帰還間際

西部国境地帯の拠点。

夜、居住建物の広間に、慌てた様子で入って来たのは、作業員達の所に行っていたはずのハルミアンだ。


「ねえ、王子、もうセルフィーネが対岸まで来てるみたいだけど」

広間の机に、何やら書類をいっぱいに広げていたカウティスが、驚いて立ち上がる。

「セルフィーネが? もうそんな時間だったか!?」


セルフィーネが帰って来るのが待ち遠しく、何とか時間を潰していたはずなのに、まさか日付が変わる時間まで気付かなかったのだろうか。


「まだ日付が変わるまで、一刻以上ありますよ」

ラードが時刻を確認して言う。

「何かあったのだろうか。……とにかく、行ってみる」

カウティスは愛用の長剣だけ持って外に出た。




光の季節最後の夜は、月光を遮る雲は欠片もなかった。

月輪がくっきりと夜空に浮かび、青白い光を惜しみなく降らせていた。


カウティスは、ラードとハルミアンを連れて、川原へ急ぐ。

マルクは魔術士の昇級試験の合格発表で、今朝合格を知らされ、召集が掛かったので王城に戻っていた。



川原に下りると、ハルミアンが対岸を指差した。

「あそこだよ」

示した先もは、いつもセルフィーネが降り立つ辺りで、カウティスには何の違いも分からない。

「様子は?」

「んー、変わらないように見えるけど。ちょっと使い魔を遣ってみるよ」

ハルミアンはそう言って、右手を肩の高さまで上げると指を振る。

金の粉が何もない空中から降り、撚り合わさると、瞬く間に臙脂色の鳥になった。

ハルミアンの手が振られると、それに合わせて対岸に向かって飛ぶ。


ハルミアンは暫く焦点が合わない様な目をして黙っていたが、数度瞬いてから苦笑気味にカウティスを見た。

「あのね、早く王子のところに戻りたくて、早目にここまで来ちゃったみたい」

「何かあった訳ではないのか?」

心配して使い魔を目で追っていたカウティスが、念押しする。

「そうみたいだよ」


カウティスの口元が緩む。

「…………何だ、その可愛らしい理由は」

思わず心の声が漏れてしまって、横に立つラードに生暖かい目を向けられた。


「ここまで来たなら、帰ってきちゃえばって言ったんだけど、『まだ日付が変わっていないから、国境を越えては駄目だ』って。セルフィーネったら、真面目なんだからさ」

ハルミアンが肩を竦めた。

「協約に従っているのだ。セルフィーネは何も言わなかったが、ザクバラ国で何かしらの制約を課されているのかもしれない」

あり得る話だと思い、ハルミアンもラードも眉を寄せて対岸を見詰めた。



「それで、どうします? 日付が変わるまで、まだ一刻程ありますが」

ラードが腕を組んで、答えの分かっている問い掛けをする。

「ここで日付が変わるまで待つ。剣でも振っていれば、一刻なんてすぐだ」

「うわっ、剣術バカ……」

ボソッと言ったハルミアンを、鞘の付いた長剣で牽制してから、カウティスは小さく息を吐く。

「……じっとしていられないのだ……」


対岸にセルフィーネがいるというのに、拠点に戻るなんて出来ない。

だが、出来ることは近くで待つだけだ。


「セルフィーネ、日付が変わるまで、俺はここにいるから。……一緒にいような」

優しい声音でカウティスが言えば、返事の代わりに、水面が小さく跳ねた。




「一旦戻って、飲み物でも用意してきます。ハルミアン、俺が戻るまでここにいろ」

ラードが魔術ランプを持ち上げて言った。

カウティスの剣術が護衛のいらない実力なのは分かっているが、出来る限りは一人に出来ない。

「分かった」

ヒラヒラと手を振るハルミアンに頷いて、ラードが拠点に戻って行く。



遠ざかる後ろ姿を見て、ハルミアンはくすんだ金の頭を掻いた。

「僕をぞんざいに扱うくせに、大事な王子を預けちゃうんだから、変な奴だ」


既に長剣を構えていたカウティスが、小さく笑う。

「相容れないところもあるが、ハルミアンなりに、セルフィーネを大事に思ってくれているのが分かっているからだろう」

ハルミアンが怪しんで眉を寄せた。

「ラードがそんな風に思ってるかなぁ」

「思っているのではないか? 竜人が西部に来た時、関わらないことも出来たはずだが、そなたは私達を助けてくれた」

対岸のセルフィーネをちらりと見て、ハルミアンは口を尖らせる。

「全然助けられてなんかないじゃないか」

「いいや、随分助けてもらっている。年末にセルフィーネを神殿にやろうとしたのも、セルフィーネを助けようとしてくれたのだろう?」

「…………知ってたの?」

目を見張るハルミアンに、カウティスは頷いて見せる。

「フルデルデ王国で、セルフィーネが神殿にいられるようになったと聞かされてから、マルクが教えてくれたのだ。……ハルミアン、そなたはあの時、神聖王国や司教の為でなく、セルフィーネを助けるために動いてくれたのだろう? ラードも、それを分かっているはずだ」


