ハルミアンは、拠点から少し離れた、疎らな木立の太い枝の上で、使い魔の鳥と同じ様に一人座っていた。

エンバーの側の使い魔を消して、視界を自分の下に戻す。

何度か瞬いてから、小さく息を吐いて幹に凭れ掛かった。



空に浮かぶ月は、中天に差し掛かる。


もう一度細い息を吐いた時、拠点から駆け上がる、セルフィーネの魔力が見えた。

約束通り、カウティスと別れてフルデルデ王国へ向かうのだ。

魔力は空に上がると、網目状に広がる魔力を揺らしながら、南へ駆けて行く。


あっという間に小さくなる魔力を見ながら、ハルミアンは今しがた使い魔を通してした、聖騎士エンバーとの会話を思い出す。 




「…………どうすれば、その証を示せる? 管理官は、水の精霊の神聖力を確認できなかったと聞いたよ」

臙脂色の鳥の固い問い掛けに、エンバーは軽く頷いた。


「通常、人が神聖力を得ると本国に神託が降り、召喚状が発令されます。しかしどういう訳か、極稀ごくまれに神託が降りないことがあります。その場合の聖職者認定は、管理官の確認か、自己申告です」

「自己申告?」

「ええ、そうです」

エンバーは、白い騎士服の左袖をまくり上げた。

剥き出しになった筋肉質な腕を曲げれば、肘下に青黒い痣のように、くっきりと太陽神の聖紋が浮き出ている。

「神聖力を授けられた者には、必ず身体のどこかに聖紋が刻まれます。それを見せるのです」


臙脂色の鳥は、黒曜のつぶらな瞳を瞬いた。

「……つまり、水の精霊の聖紋を探せということ?」

「そうですね。神託は降りず、管理官は確認出来ず、本人は神聖力を隠している。……ならば後は、聖紋の確認しかありません」

エンバーは捲くっていた袖を直して、感情の読み辛い瞳を鳥に向ける。

「年末に聞いた話では、確か水の精霊は進化の途中で、妖精界に半実体を持っていたとか。魔力が回復していけば、再びその身体を手に入れるはず。……だとすれば、最初に水の精霊に触れることが出来るのは、エルフである貴方ですよね?」



