詛の兆し
「カウティスに近寄らないで!!」
セルフィーネが語気を荒らげ、叫んだ。
周りにいた者の殆どは、セルフィーネの声を聞いたことがなく、突然響いた女性の声に驚きを隠せない。
水球をぶつけられたリィドウォルも又、声は聞いたことがあったが、水の精霊に向けられた敵意とも言える感情に驚き、見開いていた目を
再び水球が数個飛んできて、リィドウォルを庇って立つ護衛騎士イルウェンを激しく打った。
リィドウォルより後ろにいた文官や魔術士も、飛び散る水飛沫に
「近寄らないで!」
「セルフィーネ、よせっ!」
切迫したセルフィーネの様子に、カウティスは静止の声を上げたが、彼女が何処にいるか分からず視線を
胸のガラス小瓶から声がするということは、すぐ近くにいるはずだが、魔術素質の無いカウティスには見えない。
僅かに蒼い香りがしたが、屋外のこの状況では居場所が特定出来なかった。
「カウティス王子! セルフィーネ様は目の前に!」
後ろからマルクが言って、ラードの前を指した。
カウティスと同じ様に魔術素質の無いイルウェンは、何処から飛んでくるか分からない水球からリィドウォルを守る為、僅かにも動けずに強く歯軋りした。
何処から飛んでくる?
「水の精霊……」
後ろに庇っているリィドウォルの声で、彼の視線が自分の目前にあることに気付いた。
直後に水球が顔面に当たり、叩かれたような衝撃にカッとなった。
「そこにいるのかっ!?」
反射的に片刃剣の柄を掴んで抜剣した。
それに反応して、ラードが舌打ちして腰のベルトの短剣を握る。
「やめろっ!!」
カウティスが声を張り上げた。
「愚か者っ! 休戦中にここで両国の者が剣を交えるつもりかっ!!」
ラードは弾かれたように、短剣の柄から手を離した。
イルウェンもリィドウォルに強く手首を掴まれて、我に返る。
セルフィーネも、カウティスの声にビクリとして、その場に棒立ちになった。
目の前でイルウェンが握る剣の剣身が、ギラリと光る。
その光に血を想像して竦み上がった。
後ろにいるリィドウォルが、真っ直ぐこちらを見ていて、
「セルフィーネ、こっちに来るんだ!」
カウティスが手を伸ばすのを見て、駆けるように近寄った。
そして、事態を大きくした事に気付き、セルフィーネは小さくなる。
「………………ごめんなさい」
胸のガラス小瓶から、とても小さな声が聞えて、カウティスは安堵の息を吐く。
カウティスの鼻先に、嗅ぎ慣れた蒼い香りがした。
見えないが、セルフィーネは落ち着いて側に来たようだ。
「一体どうしたのだ。何故降りて来た?」
セルフィーネは何も言わない。
ただ黙って、何かを確認するようにカウティスの瞳を覗き込んでいたのだが、カウティスには分からなかった。
「水の精霊は、私が殿下の御身に触れたので怒ったのでしょう。不敬な行いでした。殿下、お許しを」
片刃剣を鞘に収めたイルウェンを後ろにやって、リィドウォルが立礼して言った。
顔を上げて、黒眼を凝らして水の精霊の魔力を見る。
「……水の精霊よ、お前の大事な殿下に触れたことを謝る。許せ」
水の精霊の魔力の纏まりが、震えるように揺れてこちらを向いたのが分かった。
リィドウォルは、僅かに腕を引かれるように感じて、次の瞬間には濡れていた袖が完全に乾いていた。
同様に、後ろで驚いて息を呑んだイルウェンの身体も、すっかり乾いているようだった。
「セルフィーネ、これ以上騒ぎを大きくしたくない。拠点へ戻っていてくれ。……良いな?」
「……分かった」
カウティスの指示を受けて、セルフィーネは素直に頷いて
魔力が見える者は揃って上を向き、ザクバラ国の者達が、あれが水の精霊かと呟いているのが聞こえた。
「改めてお詫び申し上げます。お許し下さい、殿下」
つられて上を向いていたカウティスに、
「……先程、『そなたは何故』と仰った。あれはどういう意味ですか?」
掴まれた二の腕に手を当てて、カウティスが聞いた。
「……水の精霊が三国共有となった今も、殿下の周りには水の精霊の護りが残っていて驚いたのです」
リィドウォルの視線が、カウティスの頭から爪先までゆっくりと下りる。
その視線に、カウティスは思わず眉を寄せた。
不測の事態がありはしたが、その後は当たり障りの無い会話に終始した。
堤防建造の様子や、ザクバラ国からネイクーン側へ来ている職人の話を聞き、挨拶を交わして別れる。
カウティスは、橋を渡り対岸に戻って行くザクバラ国の一行を見送ってから、踵を返した。
他の視察は後日に回すことにして、急いで拠点へ戻る。
