ザクバラ国の要望

セルフィーネは国境を越える。

空を駆けながら、そっと指で口を押さえた。


『行きたくない』と口にしてしまった。

カウティスを困らせると分かっていたのに。

それでも、黙ってカウティスはその言葉を聞いてくれた。

その優しさが嬉しい。


絶対に口にしてはいけないと思っていた時よりも、心が楽になった。

自分の気持ちを外に出すことは、こんなにも自由になれることなのだ。




ザクバラ国の空気はやはり淀んでいて、なんとなく重く感じる。

セルフィーネは先月と同じ様に、ベリウム川が見えなくなる所まで進むと、一度止まった。


見たところ、国内各地の水源は変わらずよく保たれている。

特に気にしなければならない所はなさそうだった。

それだけ確認して、セルフィーネは視界と感覚を狭める。

今夜は月光を遮るものはない。

このままここに留まり、月光を浴びることにした。





近くの街の鐘塔で日の出の鐘が鳴って、セルフィーネはハッとする。

東の空で、月が太陽に替わった。

これから夜までは、出来る限り消耗を減らさなければならないが、どうすれば日の入りの時刻まで消耗を最小に抑えられるだろうか。


悩みながら一刻程その場にいたが、やはりザクバラ国の空でじっとしているのは苦痛だった。

せめてベリウム川に近い所にいようと決め、身体を動かしたセルフィーネの耳を、聞いたことのない声がかすめた。



「水の精霊よ、聞こえますか。私はザクバラ国の王太子です。お前と話がしたい」



感覚を狭めていたので明瞭に聞こえなかったが、確かに王太子だと言った。

ということは、セイジェ第三王子と婚姻を結ぶ、タージュリヤ王女だろう。


セルフィーネは視界を戻し、声のする方を見る。

水盆を覗き込んで声を掛けているのは、高貴な身なりの、細面の女性だ。

緩く巻かれた黒髪を垂らし、黒眼に知的な光をたたえる。



セルフィーネは逡巡する。

求めに応じるためには、水盆の側まで行かなければならない。

向こうの声は拾えても、こちらの声を遠くには飛ばせないのだ。

しかし、タージュリヤ王太子がいるのは、中央だ。

躊躇ためらいながら王城の方向を見ると、以前感じたよりもずっと、暗く禍々しい気配が薄れていることに気付いた。

これならば、行けないことはないかもしれない。


それでも、まだ迷って踏み出せないセルフィーネの耳に、再び声が届く。

「水の精霊よ、聞こえますか。私はザクバラ国の王太子です。三国の関係を改善する為にも、お前と話がしたい」


セルフィーネは目を見開く。

感覚を戻していたので、今度ははっきりと聞こえた。

『三国の関係を改善する為に』と、王太子はそう言った。

ネイクーン王国とザクバラ国の関係が改善されることは、セルフィーネ自身も願っていることだ。


セルフィーネは意を決し、足を北西に進めた。




相変わらずザクバラ国の空は、セルフィーネが思うような速さで駆けることが出来なかった。


中央に入ると、灰墨色の王城を囲むように城下の街が広がっているのが見えた。

色とりどりのフルデルデ王国の街並みとは対照的に、ザクバラ国は灰色の建物が多く、どことなく古びて陰鬱いんうつとして見える。

気が付くと、自分の周りに黒い気配のようなものが纏わりついているようで、セルフィーネは駆ける速さを上げた。


タージュリヤ王太子は、王城にいるのだろうと思ったが、水盆の声を辿ると、王城の壁外にあるオルセールス神殿から呼ばれている。

セルフィーネは不思議に思いながらも、この纏わりつく気配から逃れるように月光神殿に下りた。





月光神殿の祭壇の間に下りたセルフィーネに、タージュリヤは目を留めた。

「やっと来てくれましたね、水の精霊」

魔術素質の高い彼女には、魔力の纏まりがよく見えた。



祭壇の前に立つタージュリヤを見て、セルフィーネは水盆から声を出す。

「……ザクバラ国王太子よ、私は水の精霊だ。今年から、貴国の水源を守る役割を竜人族から与えられた」

言いながら、祭壇の間に並んだ長椅子の後ろの方に、何人もの人間が並んでこちらを見ていることに気付いた。

騎士や魔術士、貴族院の上部といったところだろう。

そしてその中央に、黒いローブを着たリィドウォルが立っていた。


「水の精霊よ。私はザクバラ国王太子のタージュリヤです。ネイクーン王国のセイジェ第三王子と婚約している身ゆえ、知っているでしょうね?」

「知っている」

セルフィーネは小さく頷いて答える。

両手を前に組んで背筋を伸ばし、魔力の纏まりに真っ直ぐ視線を向けるタージュリヤは、生真面目な性格が見て取れた。

セルフィーネが返事をしたことに満足し、タージュリヤは一度頷いて続ける。

「我が国は、図らずもお前を三国で共有することになりました。そうなったからには、お前を無下に扱うつもりはありません」


セルフィーネは思わず眉を寄せてリィドウォルを見た。

特徴のある痣を右目の下に刻んだ男は、何食わぬ顔でこちらを見ている。


セルフィーネは唇を噛んだ。

偶然などで三国のものになったのではない。

協約を守らなければ、休戦協定を破棄すると脅しておいて、『無下に扱うつもりはない』などと言う言葉を、よくも平然と聞いているものだ。

それとも、この生真面目そうな王太子も、リィドウォルと同じ様に、心の内に企みを隠して、平然とした顔を見せているのだろうか。



