血縁 (後編)
水の季節前期月、一週三日。
カウティスは、昼の鐘が鳴る前に王城に帰り着いた。
しかし着いた途端、午前に泉の庭園で母が倒れたと知らされ、その足で離宮に向かった。
午後の一の鐘が鳴る頃、カウティスは泉の庭園へやって来た。
庭園は、以前の見慣れていた風景とは変わっていたが、ガラスの覆いを造っていた時から、機会がある毎に足を運んでいたので、戸惑うことはなかった。
建築途中に
押し固められた黒い土の上を歩き、カウティスはガラスの覆いに近付いた。
僅かに青味がかった透明ガラスの向こうに、見慣れた小さな泉がある。
八角形のガラス壁の一枚は、扉として開くようになっていて、カウティスはそれを開いて中に入った。
「セルフィーネ、すまない。遅くなったな」
細く上がった噴水に向かって声を掛ければ、波紋を映していた水面が揺れた。
「……すまない」
サラサラという軽い水音と共に、小さなセルフィーネの声が聞こえた。
「何故そなたが謝る?」
「マレリィ妃の頭痛に気付いたのに、止められなかった。神聖力も使うことが出来なかったし……」
侍女達の前では、さすがに神聖力を使うわけにはいかなかった。
「そなたのせいじゃない。母上も、もう落ち着いておられたし、そなたの前で取り乱して申し訳なかったと仰っていた」
カウティスは泉に向かって手を差し出す。
セルフィーネは、見えない手でその手を握った。
「マレリィ妃は、頭痛の原因がリィドウォル卿にあると、気付いていたようだ」
カウティスは険しい表情で頷いた。
「以前より頭痛が起きる頻度が上がって、母上も何かしら思い当たったのだろう。……ザクバラ国を訪れるべきか、悩まれていたようだし」
「カウティスは……祖父に会いたいと思うか?」
セルフィーネは、カウティスの手を握る力を強めたが、その手は擦り抜けるばかりだった。
「正直に言って、全く思わないな。肖像画で、何度か見たことがあるだけだし」
顔に特徴的な痣のあるリィドウォルと違い、祖父やもう一人の伯父、叔母の顔は、特に印象に残っていない。
「…………俺を薄情だと思うか?」
カウティスの問いにセルフィーネは首を振ったが、見えないのだと気付いて口を開く。
「カウティスを薄情な人間だとは思わない。……だが、私にはよく分からない。血の繋がりとは、一体どういうものなのだろう」
セルフィーネには、益々分からなくなった。
「人間は、産まれ落ちる我が子をあれ程に尊いものとして喜ぶのに、そうして続いていく関係は、同じような尊さでは繋がっていないものか?」
「そうだな。……そうであったら良いのだろうが……」
セルフィーネの悲し気な声を聞けば、カウティスはどうにかしてやりたい気持ちになる。
しかし、人間にはそれぞれの想いや感情、しがらみがあって、セルフィーネが思い描くような繋がりでは有り得ないことを知っている。
カウティスが複雑な表情で黙っているので、セルフィーネは目を伏せた。
フルデルデ王国で、赤ん坊が産まれた時の感動を思い出せば、あれこそが、人間が血の繋がりを重視する理由なのだと思えた。
だが、マレリィやカウティスを見るに、それだけとは言い切れないものらしい。
「人間が皆、己の産まれ落ちる瞬間を覚えていられたなら、人間同士が争う事も無くなりそうなのに……」
セルフィーネの、願いにも似た声が漏れた。
日の入りの鐘が鳴って半刻。
ザクバラ国の王城では、文官棟にある一室で、リィドウォルが資料を
ここは長年に渡り、前宰相のザールインが使っていた部屋だが、リィドウォルが引き継いだ。
部屋にある物全てを破棄してやりたかったが、贈賄や捏造の証拠となるものも多く、忌々しい気持ちで徐々に整理している。
「閣下、少し窓を空かしましょうか?」
資料整理を手伝っていた文官が、リィドウォルに声を掛けた。
今日は気温が少し高いからか、普段着崩すことのないリィドウォルが、しきりに首元の立襟を指で引いている。
リィドウォルは言われて初めて、自分が襟を引いていたことに気付き、バツが悪そうにした。
「いや、大丈夫だ」
答えて再び机上に視線を落とす。
暑いのではなく、息苦しいのだ。
先月末の十日間、水の精霊は中央の神殿に居続けたが、水の精霊がザクバラ国を去った途端、空気感が変わったことに魔術士達は愕然とした。
水の精霊が中央にいるだけで、気付かない内に、淀んだ空気は少しずつ薄められていたのだ。
水の精霊がザクバラ国を出てまだ三日だというのに、その違いは顕著だった。
日に日に空気感が元に戻ってくると、リィドウォルは息苦しいと感じ始めていた。
水の精霊の魔力を確かめに毎夜神殿に通い、清浄な魔力をすぐ側で感じていたのが仇となったのか、以前は平気だったものが、今はとても不快だった。
どうにも落ち着かない気分で、今日のところは作業に切りをつけた。
