幸せの香り
ポツリ、ポツリと、ガラスの覆いに雨粒の落ちる音がする。
空には薄灰色の雲が広がっているが、薄く晴れ間も覗いていて、弱くにわか雨が降るだけかもしれない。
「落ち着いたか?」
カウティスが顔を覗き込むと、涙が止まったセルフィーネが、コクリと頷いた。
「そなたは相変わらず泣き虫だな」
笑われて恥ずかしいのか、僅かに唇を尖らせて、視線を逸したセルフィーネの頬が赤い。
その様子が可愛くて、カウティスは触れたくて手を伸ばした。
しかし、指先が色付いた頬に届く前に、セルフィーネが泉の縁に置いた包みを指した。
「あれ……」
「ああ、兄上が渡して下さった物だが、何だろう。そなたが食べたがっていたと……」
カウティスが白い包みを拾い上げて開ける。
中には、黄金色のジャムが挟んである小さなビスケットが入っていたが、カウティスが無造作に投げ置いたので、幾つか割れていた。
「……すまない」
カウティスが申し訳無さそうにするが、セルフィーネは全く気にした様子はなく、目をキラキラと輝かせた。
「これは、リグムパイなのだろう?」
リグムは今の時期に採れる果実だ。
そのままでも食べられるが、加工して菓子に使われることが多い。
リグムの甘煮をたっぷり詰めて焼いたパイは、カウティスの好物だった。
カウティスは甘い匂いを嗅ぐ。
「リグムジャムだが、パイではないな。ビスケットサンドだ。味見してみたかったのか?」
泉の縁に座ったセルフィーネの隣に座り、カウティスが包みの中身を見せた。
「カウティスの好物の味が知りたかったのだが、違うのか?」
残念さを滲ませて、セルフィーネが首を傾げた。
青紫の細い髪がサラリと揺れる。
カウティスの胸が、ドキリと跳ねた。
「……パイではないが、リグムジャムは俺が一番好きなジャムだ。味見するか?」
「する」
セルフィーネは嬉しそうに目を細めて頷く。
その表情が、仕草が、いちいち可愛くて、カウティスの鼓動は勝手に早くなる。
しかし、冷静さを装って包みの中に手を入れた。
ビスケットの角が割れて、挟んだジャムが見えているものを選び、指で摘む。
すぐ側で、期待に満ちた表情で菓子を見詰めるセルフィーネの前に差し出すと、彼女は輝く紫水晶の瞳を伏せて、淡紅色の薄い唇を開いた。
僅かに見えた柔らかそうな舌先が、カウティスの持つビスケットの断面に触れるのを見て、一瞬で血が上った。
カウティスは持っていた菓子を包みに落とし、驚いて目を開けたセルフィーネに口付けた。
濃い空気の層に触れたような感触と、僅かなジャムの甘さが伝わる。
柔らかな唇を強く求めたいのに、求められないもどかしさに、息が詰まりそうになった。
「セルフィーネ、魔力干渉を……」
マント越しに華奢な肩を抱き、耳元で熱く乞えば、カウティスの目に、水色と薄紫色の魔力の層が見え始めた。
セルフィーネの細い指先が、カウティスの顎に触れ、確かめるように頬に上る。
その白い手を、頬に触れたまま握り締めれば、人間のそれと同じ様な感触に驚いた。
目の前の姿に、この手触り、重みや小さな息遣いまでがあまりにも鮮明で、今ここにセルフィーネが生身の身体を持って存在していない事が信じられない。
見上げる紫水晶の瞳にも、驚きと戸惑いの色が見え、カウティスは痛い程に高鳴っている鼓動を感じながら、軽く微笑んで見せた。
「そなたも感じるか? もう、本当に実体のようだ」
微笑みを返し、コクリと頷くセルフィーネの髪に左手を差し入れる。
「……もっと、触れても良いか?」
セルフィーネの頬が、サァと濃く色付いた。
サラサラと甲を流れる髪の感触を楽しむと、カウティスは首の後ろを支えてそっと手前に引く。
自然と上向きになったセルフィーネの唇に、ゆっくりと唇を落とした。
喰む唇の柔らかさ、吐息、胸に添った細い身体から伝わる鼓動。
全てが現実的なものに感じられた。
以前の半実体と同じ様に、人間の体温よりも低いセルフィーネの身体は、カウティスの触れるところから徐々に熱を帯びていく。
「……カウティス、……待って」
騎士服の胸を弱々しく押されて、理性の飛びかけていたカウティスは我に返った。
いつの間にかセルフィーネの肩から下ろされた濃紺のマントは、半分が泉の水に浸かっている。
白いドレス姿のセルフィーネは、素肌の肩も首元も
「すまない! 熱かったか!?」
カウティスが焦って少し離れると、セルフィーネは肩で息をする。
「大丈夫だ……。でも、まだ魔力干渉を解きたくないから……」
「え、と……『がっつかないで』?」
「がっ……つ……」
潤みきった瞳で上目に見て言われ、カウティスは縁の下にズルズルと落ちて、立てた膝の間に顔を隠した。
耳が非常に熱い。
「カウティス?」
「………………そんな言葉、一体誰に教えて貰ったのだ」
「ラードだ。カウティスが夢中になりすぎたら、そう言えと」
「ラードめ!」
カウティスは顔を
おかしな言葉を教えおって、と口の中でブツブツ言ったが、その言葉通りだったが為に、セルフィーネが身体をこんなに真っ赤にさせている。
