動き出す (2)

日の入りの鐘が鳴る前、西部の修繕中の神殿で、聖職者の控室に再び描きかけの図面を広げたハルミアンがいた。

司教の祭服で部屋に入って来たイスタークが、あからさまに嫌な顔をするので、ハルミアンは口を尖らせた。



「そんな顔しなくてもいいじゃないか。意見を聞きたい部分があるだけなんだから」

ここにいる理由を正当化するハルミアンを、イスタークは軽く一瞥いちべつする。

拠点向こうに居づらいだけではないのか? 大方、水の精霊を神殿に据えろという提案を王子の側近に止められて、折り合いが悪くなったのだろう」

「何で分かるの!?」

仰天するハルミアンを見ず、イスタークは軽く鼻を鳴らした。


そんなことだろうと思っていた。

昨日、堤防建造の現場でカウティス達と会った際、王子は敵意を見せずに落ち着いているのに、側近はその後ろで警戒の混じる視線を向けていたからだ。


「……正確に言えば、セルフィーネ自身に断られたんだけどね」

ハルミアンが、肩を落とす。

「……水の精霊が? 自分が消されようかという時に、ネイクーンに残る道を自ら捨てたのか?」

イスタークは太い眉を寄せる。


水盆の水をイスタークにかけた時とは、事情が違う。

神殿に据えられなければ、もう今そこに自らの消滅の危機が迫っていたのだ。


「そうだよ。それに、これ以上君と王子との間に確執を生みたくないって言ってさ」

「…………理解出来ないな……」

イスタークは呟いた。


神聖力を与えて聖職者とする神の意志に従わず、精霊が自分の存在を示そうとしたことに、驚愕する。

望んでもいないのに神聖力を与えられ、それでも、これが運命なのだとこの道を邁進してきたイスタークには、理解し難い事実だった。


そして、己の消滅よりも、残される王子を気遣うという、その“人格”と呼べるものに戸惑いを覚えた。




何やら考えに沈んでしまったイスタークを、ハルミアンは上目に見ていた。


暫くして、イスタークが口を開いた。

「魔力集結の場を作れば……、或いは、水の精霊の魔力を保つのに役立つかもしれない」

思わぬ言葉に、ハルミアンは口をパクパクと開け閉めする。

「……君の研究成果を、譲るの?」


イスタークがフォーラス王国の魔術士であった頃の研究は、建物の構造などによって、魔術具を使わずに自然から魔力を集める、魔力集結がテーマだった。


「昔の研究など全て焼き捨てたのだから、譲るも何もないな。ただ、エルフの頭には残っているのではないかと思っただけだ」

イスタークは視線を合わせないままだが、ハルミアンは頬を緩めた。

「覚えてる。全部、ちゃんと覚えてるよ。君と研究した事、君が記した事、全部」

「……他人の記憶にまでとやかく言うつもりはないね。ただ、二十年以上前の知恵が、今役に立つのか保証はないが……」

「今だって充分に役立つよ!」

食い込み気味に言って、深緑の瞳を輝かせて立ち上がるハルミアンに背を向け、イスタークは部屋を出る。



水の精霊が本当にまだ消えていないのなら、その存在がどうなるのか、神々は水の精霊をどうするのか―――。


イスタークの中に、今までとは違う興味が湧いた。





何処かで日の入りの鐘が聞こえて、セルフィーネは狭めていた視界を広げる。

今夜も冴え冴えと月が輝き、青白い光を降らせ始めた。


月光を浴びていると、意識が鮮明になり、視界を広げ易かった。



昼間の陽光の下では、出来る限り魔力の消耗を抑えるために、各国の水源地だけを見ていた。


水源を注意深く見守らなければならないのは、“火の国”と呼ばれるほど火の精霊の影響を受けている、ネイクーン王国だけだった。


フルデルデ王国は、領土の広さだけでいえば他の二国よりも大きいが、四大精霊の内では土の精霊の色が濃い。

肥沃ひよくな大地と豊富な水源を持ち、それらは年間を通して安定しているようだった。

何より土の精霊は、水の精霊と同じく、月光神の眷族だ。

フルデルデ王国に伸びたセルフィーネの魔力に、土の精霊が添う感覚もあり、心地良かった。


問題は、ザクバラ国だ。

水源自体は安定している。

火の季節には注意が必要だが、常に気を配らければ枯れてしまうというようなことはなさそうだ。


ただ、ザクバラ国は驚く程に気が淀んでいた。


それは、長い年月をかけて降り積もった、恨みや妬みの念なのかもしれない。

特に中央部は、何処か血にも似た恐ろしさを感じて、長く見れない。

精霊が狂っている訳ではないが、纏わりつくような不快な気配が、セルフィーネを常にジワジワと消耗させた。




