支え

水の季節前期月、二週二日。


ザクバラ国の魔術士館で、魔術師長ジェクドが驚愕の表情で問う。

「陛下が竜人の血を、飲んだ?」

リィドウォルはキツく目を閉じて、深く息を吐いた。

「飲む程あったわけではない。瓶の底に付着していたものを、……おそらく舐めたのだと思う」

ジェクドと年嵩の魔術士は顔を見合わせる。

「そんな物があるなど、知らなかったぞ!」

「代々、王の座に就いた者にのみ継がれていた物だ。王の居室の祭壇に安置されてあった」 


誰もがおいそれとは近寄れない場所だ。

リィドウォルは王族の血を引き、国王に近しい存在であったから知っていただけだ。

もしかしたら、タージュリヤ王太子ですら、まだ知らないのかもしれなかった。


「そんな大昔の代物に、効果などあるのですか?」

年嵩の魔術士の問いに、リィドウォルが首を振る。

「分からぬ。ただ、薬師達にも理解出来ぬ程に回復なさっているのは確かだ。最初は水の精霊の魔力によるものだったかもしれないが、一昨日を口にされてから、様子が突然変わったと……」

三人は言葉を失くし、不自然な静けさが訪れる。



「今、陛下はどうされているんだ?」

ジェクドが沈黙を破る。

リィドウォルが再び深く息を吐いた。

「眠ったり起きたりを繰り返されている。起きる度、はっきりと言葉を発せられるらしい」

「ご気性は……」

恐る恐るというように、年嵩の魔術士が尋ねた。

「とても穏やかだ。まるで、昔の陛下に戻られたように……」

二人が明らかに安堵した雰囲気を持った。


国王が、のろいの発現前の賢明な王に戻れるならば……。

それは誰もが望んでいることだ。


しかし、リィドウォルは心安らかではいられなかった。

リィドウォルには、あの赤黒く残ったシミのような物を、瓶を叩き割ってまで舐め取った国王が、正常な精神を保っているようには到底思えなかった。

あれこそが、ザクバラ国に根を張った詛の塊であったように思えてならない。

それを取り込んだ王は、国政に復帰してどうしようというのか。


纏わりつくような淀んだ空気が、言いようのない不安を煽り、リィドウォルの胸を悪くした。





午後の一の鐘が鳴る前。

ネイクーン王国では、カウティスとラードが西部に向けて王城を出発する前に、王の執務室にいた。

出発前の挨拶と共に、セルフィーネの進化の状況を説明する。



「予定を一日遅らせた割に、一向に何も言ってこないのでどうしたのかと思っていたら、そういう事か」

エルノート王が、揶揄やゆするように片眉を上げる。

「そなた、二人だけの時間を邪魔されたくなくて、この私にもギリギリまで黙っていたな」

「ご想像のままに」

しれっと立礼するカウティスに、くくっとエルノートが笑う。


「セルフィーネ」

エルノートが窓際に置かれた水盆に向かって呼び掛ければ、天井から魔力の纏まりが滑り降りて来て、水面が僅かに揺れる。

「ここにいる」

「後で庭園に行く。そなたの新しい姿とやらを、ゆっくり見せてくれ」

「分かった」

二人の会話を聞いて、カウティスが頭を叩かれたような顔をした。


カウティスの表情を見て、エルノートは再び眉を上げた。

「まさかと思うが、セルフィーネが完全な実体を手に入れるまで、他の者には見せないつもりだったのか?」

「そ、そういう訳では……」

即座に返事が出来ないカウティスを見て、ラードが斜め後ろで苦笑いしている。

「図星だな」

呆れたように笑うエルノートと共に、セルフィーネも笑った。




午後の二の鐘が鳴ってから、言っていた通りエルノートが泉の庭園にやって来た。

共に来たのは、フルデルデ王国仕様の銅を絞らないドレスに戻ったメイマナ王女だ。

侍従や近衛騎士達は庭園の外で待機させたが、メイマナの侍女のハルタだけは、花壇の側まで付いて来た。



ガラスの覆いの中に、青白い光の粒が降り、セルフィーネが姿を現す。

「……まあぁ……!」

一瞬言葉を失って、ふっくりとした手で口を押さえたメイマナ王女が、ガラスの覆いの側で目を丸くする。

「なんて素敵なお姿でしょう」

隣のエルノートも感嘆の息を吐く。

「確かに……、まるで生身のようだな」

セルフィーネは小さく笑んだ。



「セルフィーネ、今は三国でそれぞれ回復できるようになったが、仮にこのままいくと、どれ位でその姿を保てるようになる?」

エルノートが尋ねる。

「どうだろう……。三国共有になったので、今までの感覚とは少し違うが、水の季節が終わる頃には、覆いここの外でも保てるのではないだろうか」

その頃までには、ネイクーン一国のものであった時程には回復出来るだろう。

そうすれば、以前の姿のように、半実体で動くことが出来るはずだ。


「それまでは、ここ以外では現せないのだな?」

エルノートが確認するので、セルフィーネは小首を傾げる。

「月が出ていれば、もしかしたら神殿の祭壇の間なら、現せるかもしれない」

月光神殿の祭壇の間ならば、月夜には月光の魔力で満ち溢れている。

エルノートが明るい銅色の眉を寄せる。

