純粋
光の季節後期月、四週三日。
午前の二の鐘が鳴る頃。
ネイクーン王国の西部国境地帯では、拠点の居住建物の中で、カウティスとハルミアンが揃って溜め息をついた。
「二人揃って、今日何度目の溜め息ですかね」
呆れたように言ったのはラードだ。
マルクは今日、魔術士の定例試験を受ける為に、拠点から一番近い街の魔術士ギルドに行っている。
マルクならば余裕で合格するのだろうが、これに合格しなければ、月末近くに行われる昇級試験を受ける資格を得られないので、気合十分で出掛けて行った。
それで、カウティス達の溜め息に突っ込みを入れるのは、ラードしかいなかった。
「……今日はもう、八日目だぞ」
独り言のように言って、カウティスが書類を
セルフィーネがフルデルデ王国へ行ってから、もう八日だ。
先月、十日を経たずに戻って来たから、今月は更に早く戻ってくるのではないかとカウティスは期待していた。
はっきりと約束したわけではない。
だが、ザクバラ国へ行く前に必ず戻ると言っていたから、ずっと待っているのだ。
「『子供ではないから、大人しく待っているくらい出来る』と、先月豪語していたのは誰でしたっけ?」
呆れ顔のラードが言えば、カウティスは口を
「……大人しくはしているだろう」
「まあ、そうですね」
確かに、溜め息をついてブツブツ言っているが、大人しく仕事をしている。
ラードは肩を竦めて、次にカウティスが目を通す書類を置きながら、向かいに座るハルミアンを見た。
「で? お前は何故、そんなに溜め息めばかりついているんだ?」
ハルミアンは、聖堂の図面を引き終えてから、堤防建造の視察にも一緒に行っている。
元々はそれが目的で西部に滞在しているのだから、不満はないはずなのだが、最近はずっとこの調子だった。
「……明らかにイスタークに避けられてるんだよね……」
ハルミアンは机の上に頬杖をついて、整った顔を両掌で揉む。
「聖堂建築の現場に、関わらせてくれるつもりはないみたい」
図面を描くことを許された時点で、もしかしたら、落成まで関わらせてくれるんじゃないかと思っていた。
描いている最中は、時々神殿に押し掛けても、嫌々ながらも相手にしてくれていたのに、今はとても素っ気ない。
「図面が手に入ったらお払い箱か」
ラードの言い様に、ハルミアンは頬杖を外して噛み付く。
「君は嫌な言い方するね! イスタークはそんな……」
言いかけて、しょんぼりする。
「……いや、本当にその通りかも」
勢いを失って机に突っ伏すハルミアンに、ラードの方が溜め息をつきたくなった。
突然、広間の空気が僅かに揺れた気がした。
「カウティス! カウティス!」
いつでも声が聞けるように机の上に置かれた水差しから、セルフィーネの何処か興奮したような声が聞こえた。
「セルフィーネ!?」
カウティスは弾かれたように立ち上がる。
すぐ側に朝露のような蒼い香りがして、セルフィーネが戻って来たのだと確信する。
嬉しくて、抱きしめようと腕を伸ばした。
「カウティス! 赤ん坊が産まれた!」
「…………は?」
「「え!?」」
セルフィーネが戻って来たと舞い上がりそうになったところで、脈絡のないその内容だ。
とても頭がついていかない。
側にいたラードとハルミアンも同様に、困惑の表情で顔を見合わせた。
「赤ん坊は女の子だ、カウティス」
続くセルフィーネの嬉しそうな声に、二人の疑惑の目がカウティスに向く。
「いやいやいや、私は関係ないからな! セルフィーネ、ちょっと落ち着け! 一体何の話だ!?」
伸ばしていた腕を下ろし、カウティスの方が
「フルデルデ王国の王太子が、今朝赤ん坊を産んだのだ。……そうだ、メイマナ王女に教えておかなければ。王城へ行く!」
「えっ!? ちょっと待って!」
カウティスは
「……王子、行っちゃったみたい」
一拍置いて、魔力を見れるハルミアンが微妙に笑った顔でカウティスに伝えた。
「はああっ!?」
嵐のように戻って来て一瞬で去って行ったセルフィーネに、衝撃を受けてカウティスは顔を歪ませる。
「セルフィーネッ!」
カウティスの叫びに、ラードが横で噴いた。
フルデルデ王国の宮殿では、女王が今朝産まれたばかりの孫娘を抱いて、目尻を下げていた。
産湯を使ってさっぱりした赤ん坊は、まだふやけてシワシワの顔を真っ赤にして、ふやふやと泣き始めた。
乳母に赤ん坊を預けて、寝台に横たわる
一つ息を吐くと、王太子の夫にも声を掛けてから女王は部屋を出た。
続き間に入ると、産湯を使った後を片付けている侍女達の向こうで、椅子に座って呆けている聖女アナリナを見つける。
「神の奇跡を呼ぶ聖女も、出産に立ち会うのは疲れたか?」
声を掛けられて、アナリナは我に返った。
