甘える

水の季節前期月、三週四日。


ザクバラ国の王城では、午前の二の鐘が鳴る前に王太子の執務室に入ったタージュリヤが、執務机の前まで来て首を傾げた。

机の上に束になって置かれてある書類が、今朝は殆どないのだ。

いつもは、前日の夕の鐘までに提出された嘆願や議事録を、文官達が確認して朝の内に置かれてある。


「今日はこれだけですか?」

少ない紙をめくり、怪訝けげんそうに問うタージュリヤに、部屋にいた数人の文官達は目を見合わせた。

一人が言いづらそうに口を開く。

「そのようです。国王陛下の決裁が必要な書類は、陛下の執務室に持って行くように言付けられましたので……」

「なんですって?」

タージュリヤが文官を睨む。

「そんなことは聞いていないわ。誰がそんな……」

言いかけて、タージュリヤは続き間へ繋がる扉を開ける。


続き間には、誰もいなかった。

壁の書棚に多くの資料が置かれた部屋は、古い紙の匂いがするだけで、しんとしていた。

普段ならば、タージュリヤよりも先に宰相のリィドウォルが入室して公務を行っているが、今朝は机上が片付いたままで、人が入った様子はない。

タージュリヤは黒い眉を寄せた。




ザクバラ国王の執務室の続き間では、リィドウォルが文官長と話していた。

「閣下、貴族院の議事録はどうしますか」

「陛下はまだ、長時間はお辛かろう。纏められるものは纏め直してくれ。猶予のあるものは後に回すか、私が見よう」


周りでは、多くの文官達がせわしなく動いている。

扉の向こうでも、長く使われていなかった執務室を、何人もの侍従や文官達が整えていた。


「次官を陛下と私に一人ずつ付けて、補佐するように。外交や国土整備に関する軽微事案と、福祉全般は全て王太子殿下に回せ」

机に重ねられた書類の山を、文官達に指示して仕分けさせながら、今後の流れを文官長と打ち合わせていると、執務室の方で侍従が声を上げた。


「王太子殿下、お取次ぎ致しますので少しお待ちを……」

侍従の制止を聞かず、執務室から続き間に入って来たのは、憤りをあらわにしたタージュリヤだ。

濃紺のドレスの裾を隙なく捌き、続き間に続く扉の前まで来ると、険しい表情で両方の部屋をぐるりと見回した。

「王太子殿下」

リィドウォルと文官長、周りにいる文官達が立礼する。


「リィドウォル卿、一体どういうことです。このような勝手を許した覚えはありません」

顔を上げないままのリィドウォルを、タージュリヤは睨む。

「陛下の意識が戻ったとはいえ、我が国の権を握るのは、卿ではなく私です。勝手は許しません」

「いいえ、王太子殿下。権を握るのは、殿下ではなく、陛下です」

リィドウォルが静かに言った。

その答えに、タージュリヤはより視線を尖らせる。

「陛下が国政を指揮出来ない今は、我が国の頂は王太子である私です!」

しかし、文官長も周りの文官達も姿勢を正したままだった。


リィドウォルがゆっくりと顔を上げた。

「昨夜陛下は、貴族院三首及び各官長を召集され、下命されました。それにより、我等は陛下に従い動いております」

「……昨夜ですって? まさか……」

「国政を指揮出来るのであれば、我が国の頂は今も、紛れもなく陛下です」


信じられない事態に、タージュリヤは呆然とする。

王が意識を取り戻し、タージュリヤと会話をしてから、まだ四日しか経っていない。

そんな短期間で国政に復帰出来るものか。


侍従や数名の文官には、タージュリヤとリィドウォルを躊躇ためらいながらも見比べるような気配があったが、他はリィドウォルの言動に異を唱える気配はない。



「陛下にお会いします!」

タージュリヤは一度くっと顎を上げ、緩い巻き髪を散らしてきびすを返した。


「もう、遅いのです」


背後から聞こえたリィドウォルの声に、タージュリヤが肩越しに振り返る。

リィドウォルは、姿勢を崩さないままでタージュリヤを見ていた。

その目は、酷く暗い。

「処方を変えるのはお待ち下さいと、私は申し上げました。あの時の判断が、この結果です、殿下」

タージュリヤは白い拳を握り締め、足早に執務室を出て行く。


リィドウォルは一度目を閉じ、再び開くと、文官に指示を出して作業を再開した。






ネイクーン王国、西部国境地帯。


今日は一日拠点で仕事をしているカウティスは、昼の休憩時に居住建物に戻って広間に入り、朝露のような蒼い香りを感じて声を掛けた。


「セルフィーネ、いるのだろう?」

「いる」

嬉しそうな声が胸のガラス小瓶から聞こえて、カウティスは微笑んだ。



ラードとマルクが昼食を運んで来ると、作業員の詰め所からハルミアンも帰って来て、広間は賑やかになった。


「昼も毎日来ることにしたの?」

ハルミアンがセルフィーネに尋ねる。

本来フルデルデ王国に滞在する三週目と四週目は、夜はフルデルデ王国の神殿で、昼は天候によって神殿かネイクーン王城の覆いで、それぞれ回復に専念することにしたと聞いた。

