下命
水の季節前期月、四週一日。
フルデルデ王国の宮殿では、先月産まれた王太子の赤ん坊を見せてもらったセルフィーネが、目をまん丸に見開いた。
「凄い……。まだ一ヶ月しか経っていないのに、もうこんなにフクフクしているぞ」
乳母が抱いた赤ん坊は、乳をたっぷり飲んで満足しているところで、口元に乳を滲ませてすやすやと眠っている。
その皮膚は、セルフィーネが産湯を使った時の様にしわくちゃではなく、張りがあってふっくりしている。
セルフィーネがその頬をそっと突付くと、偶然のタイミングか、赤ん坊はふやぁと一度口を開いた。
驚いて手を引いたセルフィーネを見て、側のソファーに座っていたフルデルデ女王が、大きな口を開けて笑う。
「水の精霊は、赤ん坊が好きなのか?」
「……分からない。今まで意識して見たことがなかったから」
ネイクーン王国で、王族が産まれる度に産湯を使って魔力通じをしてきた。
だが、それは義務のようなものだった。
魔力通じすることが目的なので、よくよく赤ん坊を観察することもなかった。
乳母から王太子が赤ん坊を受け取ると、眠っているはずの赤ん坊が、一瞬笑ったような顔になった。
セルフィーネは目を細める。
「……可愛い。この子はこれから暫く眠るのか?」
「いや、きっとすぐに起きるぞ。朝も夜も関係なく眠り、関係なく泣くのだ」
王太子が笑う。
「朝も夜も?」
「そうだ。昼でも夜中でも、お腹が空いたと乳をねだり、
セルフィーネは驚きに目を見張った。
「世話が大変ではないか……」
「赤ん坊とは、そういう生き物なのですわ」
乳母の言葉に、周りにいる侍女達もうんうんと大きく頷く。
「産む前も
呆然と呟いたセルフィーネの声に、女王が引っ掛かりを覚えて、片眉を上げた。
「水の精霊は、赤ん坊の事に詳しくない割に、
セルフィーネは目を瞬く。
「……身近に
「ほう、身近に? それは、ネイクーン王城に?」
「え?……ええと……」
何故か女王が目を輝かせて、セルフィーネの魔力に近寄る。
セルフィーネは一歩下がった。
メイマナの妊娠は、ネイクーン王国内でも、まだ
フルデルデ王族は元気だったと、メイマナに報告しに寄った時にも、知ったら大騒ぎしそうなので、
女王がニンマリと笑って聞く。
「水の精霊よ、メイマナは元気だろうか?」
「……元気……では……、ないかも……」
つわりで横になる程だ。
体調がすこぶる良いとは言えない。
嘘のつけないセルフィーネは、しどろもどろになった。
女王が更に詰め寄った。
「
「……それは………………」
『そうだ』とも『違う』とも言えず、誤魔化す
精霊に嘘はつけないのだ。
「でかした、メイマナ!」
フルデルデ女王の顔が輝き、大きく手を打った。
水の精霊が『違う』と言わないのだから、正解のはずだ。
察知して大喜びする王太子や侍女達の中で、セルフィーネは一人オロオロと
ザクバラ国王城。
王の居室は、以前と比べて随分と模様替えされていた。
前室には机が幾つも入り、文官達が何やら仕事をしている。
通り抜けて奥へ入れば、巨大な寝台を覆う天蓋は全て外され、寝台の側にも机や棚が並んでいる。
その一部だけを見れば、まるで執務室を簡素にして移動させたかのようだ。
寝たきりで落ちた筋肉では、満足に身体を動かすことは出来ない。
それでザクバラ国王は、執務室へ行くことは断念して、居室に臨時の執務場所を作らせた。
今、王は寝台の中央ではなく、机に近い端の方に座っていた。
相変わらず、背を大きなクッションで支えてあったが、寝間着ではなく、楽な着衣に肩から上掛けを掛けていた。
布団も片付けられ、薄い膝掛けを掛けた足は、寝台の下に垂らされている。
その身体は、やはり痩せ細っていたが、顔色はやや明るく、着衣から覗く手の甲や首筋には、太く血管が浮き出て見える部分が目立った。
落ち窪んだ目はしっかりと開き、作り物のような丸い眼球の上には、痩せた身体とは不釣り合いな強い眼光が乗る。
臨時の執務机となっている大きな机の前には、宰相リィドウォルと、魔術師長ジェクドが立っていた。
「水の精霊を何故消さない?」
王が掠れた声で二人に尋ねた。
