ありのまま
風の季節後期月、六週四日。
六週一日に帰城した王と、セルフィーネは執務室で久しぶりに対面した。
「城に戻った途端に、そなたが倒れていると聞いて、肝を冷やしたのだぞ」
王が盛大に眉を寄せて言うと、セルフィーネは申し訳なさそうに下を向く。
「迷惑をかけた」
「迷惑ではなく、心配だ。もう大丈夫なのか」
以前は精霊に心配など無用だという態度だった王の、こちらを気遣う言葉を聞き、セルフィーネは小さく笑んで頷く。
頷くセルフィーネを見て、宰相セシウムも安堵の息を吐く。
「年明けまでにお目覚めにならなければ、協約はどうなるかと気を揉みましたが……」
「セシウム」
カウティスが険のある視線を向けると、セルフィーネが横から止めた。
申し訳ありません、とセシウムが頭を下げた。
「セルフィーネ、皇国で竜人と話したが……やはり魔法契約に手出しは出来なかった」
王が固い表情で口を開く。
側に立つエルノートも、悔しさの滲んだ表情で宙を睨んでいる。
皇帝の葬送の式典に参席する為、フルブレスカ魔法皇国に滞在していた間、王は何度も竜人との会談を申し出た。
しかし、親書で前もって知らされていた通り、何事の嘆願も受け入れられず、会談の申し出すら受け取っては貰えない。
それでも食い下がった王に、僅かな時間、私的な面談として対面した竜人シュガは、取り付く島もなく、契約更新は覆せなかった。
それどころか、『契約更新後は暫く口を出さないので、水の精霊を三国でどれだけ有効に使えるか、やってみるといい』というような事を言われ、腹立たしい気分で帰城する羽目になったのだった。
「契約更新が覆せないであろう事は、分かっていた。王よ、それでも骨を折ってくれたことを、とても感謝している。……大丈夫だ、協約は……」
『協約は守る』と言いかけて、セルフィーネは喉が詰まったように声が出せなくなった。
精霊は嘘はつけない。
このまま年が明ければ、どんなに
そうすれば、協約を守るつもりなのは嘘ではない。
しかし、『三国のものになりたくない』と、カウティスに向かって心からの声を上げたセルフィーネには、簡単に『協約は守る』と口にできなくなっていた。
一瞬喘いだようになったセルフィーネを、マント越しにカウティスが支えた。
「…………協約は、守らなければならない……分かっている……」
何とか絞り出した言葉は、自分に言い聞かせるものだった。
「今日の午後からは、カウティスも公務から外れて良い。……セルフィーネと共にいてやれ」
王の気遣いに、カウティスは素直に礼を言う。
セルフィーネは少し
「王よ、願いがある……」
水の精霊から願い事をされるなど、滅多にあることではない。
王達は顔を見合わせた。
昼の鐘が鳴ってすぐ、王城の魔術士館の窓枠に、臙脂色の鳥が止まっていた。
鳥がぷるると長い尾を震わせる。
ハルミアンの使い魔に向き合っているのは、緑のローブを纏ったマルクだ。
「腕の
「そうか、良かった……」
セルフィーネがようやく目覚めた事を聞き、鳥の黒い嘴から、ハルミアンのホッとした声が吐かれた。
「それから、水の精霊様が、ご自分から実体を望まれたって」
「本当に!?」
鳥のつぶらな瞳がひと回り大きくなった。
「だから、水の精霊様の事は王子に任せておけば良かったんだよ」
昼食をここに持って来ているラードが、フォークで鳥を突付く真似をする。
「何でラードがここにいるんだよ。王子に付いてなくていいの!?」
羽根をバタバタさせて抵抗しながら、ハルミアンが言うと、ラードはヒョイと肉を口に放る。
「公務も終えて、水の精霊様とべったりなのさ。……二人の時間を邪魔するのも悪いだろ」
二人でいられる時間は、もう今日と明日しかないのだ。
「……間に合うかな」
何がとは言わず、ハルミアンが呟くように言う。
「分からない。でも、お二人共笑っておられたよ」
「こんなに切羽詰まってるのに!?」
明日中に進化しなければ、嫌でも三国共有のものになってしまう。
「焦ったって、どうすれば進化するかなんて誰にも分からないんだ。だから、一緒にいられる時間に大事に向き合ってるのさ。……余計な事をして時間を削った奴がいるからな!」
再びフォークで指され、ハルミアンは羽根を毛羽立てた。
「だから! そんなつもりじゃなかったんだってば!」
まあまあ、と栗色の眉を下げて、マルクが二人の間に入った。
「それより、ハルミアンはいつ
