お礼
水の季節前期月、一週四日。
セルフィーネは魔術士館で、濃緑ローブを着たマルクを見て手を叩いた。
「マルク、そなたによく似合っている」
もちろん音はないが、薄紫色が混じった水色の魔力の纏まりが、複雑な色合いを作りながら輝きを増して、手を打つように揺れる。
「ありがとうございます、セルフィーネ様」
魔力のその様子が本当に嬉しそうで、マルクは昇級試験に合格したことも嬉しいが、セルフィーネが喜んでくれていることに、思わず笑みが溢れる。
魔術師長ミルガンが、マルクの横で苦笑する。
「代表者の答辞は、覚束なかったがな」
「ううっ……、申し訳ありません」
マルクが栗色の眉を下げた。
今日の午前、王城の王座の間で、ローブ授与式が行われた。
最高位の昇級試験に合格した魔術士達に、王が濃緑のローブを授与した。
最高成績者のマルクは、合格者代表の答辞を述べたのだが、緊張のあまり声が裏返ったのだった。
「試験よりも緊張しました」
マルクが苦笑いするので、セルフィーネはふふと笑う。
「とても立派だった。私達のマルクが代表で、きっとカウティスも誇らしかったと思うぞ」
「『私達の』……」
その言い回しにマルクは感激したが、ふと時間を確認して小さく笑う。
「セルフィーネ様、もっと立派な方を見に行かないと! 叙勲式が始まってしまいますよ」
もうすぐ午後の一の鐘が鳴る。
鐘が鳴れば、再び王座の間で、騎士の叙勲式が行われる。
カウティスは直接関係はないが、王の近衛騎士隊は立ち会う決まりになっているので、近衛騎士の正装で参席するのだ。
セルフィーネはそれを見るのをとても楽しみにしていた。
魔力が弾むように動いて、輝きを増す。
「行ってくる」
輝きを増した魔力が、魔術士館の部屋を抜け出て行くのを確認して、ミルガンが笑った。
「相変わらず、仲のよろしいことだ」
「はい。カウティス王子の存在が、回復への原動力になっておられるように感じます。一時はどうなることかと思いましたが、想像以上に早く回復に動けて安心しました」
マルクが真新しいローブの襟を直しながら笑顔で言えば、ミルガンも深く頷く。
「殿下は魔術素質がないというのに、姿を失った水の精霊様をよく支えておられる。魔術士としては、驚嘆の事実だ」
水の精霊は同じ人間でないといっても、以前は美しい姿があり、会話で意思疎通出来た。
そういう条件でならば、異種族であっても想い合う事も可能なのかと感じ入ったものだが、姿のない相手を同じように想い続けることが出来るかと考えれば、相当に困難に思える。
しかもカウティスは魔術素質がないので、魔力の欠片さえも見えない。
ミルガンの言葉に、マルクが思い出したように表情を改めた。
「それなのですが、ミルガン様。精霊に香りがある、というようなことが有り得るのでしょうか」
「精霊に香り?」
ミルガンが
「はい。カウティス王子は、セルフィーネ様が側におられると、香りを感じると仰るのです」
「精霊に香りがあるなどと、聞いたことがないが……」
ミルガンは
「そうですよね……。ハルミアンも感じないと言っていたのです。やはり、カウティス王子とセルフィーネ様だけの、特別な絆ということなのでしょうか」
「ふむ、……そうかもしれない」
思案顔のマルクと共に頷きながら、ミルガンは記憶を辿る。
頭の片隅で、何かが引っ掛かるような気がしたのは、気のせいだろうか。
どうにも思い出せずに頭を捻っている内に、他の魔術士に呼ばれて、ミルガンは一旦考えるのをやめた。
日の入りの鐘が鳴って一刻、カウティスは泉の庭園にやって来た。
ガラスの覆いの中に入ると、月光に照らされた水面が楽し気に跳ねた。
「カウティス」
名を呼ぶ声さえも楽し気で、カウティスは思わず微笑む。
「ご機嫌だな」
ふふ、と笑う声が聞こえて、再び水面が跳ねた。
「今日のカウティスは、とても素敵だった。間近で見られて、嬉しい」
カウティスは照れたように鼻の頭を掻く。
「俺は叙勲式に立ち会っただけで、何もしていないのだが……」
事実、カウティス達近衛騎士は立会人として参席しただけで、勲章を授けた訳でも、授けられた訳でもない。
「そんなことは関係ない。カウティスが一番素敵だった」
「……ありがとう」
カウティスは笑って手を差し出す。
セルフィーネがそう言うのならば、彼女にとってはそうなのだろう。
他の者を褒められるよりずっと気分が良いので、カウティスはそのまま褒められておいた。
「この魔力集結の覆いはどうだ? 回復に役立っているか?」
セルフィーネはカウティスの手を握って頷く。
「とても。昼に陽光の下で心地良く魔力を得られるなどと、考えたこともなかった」
「……ハルミアンだけでなく、イスターク猊下にも感謝を伝えるべきかな」
素直に感謝を受け取ってくれるかどうかは分からないが、とカウティスは思った。
「そなたに心地良い場になったのなら、良かった」
「ありがとう、カウティス」