現在の事でも、国内は問題が山積みなのだ。
リィドウォルは、王太子の執務室の続き間に向かう。
王の執務室は、今は使われていない。
タージュリヤは王太子の執務室で公務に当たっていて、普段リィドウォルはその続き間で仕事をしている事が多かった。
タージュリヤは今日の公務を既に終えているだろうが、リィドウォルはまだすべきことが残っていたので、続き間を使うつもりだった。
執務室へ向かう途中、向かい側から赤茶色のドレスを揺らして、タージュリヤが歩いて来るのが見えた。
リィドウォルは脇に避けて立礼する。
「リィドウォル卿。もしや、陛下のところへ?」
側で止まり、薄く笑んでタージュリヤが問う。
彼女が来た方は、王族の居住区へと繋がる廊下にも出られる。
「いえ、執務室へ向かうところでした。……殿下は陛下の居室へ行かれていたのですか?」
タージュリヤから、薄く薬香の匂いがした。
「ええ。先程も少し目を開けられて、僅かですがお話し致しました」
タージュリヤの言葉に、リィドウォルは弾かれた様に顔を上げる。
「会話が出来る程に、意識が戻られているのですか?」
「そうなのです。今日の日付を聞いて、式典は行ったかと尋ねられました」
今年に入ってから今までも、王は時折意識を取り戻す事があった。
しかし、常に意識は混濁していて、はっきりとした会話が出来たのは、先月水の精霊がザクバラ国に入っていた十日の間の、二回だけだった。
水の精霊が近くにいて、
タージュリヤは満足気に笑みを深める。
「薬師と相談して、薬の処方を変えたのが良かったのでしょうか。陛下は、まだまだ気力がお有りになる」
「処方を変えた……?」
リィドウォルは黒い眉を寄せる。
「ええ。せっかく意識を取り戻す機会が増えてきたのですから、強い薬は控えることにしたのです。周りの者との会話で少しでも……」
「殿下、お待ち下さい。鎮静薬を減らすのは早すぎます。早々に意識を浮上させては、
タージュリヤは笑顔のまま頷く。
「勿論、承知しています。ですから、薬師と十分相談して処方させています。それに、水の精霊の魔力が回復を続けている為か、陛下はとても穏やかなご様子です」
リィドウォルの指がピクリと動いた。
数人いる国王の孫の中でも、タージュリヤは抜きん出で優秀で、王は彼女が幼い頃から特に可愛がっていた。
その為か、詛の影響で浮き沈みが激しくなり、失政を重ね始めた頃から、王は彼女を遠ざけてきた。
おかげでタージュリヤの中には、幼い頃の賢く優しい祖父のイメージが強く残っているのだ。
逆に言えば、理不尽に振る舞い、苛烈さを表に出した王のイメージは薄いのだろう。
「……魔力の回復は続いていますが、次に我が国に水の精霊が来るのは、まだ半月以上後のことです」
リィドウォルは固い口調で言う。
「陛下の激昂を、殿下はご存知ないでしょう。もしも今の陛下が激昂なされれば、それこそお命に関わります。そうなれば、今行おうとしている事の多くが、水泡に帰すことになります」
リィドウォルの様子に、焦りだけでなく、苛立ちも僅かに感じ取り、タージュリヤの笑みが消える。
「……リィドウォル卿の懸念は、理解しました。薬師と相談して、注意深く見守りましょう」
「殿下、それでは不十分です。処方は元に戻すべきです」
侍従や護衛騎士達の前であっても、リィドウォルは少しも引かなかった。
その姿を見てタージュリヤがくっと眉を上げた。
「理解したと言いました!」
タージュリヤが鋭く言って、細い顎を上げる。
その目付きは、気弱だった父親よりも、祖父である国王に似ている。
「陛下が国政を指揮出来ない今、我が国の頂は王太子である私です。忘れましたか?」
「…………存じております、王太子殿下」
リィドウォルがゆっくりと姿勢を正し、立礼する。
「貴方の陛下に対する忠誠は、良く分かっています。しかし、私もまた、陛下を深く敬愛しております。陛下に偉大なザクバラ国王として引いて頂く為にも、しっかりと意識を回復して、譲位して頂かねばなりません」
未だ、国王を絶対君主とする貴族は多い。
今はその者達をリィドウォルが抑えているが、強引にタージュリヤが即位すれば、再び政変が起こる可能性もある。
タージュリヤが順当に即位するには、国王が自らの意志で王太子への譲位を宣言することが必要なのだ。
そして、フルブレスカ魔法皇国の皇帝が代替わりした今、曖昧なままのザクバラ国の王座を、何時までも黙って見ている保証もない。
「……ゆっくりしている時間はないのです、リィドウォル卿」
伏せ目がちに立礼したままのリィドウォルに、タージュリヤは決意の籠もった声で言った。
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