「良いかセルフィーネ、くどいようだが、ザクバラ国で気を抜くな。祭壇の間で、間違えてもその姿をさらすようなことがあってはならないぞ」

「勿論、実体化するまで、あちこちで姿を見せたりしないつもりだ」


以前以上の変化を竜人族に気付かれれば、今度こそ、切り分けられてしまうかもしれない。

下手をしたら、消滅させられるかもしれないのだ。

セルフィーネはぶるりと震える。

ようやく実体化までの道筋が見えた。

絶対に邪魔されたくない。


僅かに不安気な表情になったセルフィーネを見て、メイマナがガラスの扉を開いて、中に入った。


「水の精霊様、触れても良いでしょうか?」

セルフィーネは躊躇ためらったが、少し考えて小さく頷いた。

メイマナは、マント越しにセルフィーネの肩にそっと手を置く。

「大丈夫ですわ。きっと、今度こそ身体を手に入れられます。そうしたら、是非私に髪をかせて下さいませ」

「髪を?」

「はい。髪を丁寧に梳いて貰うと、とても心地良いのですよ。この美しい髪を、私が梳いて差し上げたいのです」


セルフィーネは、微笑んでセルフィーネの髪を見詰めるメイマナを見て、目を瞬く。

髪をかれる自分が、上手く想像出来ない。

そこで初めて、漠然とした不安がよぎった。

実体化出来たとして、自分は人間と同じ様に生活して生きていけるのだろうか。

全く生活形態が違うようなことは、ないのだろうか。


さっき感じた恐ろしさと共に、セルフィーネの胸で不安が膨らんでいく。




「メイマナ、気分が悪いのだろう。無理をするな。ハルタ!」

覆いの外から聞こえたエルノートの声で、セルフィーネは我に返った。

「大丈夫ですわ」

メイマナが口元を押さえて、急いで来たハルタを止める。

セルフィーネはメイマナの顔を覗き込んだ。

「具合が悪いのか?」

「花の香りで、少し胸が悪くなっただけです。病ではありませんの。妊娠初期の、悪阻つわりというものだそうですわ」

先日から少しずつ症状が表れ始めたらしい。


セルフィーネはメイマナの胸に手をかざす。

一瞬仄かに白く光り、すうとメイマナの気分が良くなった。

「まあ、随分楽になりました。ありがとうございます」

嬉しそうにメイマナが微笑むので、セルフィーネは躊躇ためらいがちに口を開く。


「メイマナ王女は……初めてのことが不安ではないのか?」

「不安でございますよ」

あっさり笑顔で答えたメイマナに、セルフィーネは目を丸くした。

後ろでエルノートも僅かに息を呑んだ。


「妊娠も、出産も、ちゃんと母になれるのかも、不安だらけでございます。それでも、きっと大丈夫です」

「何故そう思える?」

笑顔のままのメイマナを見て、セルフィーネは不安気に尋ねた。


「いつも私の側には、エルノート様がいて下さいますから」


メイマナは笑みを深めて、エルノートを振り返る。

「側で支えてくれる、ハルタも。ネイクーン王国の皆も、私を信じ、助けてくれますわ。私も皆を信頼しておりますから、不安でも、きっと大丈夫だと思えるのです」



メイマナは、セルフィーネの肩をゆっくりとさする。

「不安な気持ちになられたのですね?」

セルフィーネは小さくコクリと頷いた。

「それならば、カウティス殿下のお側にお行きなさいませ。水の精霊様には、カウティス殿下がおられます。殿下が信頼する臣下の方々も。どんなに不安でも、受け止めて支えて下さいますわ」

セルフィーネは胸がキュッと引かれたようで、両手で押さえた。

メイマナはそっとセルフィーネを抱き締める。

「メイマナ王女……」

「どうぞメイマナとお呼び下さい。勝手ながら、私は水の精霊様を親しく感じております。ですから、何かあったらこうして、いつでもお話を聞かせて下さいませね」


手助けする、話を聞いてやる、そういう言い方をしないメイマナに、セルフィーネの心の不安が薄まっていく。

「ありがとう、……メイマナ」

そっと離れたメイマナが両頬に笑窪を刻む。



セルフィーネが目線を逸らし、はにかむようにして言う。

「…………カウティスに、会いたい。今から行ってはいけないだろうか?」

「まあ、それは今すぐ行かなければ! エルノート様、もう、よろしいのですよね?」

メイマナが振り返れば、一瞬面食らったような顔をしたエルノートが咳払いして頷いた。

「ああ、行って良い。今ならまだ西部に戻る途中だろう」

パッと顔を輝かせ、セルフィーネは頷く。

「行ってくる」

そして、光を散らすようにして、目の前から消えた。




西に向けて空を駆ける魔力を目で追って、メイマナは錆茶色の目を細める。


「ふふ、本当に、お可愛らしい。そう思われませんか?」

メイマナが覆いから出て来ると、薄青の瞳を柔らかく細めたエルノートが腕を伸ばす。

「私は、メイマナ以上に可愛い者を知らないが」

そう言って、メイマナをそっと抱き締めた。


ハルタは急いで回れ右し、メイマナは頬を染めてエルノートの胸に添った。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る