セルフィーネが恐れのような、不快感のようなものを感じて気を張った時、タージュリヤが尋ねた。

「お前が魔力を回復する為には、月光神殿の、この祭壇の間に留まるのが一番良いと聞きましたが、間違いありませんか?」

「……間違いない」

タージュリヤは頷く。

「では、我が国に滞在する二週間は、ここに留まりなさい。神殿の許可は取ってあります」


予想していなかった内容を耳にして、セルフィーネの構えていた気が散る。

「……何故?」

「早くお前に回復して欲しいからです。ネイクーン王国から来たなら、お前もこの国の病んだ気を感じたでしょう。それを、お前の魔力で清めてもらいたいのです」

「清める?……私は、水源を守り保つのが役割だ」

セルフィーネは再び構えたが、タージュリヤは何処か思い詰めたような瞳のまま、視線を逸らさない。

「分かっています。特別何かをさせようと言うのではありません。ただ、協約を守り、この二週間を我が国土に留まっていて欲しいだけです」

「留まるだけ?」

セルフィーネは眉根を寄せた。


いつの間にか、祭壇の近くまで来ていたリィドウォルが、タージュリヤに許可を貰って口を開いた。

「お前は気付いていないのかもしれないが、お前の魔力が空を覆っていた時、ネイクーン王国では、魔獣の出現が他国に比べて格段に少なかった。それはお前の魔力が、清浄であるが為だ」

確かに、ネイクーンでは水の精霊の恩恵だと、辺境警備で喜ばれていた。

「だからこそ、ザクバラ国我等はお前を望んだのだ」



「我が国は、長い間多くの血を流してきました。その代償としてなのか、人間の手に余る淀んだ気が国を覆ってしまった……」

タージュリヤの顔に、苦痛の色が滲む。

「その気を払う為、お前の力を貸して欲しい。我が国に留まり、神殿で出来得る限り魔力の回復をして、いつか我が国もネイクーン王国と共に、美しく清浄な魔力で覆って欲しい。……私は、この国を病んだ気から開放したいのです」



国の上に立つ者の苦悩と、その真摯な熱意に、セルフィーネは気圧される。

しかし、フルデルデ王国の女王の言ったこととは真反対のタージュリヤの言い分に、僅かな反感を持った。


『 自分達の行いに返ってきたことは、自分達の努力で報いなければならない 』


あの清々しい程の女王の言葉は、人間の強さの本質のような気がしてならない。

己の手に余るものを引き寄せ、他国のもの精霊を奪って解決しようというザクバラ国のやり方が、どうにも不快だった。


それでも、あの淀んだ気の下で生きているザクバラの民は、どれ程に不憫であるかと考えてしまう。

それを助けられるのはお前だけだ、と言われれば、拒むのは躊躇ためらわれた。


セルフィーネは、言いようのない胸の詰まりに、言葉を失う。




セルフィーネが黙っているので、リィドウォルが再び口を開いた。

「……我が国の気が払われた時、我が国はネイクーン王国への遺恨を捨てられるだろう」


セルフィーネは息を呑んで、リィドウォルを見た。

リィドウォルの目は、国境地帯で見た時よりも、ずっと静かなものに見える。


「虫のいい話だと思うだろう。しかし、我が国は今、変わろうと藻掻いている。お前の協力が必要だ、水の精霊よ。両国が正しく結ばれた時、我等はお前の縛りを解くつもりだ」

「……そなた達人間に、私の契約魔法は解けない」

苦しいセルフィーネの声に、リィドウォルは頷く。

「確かに契約魔法は解けない。だが、三国共有のままでも、三国が同意さえすれば、お前はネイクーン王国にいられる。……カウティス王弟の下へ、帰れる」

「……!」



カウティスの下へ帰れる。

その言葉は、セルフィーネの心を激しく揺さぶった。


三国の公認の下、今までのように、ネイクーン王国にいられる。



そもそも、タージュリヤとリィドウォルがセルフィーネに求めたことは、ザクバラ国から二週間出ないことで、それは元々三国で取り決めた協約通りだ。

しかも、居心地の悪いザクバラ国の中で、安心して回復に専念できる祭壇の間場所を用意された。

実体化の為に、回復と魔力の増大を目指すセルフィーネと、水の精霊の魔力の増大を望むザクバラ国の利害は一致しているようにも思える。


セルフィーネが異を唱える理由はなかった。


「…………分かった。望み通り、二週間、出来る限りここで回復に努め、国外へは出ない」





壁外の神殿から、王城へ戻ったタージュリヤは、共に戻ったリィドウォルを振り返った。


「あれで良かったのですか?」

「はい。精霊は嘘をつけません。口にしたからには、後は放っておいても国内におります」

リィドウォルと共に、付いて戻った魔術師長も頷く。

「そうですか。……それにしても、一つの人格を持っていると言うなら、相当に我が国には思うところがあるでしょうに、私の要望をあのようにあっさりと受け入れるとは」

タージュリヤは、肩に掛かっていたケープを侍女が外すのを待って、長く息を吐いた。



「善良であろうとする者は、目の前で苦しい心の内をさらけ出されると拒めないものです」

リィドウォルは、今来た方をちらりと見て軽く笑う。

「そして、自分と同じ様に善良であろうとする者を信じ易いのですよ」


その目には、ギラギラとした光が戻っていた。





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