誓い
水の季節前期月、一週五日。
今日は、水の季節に入って最初の吉日で、国家式典の行われる日だ。
カウティスは早朝鍛練の為に、日の出の鐘が鳴る半刻以上前に、泉の庭園に向かった。
普段通り、先に訓練場で走り込みと、軽く柔軟や体術をこなしてきた。
泉の庭園で早朝鍛練をすることは、先月セルフィーネがフルデルデ王国へ向かう前に約束したことだ。
子供の頃から、二人だけの特別な時間だった早朝鍛練は、今でもやはり特別な気がする。
以前は度々出来たことだが、西部へ滞在するようになって機会が減り、セルフィーネの三国共有で更に減った。
今日、久し振りに二人の時間を過ごせると思うと嬉しくて、いつもより早く来てしまった。
我ながら子供のようだと
花壇の小道を抜けた先に、青味がかったガラスの覆いが見えて、カウティスは足を止める。
「……!」
反射的に長剣の柄を握った。
覆いの中に、人影があったのだ。
朝方に掛けて半分程雲が流れた今、まだ庭園は薄暗かった。
薄暗い庭園の中央に、八角形のガラスが浮き上がって見える。
その中に、人がいた。
そして、はたと気付く。
この王城に、この庭園のガラスの覆いがどういうものかを知らない者はいない。
その中に、こっそり入ろうと思う者など……。
カウティスは駆け出していた。
花壇に咲く小さな花を揺らし、押し固められた黒い土を強く蹴って、ガラスの壁に掌を付く。
壁の向こうに、白いドレスの小柄な女性が、こちらに背を向けて立っていた。
細く真っ直ぐな髪は、青味がかった紫色で、肩甲骨の下で真っ直ぐに切り揃えられている。
彼女が気配に気付いて、ゆっくりと振り返った。
髪先が踊り、柔らかな曲線を描く白い素肌の肩を流れる。
細かなドレスの襞の間から、陶器のような長い腕が振られると、細い手首で飴色のバングルが楽し気に揺れた。
薄く桃色に色付いた頬に、細い顎の線。
少し目尻の下がった目には、長いまつ毛が震える。
「…………セルフィーネ」
カウティスが名を呼べば、淡紅色の薄い唇が震えて、変わらない紫水晶の瞳に涙が浮かんだ。
カウティスは居ても立ってもいられず、扉部分のガラス面を引いて、覆いの中に飛び込んだ。
両腕をいっぱいに伸ばして、彼女を胸に抱き込む。
「セルフィーネ! セルフィーネだな」
彼女の身体には触れられなかったが、以前の半実体と同じように、僅かにひんやりとして、空気の密度が濃くなったような感触があった。
「…………私だ。……カウティス」
セルフィーネの変わらぬ声に、カウティスは少し腕を緩めて、腕の中の彼女を見下ろす。
涙をためて見上げている彼女の姿は、水の上に現していた
「……また変わっている」
「カウティス、これが、……これが私の、本当の身体」
カウティスは、薄く色付いたセルフィーネの頬に指を添える。
「今はまだ不完全だけれど、これが……私だ」
「そなたの身体……」
セルフィーネは小さく頷く。
産まれ落ちる赤ん坊のイメージが重ねられた為か、以前より僅かに年若い雰囲気だった。
人間で言えば20歳を過ぎた位だろうか。
カウティスの見詰める前で、以前よりもやや円みがかった紫水晶の瞳から、涙が溢れ落ちる。
雫が流れる細い顎も、上下する胸元も、触れられないのが不思議な程に生気を感じる肌艶だった。
「綺麗だ。とても綺麗だ、セルフィーネ」
カウティスが微笑むと、セルフィーネも微笑み返す。
細められた瞳から、次々と涙が零れ、キラキラと輝きながら落ちて行く。
「嬉しい。私の姿を、ずっとカウティスに見て欲しかった」
カウティスは力を込めて抱き締めようと、マントを
「マントがあれば……」
「無くて良い。……今は、このまま抱きしめていて」
セルフィーネが額を
東の空で殆ど雲に隠れていた月が、最後の光を薄く放つ。
もうすぐ太陽に替わるのだ。
「そうか、ハルミアンが使い魔を……」
「『お礼だ』と言っていた。私は与えてもらってばかりで、何も返せていないのに」
ガラスの覆い中で、泉の縁に腰掛けて、二人はぴったりと添っていた。
カウティスの左胸に頭を凭れ掛けているセルフィーネが、言葉を発するごとに、青紫色の髪が微かに揺れる。
それだけで、カウティスの胸は落ち着かない。
「ハルミアンがお礼だと言うのなら、きっと気付かないところで、そなたがハルミアンの助けになったのだろうな」
「気付かないところで?」
カウティスが微笑んで頷く。
「ああ。そなたが慣れない他国で一人水源を守っているのだと思うと、俺も負けず、日々努力しなければと力が湧くようにな」
セルフィーネがカウティスを見上げ、ふわりと笑む。