だが三日前から、カウティス達の昼の休憩時間には、セルフィーネは拠点に来ている。


「今は昼の時間にここに来ても、殆ど消耗しないし……」

水の季節に入ってから、昼も曇りや小雨が多く、陽光も弱い。

何処にいても、消耗度合いはそれ程変わらない。

「……だって、カウティスに会いたいのだもの」

小さな声でセルフィーネが言えば、ラードがからかうように笑った。

「王子、顔が緩みっぱなしです」



カウティスが何とか表情を引き締めるのを見ながら、ハルミアンが笑って言う。

「このやり取りも暫く見れないなぁ」

「神殿の方に戻るのか?」

「うん。頭痛も完全に治まったし、こっちにいる間に資料も用意出来たから、聖堂建築予定地の地盤調整も確認しないと」

これからの予定をあれこれと呟きながら、ハルミアンが長い指を折って数える。


「忙しそうだな」

カウティスが感心して言えば、ハルミアンは肩を竦めて、はあと息を吐いた。

「忙しいのはいいんだ。聖堂建築に関われるのは楽しいから。……でも、言いたいこと言えないのは大変だよ」

セルフィーネは首を傾げる。

「どうして言いたいことを言えないのだ?」

「建築の現場で和を乱さない事が、参加の条件だからね。僕が言いたいことを言ったら、『ぶつかるな』ってイスタークに叱られるよ」

ハルミアンは頬杖をついた。

「しかし、お前が黙ってたら、建築現場で役に立たないんじゃないのか?」

「そうなんだよね〜。僕が役に立てるのは、主に知識なのにさ」

ラードの指摘に、ハルミアンは口を尖らせる。


口を尖らせたハルミアンを見て、セルフィーネはなおも首を傾げた。

「ぶつからないように、言い方を変えれば良いのではないか?」

「ぶつからないようにって?……例えば、どういう風に?」

「マルクを手本にすれば良いと思う」

セルフィーネは、目を丸くするマルクを見て微笑む。

「マルクは、人が傷付く様なことや、酷くぶつかる様な言い方を絶対にしない。いつも相手の気持に添って話をしてくれる。私は話すと安心する」

「そ、そんな、セルフィーネ様……。恐縮です」


照れて栗色の頭を掻くマルクを、カウティスが恨めしそうに見ていたが、それには気付かずにハルミアンは目を瞬いた。

「マルクを手本に……。僕に出来るかな?」

「きっと出来る。ハルミアンは優しいから」

セルフィーネの言葉には、嘘がない。

ハルミアンはその励ましに力を貰う。

「相手が、イスターク猊下だと思って話すと良いかもしれないよ」

マルクもアドバイスして、ハルミアンは改めて気合いを入れた。

「ありがとう、頑張ってみるよ」




昼の休憩を終え、カウティス達が立ち上がった。


「セルフィーネ、また夜にな」

当然のように言って広間を出ようとするカウティスの姿は、セルフィーネを切ない気持ちにさせた。

「カウティス、待って」

「ん? どうした?」

セルフィーネは見えない手で、カウティスの手を掴む。

擦り抜けてしまうその手も、セルフィーネの切なさを増した。


込み上げて、カウティスに聞こえる程の小声で、囁く。


「………………好きだと、言って?」


その囁きに、カウティスは簡単に胸を撃ち抜かれた。

「っっ……、好きだ、セルフィーネ。早くそなたを抱きしめたいっ……」

カウティスに熱く言われ、セルフィーネは頬を染めて微笑んだ。




居住建物の屋根を抜け出て、セルフィーネは王城に向かって曇天を駆ける。


メイマナに、カウティスにもっと甘えれば良いと言われ、心の内にある願いを少しずつ外に出した。

会いたい時に、我慢せずに少しだけ会いに行く。

カウティスに、欲しい言葉をねだる―――。


セルフィーネは頬が熱くて、両手で包んだ。

メイマナは、甘えればカウティスが喜ぶと言ったけれど、結局自分が嬉しくなってしまった。

我儘だと、カウティスに呆れられていないと良いのだけれど……。




居住建物の入り口で座り込んで項垂れ、何故か唸っているカウティスの背に向けて、ラードが呆れたように声を掛ける。

「まぁた王子は、王族らしからぬ格好をしておいでですねぇ」


マルクとハルミアンは苦笑する。

セルフィーネの魔力が、甘えるようにカウティスの手を引いたのは見えた。

ハルミアンには、セルフィーネの小声のおねだりも、しっかりと聞こえてしまった。


「あれはまあ、胸にくるよねぇ」

同情気味にハルミアンが言えば、唸っていたカウティスがはぁと熱い息を吐いた。


「実体化が、待ち遠しい……」




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