側に

光の季節前期月、四週四日。


ザクバラ国の王城では、国旗と巨大な弔旗の垂れた屋上に、リィドウォルが立って空を見上げていた。

今年に入ってからの、彼の日課のようなものだ。



年が明けてザクバラ国の上空にも伸びた水の精霊の魔力は、最初こそいびつまだらだったが、日に日に均整を増し、網目状に広がっている。

三週に入り、協約通りフルデルデ王国に水の精霊が移動してからは、魔力の回復が上手くいっているようだった。

色味が薄く、晴れた日には青空に溶け込むようだった魔力は、今では空の色とは違う水色をはっきりと見せるようになってきている。

予想していたよりも、ずっと早い回復だ。


だが、まだまだネイクーン王国を覆っていた時のような、美しい層には程遠い。

見上げるこの空が、あの水色と薄紫が揺蕩たゆたうような空になった時、ザクバラ国は生まれ変わるのだ。




見上げていたリィドウォルの頬に、ポツリと小さな雨粒が落ちた。

昼過ぎには雨になると予想されていたが、それよりも早く降り出したようだ。

戻ろうと踵を返すと、少し離れて立っていた護衛騎士のイルウェンが後に続く。


その時、階下へ続く階段から、薬師が駆け上がって来た。

「リィドウォル様! 陛下が!」

息の上がった薬師の言葉に、リィドウォルは黒いマントを翻して駆け出した。




石造りのザクバラ国王城の奥に、地面を這うように広がった王族の居住区がある。


紅の絨毯を引かれた廊下を、濃紫の長いドレスを引いて足早にやってきたのは、ザクバラ国の王太子に就いたばかりのタージュリヤ王女だ。

緩く巻いた黒髪を揺らして、最奥の王の居住区域に入ると、廊下の先で薬師達と話しているリィドウォルを見つけた。



「タージュリヤ殿下」

タージュリヤに気付いたリィドウォルが立礼し、薬師達が頭を下げる。

「陛下の意識が戻ったと聞きました。真ですか?」

ザクバラ国王は、二年間王の居住区域から出たことはなく、特にこの一年は殆ど寝台の上で、意識はなかった。

「はい。僅かではありましたが、側にいた侍従に話し掛けられました。今はまた昏睡状態に戻られましたが……」

「なんと……」

薬師長の言葉に、タージュリヤは口を手で押さえて眉を寄せた。


「それでも、この一年間を思えば、奇跡的な回復でございます」

リィドウォルが静かに言った。

リィドウォルはこの二年間、ザールインに一度も王に会わせては貰えなかったが、薬師や侍従に密かに命じて、王の状態を度々報告させていた。



王は十年近く前から、暴力的な言動で国政を大きく混乱させることが増えていた。

のろいの症状が重くなったのだ。

詛が身をむしばむほど、その人格は破壊されていく。

それは、過去の王族達の記録からも間違いないことだった。


当時の宰相ザールインと貴族院の三首は、王を少しずつ公の場から遠ざけ、療養中と発表する。

リィドウォル達数名の国王側近は反発したが、その誰もが血の契約に縛られていて、王の援護がなければ宰相達に強く抵抗することは出来なかった。


その内、王は殆ど寝たきりの状態になった。

それがザールインの陰謀から成されたことなのかは、分からない。

ザールインは今でも、地下牢で陰謀説を否定し続けているからだ。



「陛下にお会いします。呼び掛ければ、あるいはもう一度目を開けて下さるかもしれません」

王の居室へ続く大扉に向けて廊下を進もうとして、タージュリヤはリィドウォルを振り返る。


「……リィドウォル卿は、意識のある時に陛下にお会いしたのですか?」

「いえ。私はお会いするわけには参りません」

「……そうですか……」

目を伏せるリィドウォルに、タージュリヤは躊躇ためらいながらも、それ以上の言葉は掛けなかった。

彼女は濃紫のドレスを引いて廊下を進み、大扉を潜って中に消えた。


「……陛下が鎮静薬で深く眠られたら、呼んでくれ」

リィドウォルは薬師にそう言う。


僅かにも王の意識がある時に会ってはならない。

詛のせいで混濁する意識は、王の本質を濁らせる。

迂闊うかつに側に寄って命令を下されれば、それが王の本心とは違っていても受け入れなければならなくなる。



八年程前、側近達を遠ざけていた王の意図を察せず、ザールイン達を出し抜いて私的に王と会ったあの日。

正邪の区別が以前と変わってしまっていた王に、筆頭魔術士として国境地帯への出征を命じられた。


あのような命令を、二度と受けるわけにはいかない。

リィドウォルは苦い思いで奥歯を噛む。


血の契約に縛られている者は、直接命じられた事には、異論を口にすることすら難しい。

