嫌悪

上空うえに行く」

「え! どうして!?」


広間から自分の部屋に入った途端、セルフィーネがそう言うので、カウティスは思わず問うてしまった。

てっきり、今夜は側にいるだろうと思っていたからだ。


「月が出ている今なら、月光を浴びられるから。夜中には曇ると聞いたし……」

回復に意欲的になっているのだから、セルフィーネの言うことはもっともだ。

カウティスは鼻の頭を掻きながら頷いた。

「……そうだな、回復しなければいけないな。すまない、一緒にいたくて、つい……」

回復が優先なのに、当たり前に一緒にいると思っていた自分が恥ずかしい。


少し照れて言ったカウティスの鼻に、朝露のような蒼い香りが濃く流れ込んだ。

「……私だって、一緒にいたい……」

セルフィーネの小さな声が、胸の小瓶から聞こえて、息が詰まりそうになった。

カウティスはそっと腕を広げる。

「……それなら、もう少しだけでいいから、俺の側にいてくれないか」


少しと言ったって、一度抱きしめれば離したくなくなるのは分かっている。

それなのに、今は離れがたくて、ついそんなことを言ってしまう。



自分の姿を取り戻す為にも回復を急ぐべきだというのに、カウティスが広げた両腕はあまりにも魅力的な居場所で、セルフィーネはあらがうことが出来ずに近寄った。

その胸に添って上を向く。

短く切り揃えた黒髪のせいか、より精悍に見える顔立ちに、澄んだ青空色の瞳が優しい光を称えていて、胸を締め付けられる。


もう、何処へも行きたくなくなってしまった。



「……カウティスは、ずるい。そんな風に言われたら、上空うえになんて行けない……」

すぐ側に香りが近付いた気がして、カウティスはゆっくり腕を曲げた。

「……すまない」

そう言いながら、セルフィーネが側にいることが嬉しくて、カウティスの頬は緩んでしまうのだった。





翌日、光の季節後期月、一週五日。


広間で朝食を摂っていたカウティス達は、聖堂図面の件でハルミアンの報告を受けて、喜びの声を上げた。


「選考なしで決定とは、凄いじゃないか」

カウティスが笑顔で言った。

図面をイスタークが手放しで褒めるとは驚きだ。

「ただの建築バカじゃなかったんだな」

「君は僕に対して、本当に失礼だよね」

本気で驚いた顔をするラードに、ハルミアンは顔をしかめる。


「猊下に認めてもらえて、良かったね!」

寝食を惜しんで、ひたすら作業に没頭してきたハルミアンを知っているマルクは、自分の事のように嬉しそうだ。

「うん! 後は、完成までどうやって関わらせてもらうかだよね。どうにか現場監督させてもらえないかなぁ」

スプーンを口に運ぶハルミアンは、ウキウキとしている。



「ハルミアンが設計した聖堂が、これこら先、ずっとネイクーン王国に残っていくのだな」

セルフィーネの言葉に、ハルミアンが笑う。

「そうだけど、まだ気が早いよ、セルフィーネ。これから何年も掛けて建てていくんだから」

「どの位で建つもんなんだ?」

口の中のパンを飲み込んで、ラードが聞く。

「どのくらい魔術士を確保できるかによるんじゃないかな。オルセールス神聖王国がどれだけ派遣してくるのか見当もつかないけど、早ければ四、五年。遅ければ十年弱ってとこじゃないかな」