馬を駆りながら、リィドウォルの言ったことは本当だろうかと考える。
自分の身体を、今でも薄くセルフィーネの魔力が包んでいることは、マルクから聞いて知っていた。
三国共有になったあの瞬間から、極々薄くはなったらしいが、決して消えなかった魔力だ。
それがセルフィーネの自分に対する執着だと感じて、彼女が心配であると同時に嬉しくて堪らなかった。
たが、リィドウォルのような魔術士からすれば、それ程に驚くようなことだったのだろうか。
ザクバラ国側へ戻ったリィドウォルは、振り返って、去って行くカウティス達の小さな人影を目で追う。
年嵩の魔術士が、リィドウォルと同じように対岸を見て口を開いた。
「カウティス第二王子は、……ああ、今は王弟になったのでしたか。彼に対する水の精霊の執着は、本物ですね。まさかあのように過剰反応するとは、驚きです」
「そうだな。やはり今でも、水の精霊にとってカウティスは特別らしい……」
何かを考えているように、何処か上の空でリィドウォルが相槌を打った。
「それにしても、突然掴み掛かるとは、一体どうされたのですか」
視線をこちらに戻して、魔術士が問う。
リィドウォルが僅かに目を細め、他に聞こえないように声を落とした。
「……カウティスに、
「何ですと!?」
魔術士は周囲を
護衛騎士のイルウェン以外は距離が空いているのを確認してから、再び対岸を見た。
既に対岸には、カウティスの影はない。
「カウティス王弟に魔術素質は無いと聞いていましたが、どういう事ですか」
「分からぬ。魔術素質の無い者に、詛の影響が出た例はなかったはずだが……」
リィドウォルは自分の掌を見詰める。
橋の
その目を覗き込む前に払われてしまったが、あの黒く暗い気配は間違えようがない。
過去のザクバラ王族が、ザクバラ国に撒いてしまった
マレリィが国を出る前、もしかしたら王族の血を引いていようとも、ザクバラ国を出れば
この淀んだ気の下でこそ、詛が現れるのではないか。
ネイクーン王国という、水の精霊の魔力で覆われた場所であれば、マレリィが子を産み、ザクバラ国王族の血が混じっても、詛という悪しきものは受け継がれないのではないかと。
実際、カウティスが誕生した際、使者の一人としてネイクーン王国へ行った父は、カウティスは勿論、マレリィの第一子である6歳のフレイア王女にも会ったそうだが、詛の気配は感じなかったと言った。
フレイアは、高い魔術素質の持ち主だ。
ザクバラ国であれば、間違いなく詛の継承者であっただろう。
兄妹の内一人残った
それなのに、なぜ今になって魔術素質の無いカウティスが、ネイクーン王国に居ても尚、詛の兆しを見せるのか。
リィドウォルは、ゆっくりと拳を握り締めた。
拠点に戻ったカウティスは、その足で居住建物へ入った。
途端に蒼い香りを感じて、心配そうなセルフィーネの声が聞こえた。
「カウティス、大丈夫か? 苦しいようなことは?」
「苦しい? いや、何ともない。セルフィーネこそ、大丈夫なのか。何故あんな消耗するようなことを?」
おそらく目の前にいるのだろうと、カウティスは手を伸ばした。
「…………カウティスから、暗い気配を感じたから……」
「え?」
カウティスはギクリとした。
リィドウォルに対しての嫌悪から、黒いドロドロとしたものが内に湧き出た感覚はあったが、抑えたつもりだった。
そういえば、王城で暗い気配に呑まれそうになった時も、セルフィーネは気付いて突然現れた。
「……また、カウティスにあんな目をして欲しくない」
「心配させたのだな。すまない。……だが、大丈夫だ。そなたを悲しませるようなことはしない」
カウティスは、出来るだけ穏やかに言って微笑んで見せた。
カウティスの瞳を覗き込み、その青空色が曇っていないことを確認して、セルフィーネは安堵の息を吐く。
「リィドウォル卿が、カウティスに触れたせいだと思ったのだ。……勝手なことをして、皆を驚かせてしまった。すまない」
「大丈夫だ……」
大丈夫だと言いながら、カウティスはあの黒く暗いものが、リィドウォルに触られたからではなく、自分の心の内から湧き出たものだと分かっていた。
―――あれは、ただの憎しみの感情なのか。
『カウティス、そなたは何故……!』
右目の下の痣を引きつらせ、驚愕の表情でこちらを見たリィドウォルは、本当に身に纏うセルフィーネの魔力に驚いただけだったのだろうか。
カウティスは背に冷ややかなものを感じ、無意識にゴクリと唾を飲んだ。
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