「産後に呼ばれたことは、今まで何度もあったんです。でも、最初から立ち会ったのは初めてで……」
出産は命懸けだ。
命を落としかける母親や赤ん坊を助ける為、出産の兆候が見られると、産婆や薬師と共に聖職者を呼ぶ貴族は多い。
今回も、王太子の陣痛が始まった時点でお茶会は終了したが、聖職者を呼ぶならとアナリナが自ら残ることを提案した。
アナリナは、ほうと息を吐く。
「誰でも皆、こうやって産まれてくるんですね。……何だか、すごく母に会いたくなっちゃいました」
神聖力を与えられて聖職者になった者は、基本的に家族と離れ離れになる。
女王はアナリナを静かに見下ろす。
「……聖女の母君は?」
「ザクバラ国にいます」
「ザクバラ国か」
「はい。今も父と、露店で串焼きを焼いていると思いますよ」
アナリナは目を閉じる。
今は感動で胸がいっぱいだからだろうか、目を開けていれば、涙が溢れてきそうな気がした。
不意に柔らかな胸と、温かく逞しい腕に抱きしめられて、驚いてアナリナは目を開ける。
女王がアナリナを抱きしめていた。
大きな掌が、青銀の頭をワシワシと撫でる。
「母君の代わりに、今は私が抱いてやろう。アナリナ、そなたは良く頑張っているな」
側の侍女達と共に、アナリナは黒曜の瞳を真ん丸に見開いてから、ぷっと噴き出した。
「平民の親は、そんな喋り方しませんよ。それに、私の母は女王様みたいに逞しくありません」
「そうか?」
それでも、この温かさは似ているかもしれないと、アナリナは暫く抱きしめられたままでいた。
「それにしても、ネイクーンの水の精霊は、どうやらとても素直で、真面目だな。あの清浄な魔力が全てを表している。育った
ようやくアナリナを離し、深青色の大きなソファーに身を沈めて、女王が口を開く。
アナリナは乱れた青銀の髪を撫でつけながら頷いた。
「彼女はとても純粋です。あんな風に、いつも真っ直ぐなんです」
女友達でもあり、可愛い妹でもあるようで、アナリナは思わず微笑む。
セルフィーネは、昨夜ネイクーン王国へすぐに戻らなかった。
出産への只事ではない雰囲気に呑まれたのかもしれない。
ネイクーンに戻って良いのよと、アナリナに言われても、戸惑った様に魔力を震わせて留まっていた。
慌ただしい空間でも、夜の間、ずっと清浄な気が流れ込んでいたのは、きっとセルフィーネのせいだろう。
日の出の鐘が鳴る頃、無事赤ん坊が産まれると、留まっていた魔力の纏まりが一度青銀色の混じる輝きを見せた。
しかし、セルフィーネはアナリナのすぐ側にいたので、気付いた者がいたかどうかは分からない。
産湯を使う時には、王太子の願いで、セルフィーネが赤ん坊の身体を撫でるように洗った。
全てが落ち着いた後で、何処か高揚した様子でネイクーンへ戻って行った。
「そうだな。とても純粋だ。……だからこそ、危うい」
「危うい?」
不穏な言葉に、アナリナは笑顔を消して、目を瞬いた。
女王は褐色の指を立てて、トントンと頭を叩く。
「人間は
アナリナは強く眉根を寄せる。
人間の醜いところは、皮肉なことに聖女になってからの方が多く見てきたので、女王の言いたいことはよく分かった。
「水の精霊は素直で純粋だ。言い換えれば、人間の醜さに対しての抵抗力が低い。それ故に、騙されて利用されるかもしれぬ」
「利用……? 三国共有になってもなお、利用しようという者が……」
言い掛けて、アナリナは唇を噛んだ。
自分が属するオルセールス神聖王国だって、セルフィーネが回復すれば、その神聖力を欲する筈ではないか。
「それどころか、……扱い様によっては簡単に
思案する様な女王の声に、アナリナは息を呑む。
水の精霊の清らかな魔力を、一体誰が穢そうというのかと考えて、一つの可能性が浮かぶ。
「……ザクバラ国ですか?」
「懸念としては、そうだな。だが、ただの想像に過ぎない」
アナリナは、膝の上で両手をぎゅと握り締める。
「…………ザクバラ国では、平民でも子供の頃から、昔語りを使って“自国は素晴らしい国だ、愛すべきものだ”と教えられるんです。同時に、“ネイクーン王国は略奪者の国だ”とも」
アナリナの話に、女王はピクリと濃い眉を動かす。
「辺境の子供達は、そんなことを本気で受け取っていませんでしたが、当然のようにそれを受け入れて育った者達が、ネイクーンの水の精霊をどう思うのか」
アナリナは、窓から見える空を見上げて言う。
「……それを考えると、彼女がザクバラ国に入っている間がとても恐ろしいです」
ネイクーンに帰り着いたのか、水の精霊の魔力は、青空の中で輝きを増していた。
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