魔術は、人々の生活には欠かせないものだ。

実に様々なことに使われ、平民から貴族、王族まで、その恩恵にあずかって生きている。


建築に関しても、魔術は必須だ。

大型建物になる程、特に重要になる。

重い建築資材の運搬から、高所での組み立て、土台や資材の強度の増強など、魔術が使われる場面は多い。

勿論、人の手で行うことは可能だが、かかる時間の差は歴然としている。

聖堂建築に関しても、どれ程の人数の魔術士を現場に確保できるかで、完成までの時間は大きく変わってくるだろう。



「兄上が許可されたのだから、我が国からも魔術士を派遣することになるだろうな」

カウティスが皿の上でフォークを止めて考えると、胸のガラス小瓶から、セルフィーネの声がする。

「これでもう、この地で血が流れることはなくなるのだな」


カウティスはハッとした。

ベリウム川沿いの国境地帯で、精霊が狂いかける程に血が流され続けてきた事に、一番心を痛めていたのはセルフィーネかもしれない。


今は休戦して互いに復興に注力しているが、ザクバラ国との関係性は微妙な均衡を保っているままだ。

この地に二度と争いが起こらない保証ともいえる聖堂が建つことは、セルフィーネにとって相当意味があることなのかもしれない。


「ああ。聖堂の建築が開始されれば、きっと、二度と精霊達が苦しむことはなくなる」

カウティスの胸の辺りから、小さく安堵の息が聞こえた。




食事を終えたハルミアンが、盆を持って立ち上がる。

「じゃあ、僕は神殿に行くね」

「私達は堤防建造の現場に行くが、一緒に行かないのか?」

最近のハルミアンは、図面作成に没頭していたので、暫く現場を見に行っていない。

「う〜ん、そっちも気になるけど、昨日イスタークに、聖堂建築の現場に入ることの許可を貰えてないんだ。そこだけ約束を取り付けておかないと!」


図面を描いておしまいなんて、そんなつまらないことになったら大変だと、ハルミアンは気を引き締める。

聖堂建築など、長い寿命を持つエルフでも二度と関わる機会はないだろう。

落成までしっかり関わって、余すところなく記録したいくらいだった。


鼻息も荒いハルミアンを皆で笑いながら、カウティスも食事を終えた。

「セルフィーネは?」

「…………今度こそ、上空うえに行く」

何となく拗ねたような声に聞こえるのは、カウティスが昨夜、もう少し、もう少しと引き伸ばして、気が付けば月が雲に隠れてしまったからだろうか。


結局、セルフィーネは月光を浴びることが出来ずに、カウティスの側で朝まで過ごしたのだった。





カウティスは、ラードとマルクと共に、久し振りに堤防建造現場の視察に出た。


ネイクーン側の堤防は、ゆっくりと、しかし着実に南へ伸びている。

現場の雰囲気も良く、建造途中の堤防の合間から見える川面も、セルフィーネが西部にいるからか、普段よりも凪いでいるように感じる。

曇り気味な天気であっても、時折陽光を反射して輝く様は、とても美しかった。


職人や魔術士達と挨拶を交わし、作業状況や今後の予定の確認などをしていると、イサイ村に常駐している兵士が馬を駆けて来た。



「カウティス殿下がいらっしゃっていると聞いて、急いでお知らせに……」

馬を降りた兵士がラードに話している声が聞こえ、カウティスは何かあったのだろうかと振り向いた。


ラードがカウティスの下に戻って、固い表情で口を開く。

「橋向こうに、リィドウォル卿が来ているそうです」

「リィドウォル卿が? 何故だ?」

カウティスは無意識に構える。

ザクバラ国の復興支援の代表は、政変後に別の貴族が就いていたはずだ。


「中央からの視察だそうです。工程について、作業代表者の話を聞きたいと申し出があったそうで、イサイ村に駐在中の職人頭が話しているそうです。王子が現場に来ていると知って、村長が知らせてくれました。……どうしますか?」

ラードがうかがうように言った。

「……会いに行こう。マルク、セルフィーネは?」

上空うえで、大気に溶けておられるようです」


カウティスは雲の多い空を見上げる。

大気に溶けている状態が精霊としてあるべき姿なら、リィドウォルに注目される心配はないだろうか。

三国共有の今、セルフィーネを隠すことに意味はないのかもしれない。

それでもカウティスの心情として、セルフィーネとリィドウォルを近付けたくなかった。






「お久しぶりです、カウティス王弟殿下」

橋の袂で立礼したリィドウォルは、宰相に就いた今も、黒い文官服に旅装のローブといった格好だった。

緩くクセのある髪も、以前と同様に無造作に後ろに纏めている。


「兄君の新王即位を、お慶び申し上げます。まさか、王弟となられた今もこちらにいらっしゃるとは思いませんでした」

薄い笑みを浮かべているリィドウォルの後ろで、目付きの悪い護衛騎士は、相変わらずカウティスに敵意の混じる視線を向けている。


「……王弟になろうとも、私が王たる御方の臣であることに変わりはありません。今私がやるべき事は、この地の復興を進める事ですから」

カウティスが淡々と述べる。


三国共有となって、ザクバラ国に思うところがあるはずなのに、表面上ではあっても態度を崩さないカウティスを、リィドウォルは静かに眺めた。

そして、どんな時でも王の臣下であることに誇りを持っている甥に、知らず知らずの内に共感を覚えた。


リィドウォルの瞳の色が僅かに緩む。

「……その姿勢には、感服致します、殿下」



その、どこか優しさを含むリィドウォルの声音は、逆にカウティスの内の不快感を増した。


三国共有のきっかけを作った竜人の来襲の際、丁度この橋の向こうから、熱の籠もった黒い瞳をギラつかせ、食い入るようにこちらを見ていたリィドウォルを思い出す。

母の記憶を操作したのも、兄に毒を盛ったのも、全てこの伯父のせいかもしれない……。



じわりと、不快感が憎しみに変わる。


熱く黒いものが内から湧き出てくるのが分かったが、呑まれてはいけないと咄嗟とっさに拳を握った。

無理矢理にでも気を反らそうと、口を開く。


「卿こそ、宰相に就任したと聞きました。今は多忙な時期でしょうに、辺境まで視察とは……、っ!?」

唐突に、リィドウォルがカウティスの二の腕を掴んだ。

反射的にカウティスがその手を振り払う。

ラードと、リィドウォルの護衛騎士イルウェンが、滑るように二人の間に割り込んだ。


「何をする!?」

掴まれた腕を庇うようにしてカウティスが睨むと、リィドウォルは前に出た護衛騎士を押し退けてカウティスに近寄ろうとした。


「カウティス、そなたは何故……!」

右目の下の痣を引きつらせ、驚愕の表情でカウティスに伸ばそうとしたリィドウォルの手を、何処からか飛んできた水球が叩き落した。



「カウティスに近寄らないで!!」



カウティスの胸の小瓶から、セルフィーネの声が響いた。




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