また我を忘れて困らせるところだった。
カウティスは何度か深呼吸すると、立ち上がって泉の縁に座り直した。
息は整ってきたが、身体のあちこちが赤く、潤んだ瞳で不安気に見上げるセルフィーネを、そっと抱きしめ直す。
「すまない。困らせないようにするから、もう少し
腕の中で、セルフィーネが小さく頷く。
蒼い香りと、微かに菓子の甘い香りがして、この上なく幸せな気持ちになった。
カウティスは細い髪を愛おしく撫でながら、その幸せな香りで胸をいっぱいにした。
日付が変わる少し前に、セルフィーネは一度カウティスの胸に額を
「もう行く」
「……少し早くないか?」
カウティスが空を見上げた。
にわか雨はとっくに止んで、今夜は雲もあるが、月も見えていた。
月が中天に差し掛かるには、少し早い。
「拠点に寄って、マルクに会って行く」
「マルクに?」
僅かに不満気な声を出すカウティスを、セルフィーネが笑って見上げる。
「今日、カウティスとゆっくり一緒にいられたのは、マルクのおかげだろう? とても嬉しかったから、感謝を伝えて行きたい」
そう言われれば、納得せざるを得ない。
カウティスは頷いて、セルフィーネの頬を撫でた。
「明日から毎晩、川原に下りるから」
「嬉しい」
セルフィーネが微笑んだ。
カウティスと離れ、セルフィーネは西に向かって空を駆ける。
ザクバラ国にはやはり行きたくはないが、幸せな今夜に水を差したくなくて、『行きたくない』とは口にしなかった。
西部に入り、国境地帯のベリウム川に沿って行くと、拠点近くの川原に、魔術ランプを持ったマルクがいるのを見付けた。
セルフィーネの魔力に気付くと、マルクは大きく手を振った。
「マルク、もしかして見送りに出て来てくれていたのか?」
セルフィーネが川原に下り立つと、マルクは恐縮する。
「はい、そのつもりだったのですが、下りて来て下さるとは……。ありがとうございます」
セルフィーネはふふと笑う。
「マルクにお礼を言いたくて、王城を早目に出てきたのだ。今夜はカウティスとゆっくり一緒にいられた。マルクのおかげだ」
「……ザクバラ国に、少しでも心を温めて行って頂きたかったのです。お役に立てたなら、良かったです」
マルクは栗色の瞳を細めて、優しく微笑みかける。
「マルクは優しい……」
マルクの言葉と笑顔を受けて、セルフィーネは胸を押さえる。
「……私は長く存在していたはずなのに、ずっと、人間の何も知ろうとしてこなかったのかもしれない」
マルクは黙ってセルフィーネの言葉を聞く。
「私のことを案じて、励まし、見守ってくれる人が、こんなにたくさんいる。ずっと、私は世界で独りぼっちだと思っていたのに……。こんな幸せなことを、ずっと気付いていなかったなんて」
セルフィーネの魔力に白い光が混じるのを見て、マルクは笑みを深める。
「セルフィーネ様も、私に幸せをたくさん分けて下さっています。ありがとうございます」
「マルク……」
「これから、もっともっと、幸せになって頂きたいです。ですから、実体を手に入れるまでもう少しだけ、三国共有で頑張って下さい……」
他国へ出るセルフィーネも辛いが、他国に送り出すしかないマルク達も辛い。
それに気付いて、セルフィーネはマルクの手を握った。
マルクは息を呑む。
「セ、セルフィーネ様っ……」
「ありがとう、マルク。……カウティスを頼む」
感極まって、マルクは何度も頷いた。
セルフィーネは日付が変わると共に、ザクバラ国に入った。
ザクバラ国の空はやはり淀んだ気を感じたが、今は心が満たされているからか、それとも、先月よりも魔力が回復しているからなのか、あまり気にならなかった。
ただ、今はザクバラ国の中央に向けて駆ける気にならず、もう少しネイクーンの景色を見ていたくて、国境地帯の近くの上空に留まった。
セルフィーネが、ザクバラ国の中央にあるオルセールス神殿の祭壇の間に入ったのは、日付が変わってから二刻以上経った深夜だった。
天井からスルリと下りると、祭壇に向かって並ぶ長椅子の最前列に、黒い文官服のリィドウォルが座っていて、セルフィーネは小さく眉を寄せた。
「今夜は随分とゆっくりとした登場だな」
上体を前に倒して、リィドウォルがセルフィーネを見上げた。
水盆にはやはり水が張られていたので、セルフィーネは口を開く。
「……ちゃんと、ザクバラ国には入っていた」
「それは分かっている」
「ならば、どうしてこんなに遅くまで待っていたのだ?」
リィドウォルが立ち上がって、祭壇の側まで近付くと、銀の水盆の縁を撫でた。
「お前には喜ばしい知らせがある。早目に教えてやろうと思ってな」
「喜ばしい知らせ?」
セルフィーネは
リィドウォルが頷くと、緩くクセのある黒髪が一筋、右目の前に垂れた。
「今月より我が国も、滞在予定の十日間、二国同様にお前の三国間の行き来を許す」
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