セルフィーネは微笑むが、カウティスと視線が合っていないのに気付いて、小さく胸が痛む。
突然、泉から
カウティスが微笑む。
差し出していた手を繋ぎ直して、もう一方の掌を、泉の縁に立ったセルフィーネの頬に添える。
「……目を合わせたかった」
「ああ、嬉しいよ。こうしていると、そなたの姿が目に浮かぶ。髪も、瞳も……、そなたは変わらず美しいな」
その言葉を聞いて、セルフィーネの胸はより痛んだ。
カウティスが思い浮かべる姿は、既に今の自分の姿ではない。
新しい自分の姿を、カウティスに見て欲しい。
産まれ落ちた、新しい、本当の自分を。
実体化の足掛かりを得たのだと、カウティスの側に帰るのだと言いたい。
「セルフィーネ?」
笑顔が消えて黙っているセルフィーネを、カウティスは覗き込む。
セルフィーネは小さく首を振った。
まだ口にできなかった。
実体化には全く魔力が足りない。
下手に姿を現そうとして、フルデルデ王国の時のように、せっかく回復している魔力を消耗するわけにはいかない。
「…………早く、身体が欲しい」
小さな声が切なくて、カウティスは
「焦るな。きっと、いつか手に入る」
カウティスはそう言って、心の中で自分にも言い聞かせた。
深夜、日付が変わる頃。
いつの間にか月が雲に隠れてしまって、さっきまでパラパラと小雨が降っていた。
泉の覆いの中で、セルフィーネは一人静かに魔力を取り込む。
月光はないが、魔力集結によって大気から取り込まれた魔力は、僅かではあっても回復に繋がる。
泉の庭園は明かりが設置されていないので、まるで暗い水の底に、一人沈んでいるようだ。
少し寂しく感じたが、辛い程ではないのは、慣れ親しんだ庭園だからだろうか。
ふと、西の方から、淡く光るものが飛んでくるのが見えて、セルフィーネは微笑んだ。
それはすぐ近くまで飛んでくると、覆いの上を一周くるりと回ってから、ガラスを擦り抜けるようにして入り、泉の縁に止まった。
「ハルミアン」
泉の縁に止まったのは、ハルミアンの使い魔だ。
臙脂色の羽根を畳み、赤銅色の長い尾羽根をぷるると震わせて、つぶらな瞳を瞬いた。
「セルフィーネ、様子を見に来たよ」
そう言って、ぐるりと周りを見回す。
「うん、天気が悪くてもそれなりに魔力は集まってるね。これなら水の季節にも良さそうだ」
「とても助かる。ありがとう」
鳥は小さく頷いてから、首を傾げた。
「あれ? セルフィーネ、元気ないの? 王子と何かあった?」
セルフィーネはふるふると首を振る。
「何もない。……何もないが……早く、実体が欲しくて……」
焦ってはいけないと分かっているのに、カウティスを前にすれば、欲が出てくる。
話したい、見て欲しい、触れて欲しいと、心の底から欲が湧き出てくるのだ。
「この覆いの中でなら、姿を現すくらい出来るんじゃないの?」
この間も、今も、ハルミアンには魔力の纏まりが僅かに人の形のようにも見える。
「…………でも……」
「
鳥が愛嬌のある仕草で首を傾げた。
セルフィーネは少し迷ったが、ハルミアンにフルデルデ王国で掴んだ、実体化への足掛かりを説明した。
「すごいじゃないかっ!」
小さな黒い嘴をパクパクとさせて、鳥は羽根を逆立てた。
「そうか、実体化への最後の鍵は、想像力だったんだ!」
「想像力?」
「そうだよ! 生命が産まれ落ちる瞬間を見て、君の中に具体的な
セルフィーネはふるりと震えた。
ハルミアンの言葉で、やはりあれは夢などではなかったのだと思った。
実体化の可能性が、確実なものになった気がした。
「……ああ、それで、逆に半実体を造ることが出来なくなったのか」
今ここで半実体の姿を現そうとすれば、実体化へと流れてしまいそうなのだ。
一度出来たイメージは、なかなか変えられない。
鳥は暫く考えるように目を瞬いていたが、ぴょんと跳び上がって、セルフィーネを見上げた。
「じゃあさ、僕の
「え?」
「既に半実体に練り上げた魔力だから、セルフィーネが取り込んで姿を変えるといいよ。そうすれば、君の魔力を損なうことも殆どないし、実体化に流されることもないんじゃない?」
セルフィーネは強く首を振った。
「それでは、ハルミアンの使い魔が失われてしまう」
「いいよ。また半年程魔力を練れば、新しい使い魔を作ることも出来るし」
「でも……」
臙脂色の鳥は、居住まいを正すように羽根を畳み直した。
「これは、カウティス王子とセルフィーネへのお礼だよ」
「お礼? 私は何もしていない」
黒曜の瞳をパチパチと瞬いて、鳥は少し頭を下げる。
「僕を信じてくれたお礼。それから、二人は僕に、とても大事なことを教えてくれたから。……とにかく、いいんだ。僕は二人に笑って欲しいの!」
不思議そうにするセルフィーネの魔力を見て、鳥は照れ隠しのように羽根をバタバタさせてから、飛び上がった。
「さあ! セルフィーネの新しい姿を見せてよ!」
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