最後の約束

久し振りに雲のない夜だった。


水の季節としては珍しい程に月が輝いた夜、フルデルデ王国の西部では、月光神殿の祭壇の間で半実体を現したセルフィーネを見て、アナリナが息を呑んだ。



祭壇の側に立ったセルフィーネの背の高さは、アナリナと殆ど変わらない。

絹糸のような青紫の細い髪は、肩甲骨の下辺りで真っ直ぐに切り揃い、僅かな動きでさらさらと揺れる。

薄く桃色に色付いた頬と、細い顎。

少し目尻の下がった紫水晶の瞳は、以前よりも丸く、ずっと柔らかな印象だ。


「アナリナ」

淡紅色の薄い唇が開いて名を呼ばれ、呆然と見ていたアナリナは、パッと顔を輝かせた。

「素敵! すごいわ! セルフィーネ、なんてきれいなの!」

パチパチと両手で小さく手を叩いたアナリナは、しかし目を瞬いた。

「……でも、どうしてその格好なの? それって、もしかしてカウティスのマント?」

「そうだ」

おかしいわよ、というつもりで指摘したのに、セルフィーネが嬉しそうに微笑むので、アナリナは呆れたように笑う。


セルフィーネの格好は、長い濃紺の男性用マントで首から下をすっぽり覆った状態だ。

大きさが合ってないので、マント留も付けず、両手で前を掻き合せている。

おかげで、その隙間から白いドレスが見え隠れして、余計に不自然だ。


「“離れていても寂しくないように”、とか言わないわよね?」

「それだけではないぞ。マントこれがあれば、触れられるのだ」

否定はせずに、セルフィーネが指先から腕にマントを巻いて、アナリナに手を伸ばす。


マント越しの指先がアナリナの手に触れて、彼女の指先をきゅっと握った。

アナリナの黒曜の瞳が大きく見開かれる。

「何!? すごい! 握ってるわよ!?」

アナリナはマントを巻いているセルフィーネの腕にペタペタと触れる。

肩、背中と進み、髪に振れようとして、擦り抜けた。

「擦り抜けちゃった……」

「まだ、実体ではないから」

「……不思議ね」

セルフィーネは小さく笑んで、マントを巻いていた腕を下ろした。

「でもやっぱり、マントじゃなくて、女性物の上掛けにすればいいのに。カウティスの独占欲が透けて見えるわ」

「……それは嬉しい」

「呆れた!」

そう言いながらも、アナリナはあははと笑う。



笑いを収めたアナリナが、セルフィーネを覗き込む。

「ねえセルフィーネ、抱きしめてもいい?」

セルフィーネが頷くと、アナリナは白い祭服の腕を大きく開いて、正面からぎゅうと抱きしめた。

「もう、本当に後少しなのね……」


マント越しに抱きしめられた感触は、カウティスの力強い腕とも、メイマナの柔らかな胸とも違ったが、セルフィーネは温かなものにすっぽりと包まれたように安心した。

アナリナの魔力は、誰よりも温かで、力強い。

それは、月光神によって与えられた神聖力ものだからというだけではなく、きっと彼女の気質によるものだ。


「セルフィーネ、細すぎっ! 実体化したら、いっぱいご飯食べなきゃダメよ!」

目を閉じて温かさに浸っていた耳元で、突然アナリナがそんなことを言うので、セルフィーネは思わず声を上げて笑ってしまった。




二人の深夜のお喋りは尽きなかったが、またアナリナが寝不足になるので、切り上げることにした。


「今夜、見られてよかったわ。明日から神殿のない町村を回ることになってるの」

ここ数日、アナリナ達はこの街を拠点にして巡教していたが、明日からはフルデルデ王国の南西部の町村を回り、その後王都へ戻ることになっている。


「そうか、では今月神殿で会えるのは、今夜が最後だったのだな」

「セルフィーネも、もうすぐザクバラ国に移動するものね」

アナリナが、マントの上からセルフィーネの腕を持つ。

「あと少しだから、焦らず回復するのよ? ネイクーンの皆が言うように、この姿を他で見せないようにね」

「分かった」

妹に言い聞かせるように言うと、セルフィーネは真剣な顔でコクリと頷く。

その様子を見て、アナリナは満足気に腰に手をやった。

「やっぱり、表情が見えるって良いわね。ねえ、セルフィーネ、来月フルデルデ王国こっちに来た時に、またこの姿を見せてくれる?」