その笑顔は確かにセルフィーネであるのに、ずっと年上の女性の見た目だった今までよりも、僅かに幼さが混じっていて、カウティスはドキリとした。
雰囲気に柔らかさが増して、同年程の気安さが感じられる。
不意に、カウティスは顔を近付けて口付けた。
微かにひんやりとして、密度の濃い空気が唇に触れた気がした。
顔を離すと、セルフィーネが頬を染めて、気恥ずかしそうに目を瞬いて微笑むので、カウティスの鼓動は跳ね上がる。
もう一度と思った瞬間に、王城から日の出の鐘が鳴り響き、東の空で月が太陽に替わった。
「鍛練出来なかったな」
残念そうに言ったセルフィーネの頬は、まだ濃い桃色だ。
「明日はする」
カウティスは愛おしく、その頬を指で撫でた。
「マルクとラードにも、この姿を見せたい」
二人は泉の縁から立ち上がる。
「見せるのか?」
やや不満気に言いながらガラスの扉を開けるカウティスに、セルフィーネは首を傾げた。
「駄目なのか?」
「………………見せるのが勿体ない」
「見せても、減ったりしないのに」
セルフィーネがふふと笑いながら、カウティスの手を取って覆いから一歩踏み出した。
途端に、その身体が淡く輝き、青白い光の粒がパッと散るようにして消え失せた。
「セルフィーネッ!?」
カウティスが素早く周囲を見回す。
「セルフィーネ!」
「……ここだ」
ガラスの覆いの中に、青白い光の粒が降って、再びセルフィーネが姿を見せる。
「驚いたぞ。どうしたのだ!?」
焦った様子で覆いの中にカウティスが戻ると、セルフィーネは少し俯いた。
「この中でないと、まだ保てないようだ」
覆いの中は、常に魔力集結の場になっているから保てるが、外に出れば半実体は安定せず、散ってしまうようだ。
「もっともっと、回復しないと……。回復をして、何処にいても半実体を保てるようになれば、さらに魔力を増大して、実体化する……」
悔しさを滲ませるセルフィーネの言葉に、カウティスは息を呑んで彼女を抱きしめた。
「凄い! 道筋がはっきりと見えたのだな!」
「はっきりと……」
「そうだ。以前のような、
興奮気味に、カウティスは力強く言う。
五感を手に入れたら……、執着を無くせば……、今までそうやって可能性を模索してきた。
だが今は、道筋が見えている。
「セルフィーネ、そなたは、確実に進化に向かっているのだ!」
カウティスの胸で、セルフィーネは薄い唇を震わせた。
「必ず、必ずこの姿で、実体になる。その時は、……二度と離れたくない」
セルフィーネが実体化する時は、契約魔法が破綻する時だ。
新しい生命として、全ての制約から解き放たれ、自由になる。
「約束だ。そなたが実体になって戻ったら、もう離さない。ずっと、俺だけの側に」
セルフィーネの頭上で、カウティスは誓うように言った。
午後、王座の間で国家式典が行われる。
王の椅子と王妃の椅子の間に、小さな台座があり、細かい彫刻が施されたガラスの水盆が置かれてある。
セルフィーネは水盆の側に
参席している貴族院席の一部で、『やはり美しい姿は見せないのか』といった落胆の呟きが、サワサワと聞かれた。
魔術素質がない者の中には、年末に魔術士館で見せた姿を、式典で
式典が始まり、エルノート王が簡易祭壇で兄妹神に祈りを捧げた後、水盆の前に立った。
その後ろにはメイマナ王女と、王弟であるカウティスとセイジェ、先王とマレリィが並ぶ。
更に後ろに宰相と魔術師長、騎士団長、貴族院と続いていく。
「水の精霊よ。今年も無事水の季節を迎えた。この後二つの季節を、
エルノートが、水盆の側に佇む魔力の纏まりに向かって言った。
王の言葉に、後ろに続く人々が立礼する。
セルフィーネは微笑んでエルノートを見詰めた。
水の季節の式典は、セルフィーネが十三年半の眠りから覚めて、初めてのことだ。
過去には、王が『水の精霊よ、水の季節に水災害が起こらぬよう、火の季節に民が乾くことがなきよう、力を尽くしてくれ』と、慣例的に言葉を述べていた。
だが今は、『見守って欲しい』と温かい言葉で願ってくれる。
「ネイクーンを見守る役目を、まだ私に与えてくれて嬉しい。感謝する」
セルフィーネは心を込めて、王の言葉に応える。
そして、王座の間にいる人々全てを見渡して、決意を込めて言った。
「今は魔力が足りず姿を見せられないが、いつか必ず、皆の目に映る姿を持って、ネイクーン王国へ戻る」
その時は、もう決して隠さない。
胸を張って、カウティスの隣に立つのだと、セルフィーネは誓った。
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