カウティスは長剣を一度下ろして、正面からハルミアンを見詰める。


「ハルミアン、セルフィーネを大事に思ってくれていることを、感謝している」

「な、何だよ、そんな改まって……。大事にって言うけど、王子はいつも、僕に妬いているじゃないか」

ハルミアンはひるんでしまい、目線を漂わせた。

そして慌てて、わざと軽口のように言ったが、カウティスは逆に真剣さを増した。

「……そうだな、妬いてしまうよ。本当に羨ましい。ハルミアンはセルフィーネと妖精界同じ世界にいて、いつでもセルフィーネを見ることが出来る」


カウティスには見えないし、セルフィーネが魔力干渉に応じてくれなければ、指先すら触れられない。

竜人に蹂躙じゅうりんされて倒れたセルフィーネを抱き上げることすらできず、膝をついていた時のことを思い出すと、今でもはらわたが捻れそうな気持ちになる。


カウティスは一度深呼吸をする。

「だが、私は私だ。それはどうやっても変えられないし、私にしか出来ないこともある。……ハルミアンは、私に出来ないことでセルフィーネを助けてくれる。とても感謝している」


ハルミアンは、視線を上げられない。

セルフィーネの聖紋を見つけるつもりの自分が、こんな風に感謝されていいはずがないと思った。

形の良い唇を歪ませて、何とか声を出す。

「王子、僕は……」

しかし、何と言っていいのか分からないまま、ハルミアンは恐る恐る視線をカウティスに戻した。


澄んだ青空色の瞳は、真っ直ぐハルミアンを見詰めたままだった。


「感謝している」

カウティスはもう一度そう言って、少し照れたように笑う。

呆然としたハルミアンをそのままに、対岸を一度見てから、長剣を構え直した。





輝く月が、中天に到達する。


少し前に剣を仕舞って、今か今かと待ち構えていたカウティスが、パッと両腕を広げた。

「セルフィーネ!」

清涼な微風がベリウム川を横切り、カウティスの胸に辿り着いた。

「カウティス」

泣きそうな声が水面から聞こえて、カウティスが両腕を折る。


「……こんな所で待たせてしまった。すまない」

「そのおかげで、こうしてすぐに抱きしめられたではないか。おかえり、セルフィーネ」

「おかえり」

「お待ちしていました」

少しも迷惑に思っていない様子の三人に迎えられ、その優しさと笑顔に、セルフィーネの心に温かいものが広がる。

「ただいま。……ありがとう」


ふわりと朝露のような蒼い香りが、カウティスの鼻孔をくすぐる。

セルフィーネが無事にザクバラ国から帰って来たことを感じ、微笑んだ。






セルフィーネは、カウティスの胸の中にすっかり収まって、ようやく安堵の息を吐いた。

ベリウム川の対岸で、カウティスの顔を見るまで、ずっと怖気おぞけに襲われていたのだ。



ザクバラ国で、日の入りの鐘から一刻経った頃、セルフィーネはリィドウォルの頼み事を受けて国王の居室に下り立った。


その部屋の中は、淀んだ気で充満していた。


寝台の周りに垂れた天蓋が、一部分巻き上げてあった。

その先に見える、大きな寝台に横たわる老人の身体には、真っ黒でぼんやりとしたものが纏わりついていた。

身体の周りにぼんやりとオーラの様な魔力を纏うのは、本来ならば精霊の加護だ。


しかし、あの色は……。


セルフィーネは、己を奮い立たせ、一歩近付く。

そして、ひるんだ。

「……これ以上は、無理だ」

言って、上空うえに急いで逃げた。

少しでも早くそこから離れたくて、そのまま国境地帯に向けて駆け戻ったのだった。



あの黒いものは、まるで狂った精霊の加護だ。

側に寄れば引きずられて、狂ってしまいそうだと思った。

思い出したくない感覚が甦り、セルフィーネはぶるりと震える。


あれがザクバラ国ののろいだというのならば、竜人の血は、人間の手に余る力だったのだ。


神の力でのみ融合できる、世界の層。

神の力に頼らず、別の世界層と本当の意味で交わるには、摂取することが唯一つの方法だという。

しかし、人間を導く役割を神に与えられたという竜人族の血を、その人間が摂取した結果がこれなのだ。




セルフィーネはキュッと唇を引き結ぶ。

にもう二度と近寄りたくない。

あんな状態で、人間がまともでいられるはずがない。


ふと、あの部屋にいた人々を思い出した。


リィドウォルやタージュリヤ達は、国王の側にいても平気なのだろうか。

彼等は、魔術素質の高い者特有の魔力を纏っている。

精霊に加護を与えられた者と違って、常に身体の周りに見えるわけではない。

魔術を使う時や、気持ちの高ぶりに反応して、僅かに身体の周りに魔力が滲んで見えるのだ。

おおむねその色は、本人の主属性に近い色合いになる事が多いが、混ざって良く分からない色になる者もいる。



セルフィーネは、そっと眉を寄せる。

彼らの魔力の色は、混色でよく分からなかった。

しかし、混ざって見えた様な気がする……。




「セルフィーネ、どうした?」

カウティスに名を呼ばれて、セルフィーネはハッと我に返った。

ネイクーンに戻って来て、カウティスの腕の中だったというのに、二刻前の衝撃にまだ囚われていた。

「…………ごめんなさい」

「大丈夫だと言っただろう。疲れたか? さあ、拠点に戻ろう」



カウティスの笑顔を見て、セルフィーネは見えない微笑みを返す。


もう、ネイクーンに戻って来たのだ。

ザクバラ国のことは、今は忘れようと思った。


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