「三国共有となって、最早三月目だというのに、何故放置しているのか。消せばネイクーン王国にとっては大打撃となろうに」
リィドウォルが姿勢を正したまま、目を伏せ気味に答える。
「確かに、ネイクーン王国にとっては打撃にはなりましょうが、その時は休戦破棄となり、再び両国間に混乱が生じます。疲弊した我が国の民には、多大な負担であり、我が国にとっても打撃となりかねません」
王の眉がピクリと動いた。
「我が国の民は疲弊しておると言うか……」
「この二年間、ザールイン以下
王が目を閉じて息を吐く。
ザールインを宰相に任じたのは王で、ザールインが推挙した貴族院三首を最終的に認めたのも王だ。
その者達が王を軟禁し、国を荒らしたのだというのなら、勿論王にも責任がある。
「……ふむ、今すぐ水の精霊を消すのは得策ではないな」
王の言葉に、リィドウォルは内心安堵した。
水の精霊を消滅させるわけにはいかない。
「ならば、消すのは先に延ばすとして、あの
「活用……で、ございますか?」
視線を向けられたジェクドが、問い返した。
「ネイクーン王国一国のものであった頃より、あの精霊には護りの魔力があることは分かっていた。共有になったというなら、もっとその魔力を我が国の為に使わせよ」
「しかし、それでは他の二国が黙っておらぬでしょう。それに、あの精霊には自我がございます。我が国の為だけに魔力を使うとは……」
王がフンと軽く鼻を鳴らす。
「協約の内容も見たが、水源を保つこと以外はあの精霊に制約はない。聞けば、ネイクーン王国とフルデルデ王国は我が国を出し抜き、二国間で新たな協約を纏めて、水の精霊を上手く飼っているとか」
リィドウォルとジェクドは、チラと目線を合わせた。
ここまでの回復だけでも有り得ない事であるのに、既に王は、独自の諜者を動かし始めて、多くの情報を得ているのだ。
「水の精霊を、二国にむざむざ与えてやるなど許さぬ。消せないのならば、奪え」
鋭い言葉に、リィドウォルは何も言えない。
代わりにジェクドが口を開く。
「陛下、強引に奪えば、二国との間に
「強引でなければ良いのだ。どう思う、リィドウォル」
「…………水の精霊が、自らザクバラ国の為に動こうとするならば、二国は文句を言えぬでしょう」
リィドウォルの言葉に、王は満足気に一度頷いた。
「ならば、そう致せ。良いな」
「御意のままに」
二人は立礼した。
王の居室を退室し、護衛騎士のイルウェンを連れ、二人は居住区を出る。
王城の通用門を出ると、ジェクドが軽く首を振った。
「何と言うか、陛下は病み上がりとは思えん気迫だな……。おい、リィドウォル」
隣を歩いていたリィドウォルが、壁に手を付く。
「リィドウォル様」
イルウェンが手を貸そうとするが、リィドウォルは数回深呼吸して、壁から手を離した。
立襟を指で引く横顔には、薄っすらと汗が滲んでいる。
「……気迫……、そう見えたか」
「何だ?」
リィドウォルは答えず、魔術師館に向かって歩き出す。
怪訝そうにしながらも、ジェクドとイルウェンが続いた。
リィドウォルの本懐は、ザクバラ国の
むしろ、目覚めた王を目の前にして、その思いは益々強くなっている。
王の纏う気配は、以前以上に禍々しいのだ。
それが、あの竜人の血の跡を舐め取った為なのか、それとも眠っていた間に強くなった詛の為なのか分からない。
ただ、二年間寝たきりだった老人のものとは思えない回復に、皆、尋常では無いものを感じている。
しかしそれすらも、幾度となく苛烈な力を持つ覇王を掲げてきたザクバラの民には、異形とは映らないのかもしれない。
現に、ジェクドもイルウェンも、驚愕を覚えていても恐怖してはいないように見える。
リィドウォルは、額に滲む汗を
彼は王の気配に、恐怖を感じた。
それは、自分の奥底から這い出てくる黒いものを刺激する。
何とか己の奥底に抑えつけているもの。
詛を解かなければ。
自分も飲み込まれてしまう前に。
ザクバラ国に深く根を張った、詛の全てを解き、おぞましいこの身を消し去りたい。
リィドウォルは空を見上げる。
水の精霊の魔力は、今日も美しく輝いていた。
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