわついていた室内に静けさが戻る。


―――船は沈み始めた。


出来ることは、沈み切る前に必要な荷だけ次の船に渡し、残りを全て藻屑と消すことだ。






午後の二の鐘が鳴ってすぐ、カウティスはネイクーン王城に帰り着いて、馬を降りた。


「王子、気持ちは分かりますけど、まず陛下に帰城報告してからですよ」

続けて馬を降りたラードが、既に庭園に続く方角に視線を向けているカウティスを見て、苦笑いしながら声を掛ける。

「言われなくても分かっている」

カウティスは鼻の上にシワを寄せた。



今日は、セルフィーネと泉の庭園で会う約束をした日だ。


約束をしてからの三日間は、異様に長く感じた。

始めて他国に送り出した光の季節の時のように、一日が、一刻が、なかなか進まない。

あの時のように、心配や不安に襲われていた訳では無いし、毎日拠点で会って話しているのに、胸が苦しくて落ち着かない気持ちになった。

予定では午後に拠点を出発するはずだったのに、カウティスが今朝は特に落ち着かないので、昼休憩に入るよりも前に、マルクが出発準備を整えて送り出してくれたのだった。



カウティスは王城の正面に向かって進みながら、息を一つ吐く。

胸が、身体が熱い。

早く、セルフィーネを抱きしめたかった。




カウティスは、ラードと共に王の執務室に向かい、取り次ぎされて入室した。


「カウティス」

入り口の衝立の影から出た途端に、セルフィーネの声で名を呼ばれ、カウティスは心臓が飛び出すかと思った。

「セルフィーネ?」

魔力が見えないカウティスは、視線を泳がせる。


執務室には、ちょうどメイマナ王女が来室してお茶をするところだったらしく、入口付近のソファーにエルノートと向かい合って座っていた。

「まあ! 早めに殿下に会えましたね、セルフィーネ様」

メイマナ王女は、笑窪を刻んだ笑顔でソファーの隣を見た。

ソファーの方から朝露のような蒼い香りがして、カウティスは思わず笑顔になって、手を伸ばした。

「セルフィーネ!」

香りがすぐ側まで近付いて、胸元に軽く風圧のようなものを感じた。



嬉しそうに頬を緩めるカウティスを見て、エルノートがソファーで、白い詰め襟の腕を組む。

「カウティス、何か忘れていないか?」

「えっ? あっ、陛下、西部より只今帰城致しましたっ」

急いで姿勢を正して立礼するカウティスに、エルノートが拳を口に当てて笑い出す。

ラードも、侍従達も笑いをこらえていた。

メイマナが笑って小さく眉を寄せた。

「陛下、意地悪はお止めなさいませ。カウティス殿下、セルフィーネ様は私が陛下とお茶が出来るように、体調を診に来て下さっていたのですわ」


そういえば、メイマナ王女は悪阻つわりで大変だから、度々神聖魔法をかけに行っているのだと聞いた。


まだ笑いの収まらないエルノートが、ソファーで肩を揺らして薄青の瞳を細める。

「報告などは明日で良い。ああ、これを持って行け。セルフィーネが食べたがっていた」

言って、お茶の用意がしてあったワゴンから、侍従に何やら包ませる。


「早く行け。セルフィーネが泣きそうだ」

魔力の見えるエルノートとメイマナには、セルフィーネはどう見えているのだろうか。

カウティスの側に来てから、何も言わないセルフィーネを不思議に思っていたが、『泣きそう』と言われて、カウティスは慌てた。

「失礼します! セルフィーネおいで」

言ってカウティスはきびすを返した。



「本当に、お可愛らしい。もし娘だったら、あのように育って欲しいですわ」

セルフィーネの神聖力ですっきりしているメイマナが、カウティスの消えた衝立の方を見て言うと、エルノートは軽く顔をしかめた。

「セルフィーネか? 私は娘なら、メイマナに似て欲しいが。きっと、誰よりも利発で愛嬌のある子になる」

執務室に残されたラードと侍従達が顔を見合わせた。

陛下も先王陛下と似て、意外と子煩悩な父親になりそうだと、笑いをこらえる。

ふふと、メイマナが幸せそうに笑った。




カウティスは足早に内庭園まで出ると、そこからは長いマントをひるがえして走った。

温室の横を過ぎ、大樹の脇を通って花壇の小道を抜けると、小さな泉の庭園に出る。

そのままガラスの覆いに近付くと、扉部分を開いて中に入った。


エルノートに渡された小さな包みを、放り出すように泉の縁に置いて、両腕を広げる。

「セルフィーネ」

胸のすぐ前に、何処からか青白い光の粒が降ると、り集まってセルフィーネが姿を現す。


目に見える姿が現れたと思ったら、セルフィーネは顔も見せずに、カウティスに抱きついてしまった。

「……っ、セルフィーネ?」

セルフィーネが珍しく腕に力を込めるので、柔らかな身体が押し付けられて、カウティスの声が上擦った。

「…………戻るのは、夕の鐘半だと言っていたのに」

「ああ……、すまない。早すぎたか?」

セルフィーネが首を強く振った。

「違う、嬉しくて……」


カウティスは、マントを掛けたセルフィーネの肩を掴んで身体から引き離す。

「セルフィーネ、お願いだ、顔を見せてくれ」

そっと上を向いた紫水晶の瞳は濡れていて、カウティスは眉を下げた。

「……なぜ泣く」

「胸が苦しくて……。私……、毎日会っていたのに……」



カウティスは堪らず、セルフィーネの細い身体を掻き抱く。

「同じだ。俺も、苦しくて堪らなかった。そなたをこうして抱きしめたかった」


二人は抱き合ったまま、暫く互いの鼓動を感じていた。





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