足掛かり
フルデルデ王国の王都では、日の出の鐘が鳴るよりもずっと早く、祭壇の間に聖女アナリナが入って来た。
朝の祈りの時間にはまだ早いが、セルフィーネと二人きりで話す為に早めに来たようだ。
「セルフィーネ、どう? 少しは回復した?」
「……少しは」
水盆から聞こえる声は、掠れ気味だ。
「……昨夜、私の姿を見たか?」
セルフィーネが小さな声で言った。
しかしその声は、気持ちの昂りを抑えているようにも聞こえる。
「ちらっとだけど、見たわ。青紫の髪がとても綺麗で、ほっそりした腕が白く輝いてた」
祭壇の側に降りてきた魔力の纏まりに、アナリナはそっと手を伸ばす。
「あれが、あなたなのね、セルフィーネ」
「……私の身体……」
セルフィーネの声が震える。
あれは確かに、身体と言って良い物だ。
求めてやまない、実体化への足掛かりを得たと思った。
「でも、圧倒的に魔力が足りない……。回復して、更に魔力を増やさなければ……」
あの一瞬で、この消耗だ。
やはり、元の魔力量に戻るだけでは駄目なのだ。
三国の空を、ネイクーンを覆っていた、あの魔力の層で覆える程にはならなければ。
それを一つに凝縮して、実体を得る。
「もっと、もっと魔力を……」
セルフィーネは両手を強く握った。
実体化への足掛かりを得て嬉しいはずなのに、焦燥感が押し寄せる。
「セルフィーネ!」
アナリナの力強い声に、セルフィーネはハッとして顔を上げた。
黒曜の瞳が、セルフィーネを見据える。
「まずは回復よ。それは変わらないわ。回復して、それから魔力量を増やす努力をするの。いい? 気持ちは分かるけど、焦っては駄目」
アナリナの手が、セルフィーネの魔力を撫でるように動く。
「アナリナ、でも……」
「いざ“その時”になったら、私が“神降ろし”で月光神を引っ張り降ろしてでも協力するから!……だから、“その時”までは、焦らないで」
セルフィーネは暫く何も言わなかったが、拳を握りしめたまま、ゆっくりと頷いた。
「カウティスには話すの?」
祭壇から一番近い長椅子に座り、アナリナが聞くと、セルフィーネは首を振る。
魔力の纏まりがふるふると揺れた。
「……今まで何度も期待をさせては、落胆させた。実体化の目処がつく立つまでは……言えない」
「そう、分かったわ。……ねえ、セルフィーネ、方向性が見えたのよ、すごい進歩だわ!」
アナリナが明るく言うので、セルフィーネは目を瞬いた。
「大丈夫! あなたは必ず進化出来るわ!」
その力強い言葉と笑顔に励まされ、胸を熱くする。
必ずとカウティスと約束した進化が、手の届きそうなところまで近付いた気がした。
「……いつか、必ず」
セルフィーネはアナリナに頷いて見せた。
午前の一の鐘が鳴る頃、セルフィーネはネイクーン王国西部の復興拠点へ帰る。
居住建物に入ると、広間でカウティス達が待っていた。
「セルフィーネ、昨夜何かあったのか?」
「え……?」
心配そうな顔でカウティスに尋ねられて、セルフィーネはドキリとした。
「マルクが、そなたの魔力が弱くなったと言うから、何かあったのではないかと心配していたのだ」
昨夜の消耗が、空に広がる魔力にも影響していたようだった。
「大丈夫だ。……少し、消耗してしまっただけだ」
その掠れたような声に、セルフィーネがザクバラ国から戻った時のことを思い出して、カウティスは強く眉根を寄せる。
「消耗って、何故だ!? フルデルデ王国でもそなたを苦しめるような何かが……」
「違う! 違うのだ、カウティス。フルデルデ王国の皆も、アナリナも私に良くしてくれる。ただ、私が……」
身体を手に入れかけたのだと、喉元まで出掛かったが、セルフィーネはそれを飲み込んだ。
年末日に実体化を果たせなかった事で、カウティスはとても辛そうな顔をしていた。
またあんな顔をさせたくなかった。
「…………早く、実体が欲しくて……」
机に乗り出すようにして、声の聞こえる水差しに向かっていたカウティスが、力無いセルフィーネの言葉に眉を下げた。
「何か無理をしたのか?」
返事のない水差しを見詰めて、カウティスは両腕を開く。
「セルフィーネ」
呼ばれたセルフィーネは、カウティスの腕に収まった。
何も言わないということは、言えないことか、言いたくないのだ。
どちらにしても、強く聞き
「無理をするな。いつまでも待つと、約束しただろう?」
「……心配させて、すまない」
しゅんとした声が、今度は胸のガラス小瓶から聞こえたので、カウティスはわざと元気な声で言う。
「先ずは回復だな。せっかくの美声が台無しになっているぞ。そうだ! 心配をさせた罰として、声が戻ったらそなたに歌を歌ってもらおう」
「歌?」