鳥はぷるると、長い尾を震わせる。

「聖紋があれば、どんな者も言い逃れできない」

エンバーは、冷たくも見える白茶の瞳を、ゆっくりと細めた。


「水の精霊の聖紋を暴き、聖職者である証を示して下さい」




ハルミアンは幹に頭を凭れたまま、セルフィーネの魔力が消えて行った南の空を眺めた。

川の方から風が吹いて、くすんだ金髪を揺らす。

「セルフィーネ、僕は……」

小さく呟いた声は、風に流されて夜の空気に溶けた。







セルフィーネが、フルデルデ王国のオルセールス神殿に戻ったのは、日付が変わって少し経った頃だった。



「おかえりなさい。カウティスには会えた?」

月光神殿の祭壇の間に入ると、祭壇の前に立っていたアナリナが、笑顔で声を掛けた。


「会えた。……もしかして、私を待っていてくれたのか?」

「仕事がいっぱいあって、終わらなかっただけよ。もう寝るところ」

アナリナは確かにまだ祭服を着たままだったが、きっと仕事をしながら待っていてくれたのだろうと、セルフィーネは思った。

「ありがとう、アナリナ」

セルフィーネが嬉しそうに言えば、アナリナは笑顔を返す。

「ふふ、明日もネイクーンに戻るんでしょ? 今夜は月が綺麗だし、しっかり回復しなさい」

「分かった、そうする」

セルフィーネはコクリと頷いた。




一人になった静かな祭壇の間で、セルフィーネは月光を浴びる。


祭壇の間は、月光が祭壇に集まるように造られていて、全身にじわりじわりと滲むように魔力が染み入る。

その心地良さに恍惚こうこつとして、月輪を背負った静謐せいひつな月光神の像を見上げた。


世界の全て、生命の全てを創った兄妹神。


セルフィーネは視線を下ろし、自分の両手を見詰める。

今朝触れた、柔らかな赤ん坊の身体を思い出し、あの生命もまた、神が創り上げたものなのかと感じ入る。


この手で清めた、あの熱い、生命の塊。

自分のような、曖昧あいまいな存在ではない。

ただ生きることだけに、全身全霊を掛けるエネルギー。

触れるから、生きろ、生きろと言われているようだった。



「……私も、あんな風になりたい……」


消え入りそうな声だった。

だが、それは、確かにセルフィーネの願いだ。


セルフィーネは想像する。

人間に比べて“想像する力”に乏しい精霊のセルフィーネにとって、何においても、新しいものを思い描くには、明確な手本が必要だった。

赤ん坊の誕生は、セルフィーネ自身が新しい自分実体を造るための、想像のかてになった。



世界を繋ぐものから、この世界に立つものとして変わりたい。

この世界に立って、生きてみたい。

あの、エネルギーの塊に、なりたい。


生きるのだ、と、ただそれだけを強く思い描いて、この世に産まれる生命に。



「……生きたい」



生まれ落ち、生きたい。

この世界で。

カウティスの側で、生きていける、生命になりたい。



セルフィーネの魔力の纏まりが、突如として輝きを増す。

その魔力に、青銀の光が散る。

祭壇の間の空気変わり、圧が強まった。


セルフィーネの胸の内から、ぶわりと白い光が湧き上がり、身体中を満たした。

その熱さに、あえぐように口を開く。

開いた口から、叫びのような声が漏れて、天地が分からなくなり、セルフィーネはその場に崩れ落ちた。

身体中が熱く、何も分からない。




ゴトンと重い音がして、ハッとした。

祭壇から落ちたからの銀の水盆が、床で揺れるのが見えた。


何故、重い水盆が突然落ちたのか……。


そう思ったセルフィーネの目に、祭壇の上に置かれた白い手が映る。

その手が水盆を落としてしまったのだと、ぼんやりと思った時、その手首に薄い飴色に輝くバングルが揺れていることに気付いた。


息を呑んで下を向けば、磨かれた板床の上に、白いドレスの裾を乱した膝がある。

目の前で、濃い青紫の細い髪が揺れた。

セルフィーネは震える手で、自分の腕や顔に触れる。

その痺れるような感触で、は自分の身体なのだと理解した。


「…………私の……身体……」


口にした瞬間、祭壇の間の扉が勢いよく開くと同時に、その姿は光を散らすようにして消えた。




「セルフィーネ!?」

扉を開けたのは、水色の法衣を着たアナリナだった。

祭壇に駆け寄って、うずくまるような魔力の纏まりに声を掛ける。

「今のは、セルフィーネなんでしょう!?」

「…………アナリナ……見たのか?」

セルフィーネは側の聖水瓶から声を出すが、思うように声が出ずに掠れる。

酷い消耗だった。

それでも、今、確かに実体に手が届いた。


「神降ろしかと思うような神聖力を感じて、急いで来たの。セルフィーネ、大丈夫なの?」

「消耗しただけだ……。でも、私の身体が……」

「しっ! 今は駄目」

扉を開けた向こうで、廊下を走って来るような複数人の足音が響く。

「さっきのは、さすがに神官達も気付くわ。今は黙っていて。また、朝に話しましょう。いいわね?」

素早く言ってアナリナが床の水盆を拾い上げた時、神官達が祭壇の間に入って来た。


セルフィーネは言われた通り、祭壇の間の上に移動して、朝まで静かに月光を浴びた。





光の季節後期月、四週四日。


フルブレスカ魔法皇国、王宮。

竜人の管轄区域の奥で、竜人ハドシュは水の精霊の契約魔法陣の前にいた。


そこに、一本の亀裂が入っている。


以前入った細い亀裂は、昨夜更に大きくなった。

陣の中央までは達していないが、更に伸びれば中央に達し、破綻するかもしれない。



今年に入って契約が更新されてから、水の精霊のあるじは、竜人族始祖の一人、第三首ヤシュトラからハドシュに移された。

つまり、気に入らなければ、始祖七人円卓様に確認を取るまでもなく、今すぐにでも契約を破棄出来るということだ。

始祖に従順で、遥か昔からの竜人の教えに沿うハドシュならば、躊躇ためらわずそれを行うと確信されていたからこそ、契約を任された。


ハドシュは亀裂を血の色の瞳で睨む。

世界を繋ぐ精霊が、進化をするなどあってはならない。

一つの例が出来てしまえば、世界中で精霊の進化が始まることになるだろう。

それは、竜人族の導く世界の秩序を乱す事になる。


今契約を破棄すれば、水の精霊は縛りを無くし、世界を支える水の精霊に取り込まれる。

そうすれば、精霊は精霊のままで、世界の秩序は守られる。



『 竜人族は既にこの大陸の主ではない 』


不意にシュガの言葉が甦り、ギチと牙を鳴らして首を振る。

そんなはずはない。

そんなことはあってはならない。


ハドシュは両手に魔力を流し始める。

手遅れになる前に、今ここで、契約を破棄し、水の精霊を物言わぬ精霊に戻すのだ。


しかしハドシュは、躊躇ためらっていた。

本当にあの美しい魔力を消して良いのか。

水の精霊の進化は、月光神が望んでいるものではないのか。




ハドシュは大きくなった亀裂を見詰める。


これはあの水の精霊が、今も尚、変化を望んでいる証だ。

三国に引き伸ばされ、消える寸前まで弱り切っても、元の精霊に戻ることを是とせず、“セルフィーネ”という、個であることを選んだ、その証。



彼は何時までも、その爪を動かすことが出来なかった。




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