狂王

水の季節前期月、二週一日。


約束通り、泉の庭園で早朝鍛練を行っていたカウティスは、いつもより早めに長剣を下ろした。


「カウティス、まだ日の出の鐘まで時間が残っているが」

不思議そうに言ったのは、覆いの中のセルフィーネだ。

昨夜カウティスから貰った紺色のマントを纏い、ガラスに掌を付いて鍛練を見ていた。

カウティスが袖で汗を拭きながら、扉部分を開けて中に入ってくると、見上げて首を傾げる。

さらりと青紫の髪が流れて、カウティスは堪らず側に寄って、マントごとセルフィーネを抱き締める。

布越しに感じる身体は、確かな弾力があって、彼女の存在を直接この身に伝えてくれる。


「今日だけ大目に見てくれ。そなたに触れたくて、我慢できなかった」

こんなに鍛練に集中出来ないのは、久し振りだった。

すぐそこに、マント越しにでも触れ合えるセルフィーネがいると思うと、どうにも落ち着かないのだ。


「……私も、早く抱きしめて欲しかった」


呆れられるかと思ったのに、胸に抱いたセルフィーネが小さな声でそんなことを言うので、思わず腕に力を込めそうになる。

何とか耐えて、落ち着け落ち着けと、カウティスはこっそり一度深呼吸した。

セルフィーネの新しい姿は本当に生身であるかのようで、その華奢きゃしゃな身体は、あまり強く力を込めると折れてしまうのではないかと、心配になってしまったのだ。


しかし、カウティスが腕の力を緩めたのに気付いたのか、セルフィーネは潤んだ瞳で見上げ、切な気に問う。

「どうして強く抱いてくれない?」

その声に、カウティスの胸は完全に掴まれた。



カウティスは結局、マント越しにセルフィーネを強く掻き抱いて、朝露のような蒼い香りを胸一杯吸い込んだのだった。






ザクバラ国の王族の居住区で、リィドウォルと薬師長が話している。


「王太子殿下の命に逆らえなかったこともありますが、陛下自身が、意識を取り戻そうとしておられるように感じます」

薬師長が、固い声で言った。

処方を変え、王の状態が変わってきている件で、リィドウォルと薬師長はようやく二人で話せていた。

タージュリヤ王太子の機嫌を損ねてから、なかなか二人が接触させてもらえなかった為だ。


「実は、王太子殿下の命で処方を見直す前から、既に意識の浮上が度々見られたのです」

「何だと?」

リィドウォルは黒い眉を寄せた。

「司祭の神聖魔法を使わなくなったことが原因かと思いましたが、それだけという訳でもないようで」

前宰相のザールインは、神殿の司祭と癒着して、王が穏やかに眠り続けられるよう協力させていた。


様子が変わってきたのは、先月しっかりと意識を取り戻してからだ。

やはり、水の精霊の魔力がのろいの効果を弱め始めたのが、そもそものきっかけなのだろう。


「日に何度も目を開けられ、時に近くにいる者と二言三言、言葉を交わされることもあります。先日は目を覚まされた時に、側にいた薬師に投薬量について質問し、意見されたこともあったと聞いています」