リィドウォルはその命令のまま、国境地帯の紛争に身を投じ、数年間中央に戻ることは出来なかった。


先の見えない紛争の日々。


その間に、多くの仲間や友が亡くなり、中央が腐敗していく様子を、すべもなく見ているだけだった。

そして、自分の身にも詛は生きているのだと感じて恐怖した。


その頃だった。

ネイクーン王国の領土に踏み込んで見た、あの美しい空。

水の精霊の清らかな魔力。

その空の下にいて、その空気を吸っているだけで、少しずつ浄化されていく気がした。


この空を、この魔力を、ザクバラ国に持って行くことが出来れば―――。


詛に侵された王を元に戻せるのではないか。

或いは、詛を受け継ぐザクバラ王族の血を、浄化できるのではないか……。

その思いだけで、今日まできた。

ネイクーン王国の水の精霊を手に入れるために奔走し、そして、ようやく水の精霊の魔力を、ザクバラに伸ばすことに成功した。



あの魔力が、美しい輝きでザクバラ国の空を覆う時、きっと我が国は変わることができるだろう。


リィドウォルは王の居室へと続く大扉を背に、歩き出す。





ネイクーン王国西部。


昼前から降り出した雨は、夕の鐘の前には本降りになった。


その頃、拠点の魔術士達が集う建物で、マルクは王城からの通信を受けていた。

「……えっ! 本当に!?」

マルクが声を上げたので、周りにいた魔術士達が振り返る。

何事かと声を掛けようとしたが、マルクは通信を終えてすぐに駆け出す。

バン! と扉を開けて、本降りの雨の中に飛び出すと、カウティス達と寝泊まりしている居住建物へ走った。


フルデルデ王国に滞在している水の精霊が、ネイクーンに戻ったという。

ネイクーンに戻るなら、必ずカウティスに会いに来るはずだ。


急いでカウティスに知らせようと走っている途中で、空に僅かな、しかし確かな魔力の纏まりを見て、マルクの顔に思わず笑みが溢れた。




「結構な雨になりましたね」

ラードが雨音を聞いて、窓から外を眺めて言った。

「そうだな。これでは今日の作業は中止だな」

カウティスもちらりと外を見て言う。


この辺りを通る街道は、北部からイサイ村を通り、堤防建造現場辺りまでは整備されているが、そこから先はまだ完全に整備されていない。

堤防建造中の場所より先の所へ土台の資材を運ぶ為にも、街道の整備も徐々に進めているので、今日はそこへ視察に向かう予定だった。

カウティスは地図を手に持ったまま、口を開く。

「視察は、来週に……」



「カウティス」



言葉を続けようとしていたカウティスが、弾かれたように、誰もいない空間を振り返った。


「…………セルフィーネ?」


今、確かに彼女の声で名を呼ばれたと思った。

会いたいと思いすぎて、幻聴が聞こえたのだろうか。

だが、ラードも驚いた様な顔をしてこちらを見ている。

視界の端に映る、小さな机の上の水差しの中で、僅かに水面が揺れた気がした。


「セルフィーネ?」


幻聴だとは諦められず、もう一度名を呼んだ。


「……いる」


カウティスは目を見張った。


「いる。ここに、……カウティスの前にいる。……信じてくれるか?」


セルフィーネは、水を介して震える声を出した。

その声はまだ不明瞭だ。

しかも目に見える姿はない。

それでも会いたくて戻って来た。


何の前触れもなしに戻って、カウティスは分かってくれるだろうか。



持っていた地図を落として、ぱっとカウティスが両腕を広げた。

「セルフィーネ! おいで!」

セルフィーネがその胸に飛び込むと、カウティスは見えない彼女を抱きしめた。

実体はなく、姿は見えないのに、一瞬空気が揺れた気がした。

朝露のような蒼い香りが、僅かに鼻孔をくすぐり、彼女の存在を教える。

「セルフィーネ……ああ、そなたなのだな……」


姿の見えない自分を、カウティスは何の躊躇いもなく抱きしめてくれた……。

セルフィーネの胸は熱くなった。

喉が詰まるようで、何も言葉が出ない。


「何か、何か言ってくれ、セルフィーネ」

乞うようなカウティスの切ない言葉に、セルフィーネは絞り出すようにして声を出す。


「………………会いたかった」

「……俺も……会いたかった」




扉を開けて、緑のローブを雨に濡らしたマルクが入って来た。

「…………!」

開きかけた口を、急いで閉じる。

そっとマルクの方へ避けて来たラードと目を合わせ、互いに笑った。


マルクの目には、喜びに輝く水の精霊の魔力と、確かにそれを抱きしめるカウティスが映っていた。







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