清らかな月光がセルフィーネを包み、染みるような心地良さに浸る。


今はとにかく、毎夜月光を浴びて、魔力の回復と増大に努めなければならない。

三国の空に伸びた魔力は、とてもいびつなものだ。

あれが、ネイクーンの空を覆っていた時のような層になる程増大出来れば、魔力を纏め上げて半実体化の姿を造れる。


カウティスの目に映る姿を造り、言葉を交わすこと。


進化よりも、何よりも、まずセルフィーネの願いはそれだった。

長い長い年月を掛けて無意識に行ってきた魔力の増大を、今、強い意志を持ってセルフィーネは実行しようとしていた。




日の入りの鐘から二刻程経って、西部の拠点付近で、カウティスが川原に向かって歩いて来るのが見えた。

疎らな木立の間を抜け、川原に下りる。

後ろにはマルクが付いて来ている。


カウティスの手には、濃紺のマントが握られていた。

もしも姿を現すことが出来たら、マントを掛けて抱きしめてくれるつもりなのだろうか。

そう考えると、胸が疼いた。



後一刻経てば、日付けが変わり、前期月の三週目に入る。

セルフィーネは、フルデルデ王国へ移動しなければならない決まりだ。


昨夜は、何とかカウティスの頰に手を伸ばすことが出来たが、今夜はもう少し、もう少しだけ、触れられないだろうか。



「セルフィーネ」

カウティスが川面に向かって手を伸ばし、名を呼ぶ。

セルフィーネはその手を掴もうと、上空うえから精一杯手を伸ばした。


カウティスの手を僅かに握る。

それが精一杯だった。


それでも、側で顔を見た。

年が明けて髪を切ったようで、顔立ちがはっきりとして見えた。

青空色の瞳が、月光に輝くベリウム川の水面を映すのが見えて、セルフィーネの胸を突く。


カウティスを見て、感じることが出来て、とても嬉しいのに。

カウティスにも、私を感じて欲しいと思ってしまう。


私はここにいる。


そう主張しようにも、側に寄るまでマルクですら分からないのに、どうしたら分かってもらえるだろう。



ふと、カウティスの視線が、足元近くの水際に留まっていることに気付いた。

セルフィーネが水を跳ねさせるのを待っているのだ。

セルフィーネはカウティスへの想いを込めて、水を操った。




カウティスが伸ばした手に、セルフィーネが触れたとマルクは教えてくれた。


彼女は無事でいて、自分を見守っている。

そう確認は出来ても、まだ戻る気にはなれず、カウティスは水際を見詰めていた。



突然、足元からもやのようなものが立ち上った。

反射的に構えて、腰の長剣に手を伸ばしかける。

しかし、靄が目の前に集まるのを見て、目を見開いて構えを解いた。


靄は次第に濃く、人の形のように集まっていく。


それは、王城で見たような、はっきりと濃い霧の集まりではなかった。

出来損ないの泥人形のように、輪郭がぐずぐずと崩れては、また集まるのを繰り返す。

顔の部分は落ち窪んだ穴すらなく、のっぺりとしていて、鼻の部分が僅かに盛り上がっているだけだった。


目を見開いて立ち尽くすカウティスの前で、一度だけ口の位置が開くように動いた。


« カウティス »


「セルフィーネ!」

カウティスは迷わず踏み出し、その霧の人形ひとがたを抱きしめる。

カウティスの腕の中に入った途端、形を保てず、人形ひとがたは崩れてあっという間に霧散した。

それでもカウティスは、確かにセルフィーネを抱きしめたと思った。


腕の中には、もやも光も、何もない。

しかし広げた腕を見れば、抱きしめた証拠に、騎士服が僅かに湿っていた。


「セルフィーネ、来月は王城で待っている! 待っているからな!」


拳を握り締めて、カウティスは絞り出すように声を出した。

もう、水面は何の反応も見せなかった。




「カウティス王子」

暫くして、マルクが後ろ気遣うような声を掛けた。

「マルク、今のは……、あれはセルフィーネだったよな?」

「はい。確かにセルフィーネ様でした。……きっと、王子に姿を見せたかったのですね」

マルクは頷く。

お世辞にも美しいとは言えない人形ひとがただったが、水の精霊の切ない笑顔が重なって見えた気がした。




今夜からとうとう、セルフィーネはネイクーン王国を出る。


カウティスは強く握っていた右手を開く。

皮手袋を外せば、掌には痣のような聖紋の欠片がある。


……俺達は今も繋がっている。


小さな、それでも確かな証拠を握り締め、カウティスは歯を食いしばった。







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