リィドウォルは眉間のシワを深くした。

王は博識で、薬学にも詳しい。


「それから……」

薬師長が言い淀むので、リィドウォルはいぶかしんで先を促した。

「今朝、言葉を発せられた時には、近々国政に復帰されるようなことを申されたと……」

リィドウォルは目を見開いた。



恐れていたことが、起ころうとしている。



リィドウォルが行おうとしているのは、水の精霊の清浄な魔力神聖力を以て、ザクバラ国ののろいを解く事だ。

延々と続く負の連鎖を断ち切り、ザクバラ国に竜人の血が与えられる前の、あるべき姿に戻す。

その為には、国王が生きて国政から退いている状態であることが望ましい。

詛を解く前に王が崩御すれば、リィドウォルを始めとする、血の契約に縛られている者達はことごとく殉死することになる。

そうなれば、今後もザクバラの詛は受け継がれてしまうのだ。


そして、リィドウォル達が最も恐れているのは、国王が回復し、狂王として王座に戻る事だ。

その時は、血の契約に縛られている者達は逆らうことは出来ず、のろいが解けないどころか、暴政によって国は再び荒れるだろう。


しかし普通に考えて、王がいくら回復したとしても、さすがに二年も寝たきりであった80歳も近い老人が、簡単に国政に復帰出来る訳がない。

薬師長を含め、誰もがそう思っていた。


それでリィドウォルも、あくまでも一つの可能性として、心に留めていた懸念だった。



リィドウォルはゴクリと唾を飲み込んだ。

「そなたの診立てで、陛下が復帰なさる見込みは?」

「…………分かりません」

「分からないだと?」

薬師長は灰色の長衣を握り、顔を歪める。

「申し訳ありません。しかし、陛下の回復は我々の予想を遥かに超え……、何をもってあれ程に力を得ておられるのか……」

その表情に恐れが交じるのを見て取り、リィドウォルは薬師長の胸ぐらを掴んだ。

「薬師長の身で、今頃そのようなことをかすか! 今まで陛下を診てきたのはそなただろうが!」

「そうです、ずっと診て参りました! いくら元々丈夫であった陛下でも、このような回復は有り得ないのです! まるで……」

薬師長の口元が引きつった。



「まるで、文献に残る竜人の血を、ついさっき口にしたかのような……」



リィドウォルは弾かれたように、薬師長の長衣を放す。

背に悪寒が走って小さく震えた。

「そんなことが…………、まさか!」

リィドウォルは薬師長を置いて踵を返した。

「リィドウォル様!?」

部屋の外で待機していた護衛騎士のイルウェンが慌てて追い掛けるのも気にぜず、駆けるように廊下を曲がり、王の居室へ向かう。


居室の大扉の前に着くと、侍従に王が眠っていることを確認させてから、イルウェンを置いて一人入室した。


静かで重い空気の室内は、相変わらず薬香の香りに満ちていた。

前室を足早に抜けて、中央の巨大な寝台には近付かず、戸惑う侍従や薬師達を放って奥へ進む。



国王の居室の奥には、兄妹神をまつる祭壇を置いた小部屋がある。

兄妹神を絶対神として崇めるこの世界では、どこの国にも、国王の居室近くにはあるものだ。

平民ですら、家に小さな神棚を作ることが多い。

そうして日常的に祈りを捧げるのだ。

ただ、国によって、兄妹神の像や聖紋の壁掛けと共に祀る物が違った。

ネイクーン王国であれば、四大精霊の中でも、水の精霊の水盆を中央に祀る。

そしてザクバラ国では、四大精霊と共に、古びた細工物の小箱が置かれてあった。



リィドウォルは、ゆっくりと小部屋に入る。

通常は王と、王に許可されている者以外は入ることが出来ない。

王が寝たきりになってからは、血の契約を交わしている侍従頭が、祀られた品々を管理する為に入るだけになっていた。


久し振りに入った小部屋はひんやりとしていて、神々を祀っている為か、王城内であっても幾らか清浄な気配が感じられた。


リィドウォルは、初めてここに連れて来られた時の事を思い出す。

まだ10歳にも満たない、幼い頃。

既に即位していた叔父と共に、祭壇に祈りを捧げた、あの日……。





王は小箱を手に取った。

きらびやかではないが、見慣れない文様が細かく細工された、黒ずんだ銀の小箱だった。

王が箱を開けると、厚い布で周りを覆われた、ガラスの小瓶が入っていた。


くすんだガラスの底に、僅かに赤味がかった黒い跡が残っている。

竜人の血の跡だ。

その昔、この小瓶に入った竜人の血が、ザクバラ国に与えられた。

何百年も前の物のはずなのに、今でも赤味が残っている事に驚き、リィドウォルは無意識に身体を強張こわばらせた。


王がリィドウォルに向き直る。

「これは、竜人族から譲り受けた物だ。唯一、ザクバラ国の王族のみが、その身に取り込むことを許された竜人の血。そなたにもその宝が受け継がれているのだ」

幼いリィドウォルは、黙って俯いた。

魔眼を持って生まれ、王族の受け継いで来た竜人の血を恐ろしいのろいだと感じて、この頃のリィドウォルは、生きる希望を見出だせなかった。


「この宝をのろいだと言う者もいるが、それはそういう捉え方をする者がいるというだけだ。そなたも同じ。魔眼を恐ろしいと思う者もいるというだけのこと。私は少しも恐ろしいと思わぬ」

王は腰を折ると、リィドウォルに顔を上げさせて目線を合わせた。

「私はこの身に受け継がれた宝を誇らしく思う。決して宝を詛になどせず、我が国を豊かにしてみせよう。そなたは、そなたの価値を磨き、私の側で国の為に励め。そなたなら、きっと出来よう」


リィドウォルの魔眼から、少しも目線を逸らさないその黒眼は、優しい輝きに満ちていた。





リィドウォルは震える手を伸ばして、祭壇に飾られた小箱を手に取る。

一呼吸置いて、それを開けた。


中にガラスの小瓶はなかった。


心臓が嫌な音を立てて、早さを増していく。

「…………この箱の中身は?」

扉の側で、顔色悪くリィドウォルの背を見守っていた侍従頭が、ゴクリと喉を鳴らした音が聞こえた。

「……先日、陛下が目を覚まされ、小箱を持って来るよう仰せになり……」

侍従頭の震える声に被さるように、掠れた王の声が響いた。


「リィドウォル。……そこにいるのは、リィドウォルか……」


ギクリとして、リィドウォルが開いたままの扉の向こうに目線をやる。

何重にも垂らされた天蓋を潜り、薬師と侍従が姿を消す。

暫くして、侍従が出て来て、リィドウォルを呼んだ。

「陛下がお呼びです」



リィドウォルは小箱を侍従頭に渡し、寝台に近付いた。

天蓋を潜ると、寝台の中央に、上体を斜めに起こした王がいた。

身体は大柄だが、相変わらず枯れ木のように見える手は、しっかりと布団の上で組まれている。

リィドウォルは俯き加減で近付き、寝台の直ぐ側で跪礼きれいする。

「陛下、お側に」

「……リィドウォルよ、……尋ねて来たのなら、まず、顔を見せよ」

言葉は優しく、声は掠れていたが穏やかだった。


その声は、さっき思い出した記憶と共に、リィドウォルの胸をくすぐる。

懐かしい思いで顔を上げたリィドウォルの目に、寝台の側の小机に置かれた物が映って、鋭く息を呑んだ。



机の上には、割られた小瓶があった。

底であったはずの厚い部分も、くすんだガラスの色で、あの赤黒い汚れはない。

リィドウォルは王の顔を見て、おののく。



まばらに口元に散らばる、王の灰墨色の髭には、赤黒い物が極僅かに付着していた。





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