カウティスの発案に、ラードが無精髭の顎を掻いて笑った。
「いいですね。セルフィーネ様の声なら、聴く価値はありそうです」
「どんな歌が良いでしょうね?」
マルクまで嬉しそうに同意するので、セルフィーネは慌てた。
「私は、歌など知らないし、歌ったことなどないぞ」
「だから聴きたいのだ。皆で教えるから、しっかり回復するのだぞ」
カウティスが楽しそうに言えば、隣でラードがマルクを見て盛大に眉を寄せた。
「皆で教えるんですか? マルクは音痴ですよ」
「えっ!? そんなことはないはずです!」
「いやいや、南部の酒場で聴いた時は、耳を疑ったね。一気に酒が
「それはただの飲み過ぎでしょう!」
ラードとマルクのやり取りに、思わずセルフィーネは笑う。
ひとまず元気付けることに成功したことを、カウティス達は心の内で安堵したのだった。
セルフィーネは、昼間は拠点で過ごし、夜はフルデルデ王国の神殿に戻った。
翌日の四週五日には、アナリナに朝別れを告げてから、拠点へ戻る。
今夜、日付が変われば、ザクバラ国へ二度目の滞在に向かわなければならない。
「何? 何で合唱?」
昼の鐘をだいぶ過ぎてから帰って来たハルミアンが、
「しかもマルクの音、外れてるんだけど」
「ええ~っ?」
マルクが顔を赤くして、ラードが噴き出しながら緑ローブの肩を強く叩く。
セルフィーネも、ふふと笑った。
「それで? 何でセルフィーネは歌を習ってるの?」
ハルミアンが興味あり気にセルフィーネの方を向く。
「昨日、心配を掛けた罰だそうだ。歌なんて知らないと言ったら、教えてやると言われた」
「覚えも早いし、歌も上手い。もっと早く教えれば良かったな」
カウティスが満足そうに頷く横で、照れたように魔力が揺れる。
「セルフィーネは精霊なんだから、当然でしょ」
ハルミアンが笑いながら、机の上の魔術具の水筒を手に取る。
昼食時に持って来たものであったのだろう。
カップに注げば、まだ湯気の立つ熱い茶が入っていた。
「……そうなのか?」
ふぅと湯気を吹くハルミアンを見ながら、カウティスは尋ねる。
「そりゃあ、精霊の使役は、命令を素早く丸覚えだもの。歌だって教えた通りに……」
「ハルミアン」
マルクが横から止めると、ハルミアンはハッとする。
何か言いた気なカウティスを横目に、バツが悪そうにセルフィーネを見た。
「……ごめん」
「その通りなのに、なぜ謝る? 確かに、覚えるのは得意だ」
そう言ってセルフィーネは、事も無げに、今教えられたばかりの歌を歌ってみせる。
どの国でも子供の頃に教わる、五つの季節の歌だ。
しかし、火の季節のところで音が外れた。
カウティスが首を
「……セルフィーネ、ちょっと違ったかも」
「マルクが歌った通りに歌ったぞ」
「わ、私はお手本にしないで下さいっ!」
マルクが真っ赤になって、ラードにいじられているのを笑ってから、ハルミアンが小声でセルフィーネに言った。
「『昨日、心配を掛けた』のって、魔力が弱まった件でしょ? 何かあった?」
「……少し、消耗した」
「とにかくさ、まず魔力を回復しなくちゃ。消耗する様なことしちゃ駄目だよ?……僕達も、セルフィーネが実体を手に入れられるように手助けするから」
セルフィーネは微笑んだ。
「ありがとう、ハルミアン」
素直なセルフィーネの感謝に、ハルミアンの胸は、チクリと痛んだ。
夜になり、カウティスとセルフィーネは二人で部屋で過ごしていた。
日付が変わるまで後僅かになり、セルフィーネが口を開く。
「もう、行かなければ……」
カウティスは拳を握る。
先月のことを思えば、ザクバラ国へ送り出したくはなかった。
しかし、カウティスに引き止めることは出来ない。
三国間で決めた協約は、ザクバラ国ではそのまま生きている。
「五週五日は、兄上の誕生の宴に出なければならないから
カウティスはセルフィーネを抱きしめる。
セルフィーネは何も言わない。
「セルフィーネ、何か言ってくれ」
「………………行きたくない」
カウティスは息を呑む。
「ザクバラ国へ行きたくない……」
「セルフィーネ……」
月が中天に差し掛かり、セルフィーネはザクバラ国へと発った。
当たり前のように気持ちを圧し殺すセルフィーネが、自ら気持ちを吐露した。
それが切なく、行かなくても良いと言ってやれない自分が悔しい。
「月光神よ、一体何の為に、セルフィーネに神聖力を与えた……。進化の為ではないのか?」
カウティスは夜空に輝く月を睨み、皮手袋の右手を強く握った。
セルフィーネの回復を手助けするしか、自分に出来ることはないのだろうか。
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