「勿論だ。目線が合って話せると、それだけでとても嬉しい」

「本当ね。また来月もいっぱいお喋りしましょ!」

二人は約束を交わし、共に笑い合った。



アナリナが祭壇の間を出るのを見届けて、セルフィーネは上空うえに上る。

見守るように空に浮く月は、今夜は清廉とした輝きを放っている。


アナリナに姿を見せることが出来たことも、『また来月』と約束を交わせたことも、とても嬉しい。

見上げた月に微笑んで、セルフィーネは王都の神殿に向けて駆けた。




―――しかし、来月、二人の約束は果たされない。


聖女アナリナと、水の精霊セルフィーネが笑い合うことが出来たのは、この夜が最後だった。






水の季節前期月、四週三日。


ザクバラ国の魔術士館では、魔術師長ジェクドが巻煙草に火をつけたところだ。


今日は、午前には晴れ間が広がっていたが、午後になって雲が出てきた。

窓の外からは、ボツボツと雨音も聞こえ始めていた。



「タージュリヤ殿下を、突き放すつもりじゃなかったのか?」

ふうと吐かれた煙草の煙を、リィドウォルは煙たそうに手で払う。

「何のことだ?」

「昨日、夜に文官棟に忍んで行かれたらしいじゃないか。お前を訪ねて来られたんだろ?」

僅かにニヤリとして言ったジェクドを、リィドウォルはくだらない物を見るような目で見た。

「配下の貴族を、政権に組み込むよう頼まれただけだ」

「それで?」

「断った」

ジェクドが深く息を吐いた。

煙草の煙が辺りに広がって、リィドウォルが間を空ける。


「あれ程回復されているのに、本当に陛下は長く保たないと思うのか?」

ジェクドが声を低くする。

「過去には、百を越える歳まで王座に就いていた例もあるぞ」

ザクバラ国史にはそういった、後に覇王と呼ばれるような王が数名記録されている。

80歳近い現国王の御世が続く事は、ザクバラ国においては、決して有り得ない事ではない。


「……心臓が、軋むような心地がするのです……」

今まで黙っていた年嵩の魔術士が、声を潜めて口にした。

「おそらく、“血の契約”を課されている者は、多かれ少なかれ感じているのではないでしょうか」

彼もリィドウォルと同じ様に、血の契約に縛られている一人だ。


ジェクドが巻煙草を口から離し、顔を歪めた。

「やっぱり竜人の血の残骸に、効果はなかったのか」

「……むしろ、あれが流れを悪くしたのかもしれぬ。ゆっくりではあっても、正常に回復するはずだった陛下の身体を異常に活性化させているとしたら、それは負担以外の何物でもない」


そして、禍々しい気も徐々に膨らんでいる。

リィドウォルは奥歯を噛む。

他の者が気迫として感じる王の気が、あれ程に禍々しく思えるのは、この右目が魔眼である為か。

それとも既に、同質ののろいにこの身が侵されているからなのか……。




本当に、予想している程も、時間はないのかもしれない。


ジェクドはゴクリと喉を鳴らして、最後に一息吸うと、巻煙草の火を消した。

「じゃあ、本当にやるのか」

言葉と共に吐き出された白い煙を見詰めて、リィドウォルは口を開く。

「陛下の下命があった以上、先延ばしはできぬ。……今月、水の精霊を奪う」


ジェクドと年嵩の魔術士が、リィドウォルへ視線を向ける。

「どうやって奪うつもりだ?」

「水の精霊の弱点は、その慈悲の心だ。人間の命を檻にされれば、自ら壊して逃げ出せはしない。幸い我が国には、檻になりそうなネイクーンの魔術士達が多く駐在しているからな」

水の精霊の最大の弱点になり得る者の名は、この場で口にするのはやめた。



リィドウォルは黒い文官服の腕を組み、窓から空を見上げる。


曇天の暗い空には、その色に似つかわしくない、澄んだ魔力の網が見える。

網の目は日に日に詰まり、層とは言えずとも、目の整った極薄い布のようだ。

随分回復は進んでいるが、リィドウォルが求めるにはまだ足りない。

リィドウォルは黒眼をすがめた。



「我が国に水の精霊を囲い、魔力が以前程に回復次第、のろいを解かせる。我が国の未来さきの為には、それしかない」





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