「明日の昼前には
ハルミアンの使い魔が光を散らして消えた後、ラードが最後の一口を水で流し込む。
「まったく、あいつは掻き回してくれるよ」
空になったカップを置いて、溜め息交じりに言うラードに、マルクが苦笑する。
「でも、今回の事があったおかげで、水の精霊様も心の内を吐き出せたのかもしれません」
『嫌だ』『行きたくない』と、口に出したと聞いた。
王子を困らせたくないと言い続けていた水の精霊が、その気持ちを表に出せたのは大きな変化のような気がした。
話していた二人の耳に、部屋の外からざわめきが聞こえた。
「何でしょう?」
何事かと扉を開けて廊下を覗いた二人は、驚きに目を見張った。
外に続く大扉を入って、真っ直ぐ奥へ続く白い廊下を、魔術師長ミルガンが歩いて来ていた。
その後ろを、カウティスと水の精霊が歩いている。
彼女は偽物の霧の姿ではなく、実際の姿を隠すことなく見せていて、白いドレスの裾から、陶器のような足を出して歩いていた。
滑らかな腕や胸元には、一歩進むごとに、薄紫の滲む水色の髪がさらさらと流れ、輝く紫水晶の瞳は、興味深く魔術士館の中を眺めている。
廊下の両側に続く各部屋の扉や窓から、驚愕と感動にざわめきながらも、動けない魔術士達が、王子と水の精霊を見ていた。
セルフィーネは、廊下に顔を出したラードとマルクに気付いて、微笑んだ。
「ラード、マルク」
「水の精霊様」
二人は姿勢を正して、立礼する。
「無事にお目覚めになって、安心しました」
「迷惑をかけた」
マルクと彼女のやり取りを見て、やはり本当に水の精霊なのだと理解した魔術士達が、その場で次々に立礼した。
「王子、水の精霊様はお姿を見せていいんですか?」
ラードがカウティスに寄って聞く。
「父上の許可は取ってある。……セルフィーネが望んだのだ」
セルフィーネは残り二日を、誤魔化すことなく、ありのままの姿を現していたいと望んだ。
王は
「魔術士館の皆に、水の精霊様が仰りたいことがあるそうだ。皆、聞きなさい」
一番広い演習室に入り、扉を開放して、入り口や廊下側の窓に群がる魔術士達に向かって、ミルガンが言った。
しんと静まった場で、セルフィーネに視線が集まる。
セルフィーネがカウティスを見上げると、彼は頷いた。
「……魔術士の皆には、とても感謝している」
セルフィーネが、涼やかな声で言った。
「私を助けようと、昼夜を問わず努力を続けてくれていることを知っている。……ありがとう。王城とは別の場所にいる魔術士達にも、どうか伝えて欲しい」
魔術士達は感極まっている者も多い。
セルフィーネは一度皆を見回した。
「……年が明けて、私が三国共有のものになったら……、どうか、私を支えようと考えるのではなく、ネイクーン王国を守るために力を使って欲しい」
カウティスが弾かれたようにセルフィーネを見た。
「どうか皆が、この国を守って。私はそれを、必ず見守っていくから」
魔術師長室に入って、カウティスはセルフィーネの手を取る。
「セルフィーネ、どうしてあんなことを? 皆、これからもそなたを支えるつもりで……」
セルフィーネは首を振った。
「前から思っていた。ネイクーン王国の魔術士は、ネイクーン王国の為にある。もし、私が三国共有のものになるのなら、私の為に力を使っていてはいけない」
「しかし……!」
カウティスが眉を寄せるので、セルフィーネは彼の眉間に指を添わせる。
「そんな顔をしないで欲しい。不思議だが、『嫌だ』と、『行きたくない』と口にしたら、とても落ち着いたのだ。自分の気持ちを正直に口に出すことが、こんなにも自由になれることだと知らなかった」
セルフィーネはふわりと微笑む。
「今は、例え三国のものになったとしても、このままの私でいられるような気さえする」
そんなことは有り得ないと分かっているミルガンとマルクは、密かに歯を食いしばる。
「笑って、カウティス」
「…………分かった」
微笑んでいるセルフィーネの手を握り、カウティスも小さく笑んだ。
カウティスは、昼食に続いて夕食も大広間では摂らず、自室に用意してもらった。
給仕も下げ、侍女のユリナに全て任せる。
昼食時にセルフィーネの姿を初めて見たユリナは恐縮したが、直接挨拶出来ることを光栄だと喜び、後はただ黙って穏やかに仕事をした。
今も、昼と同じ様に最初に挨拶だけして、後は黙って控えていた。
セルフィーネは、用意された夕食を、神妙な顔をして見つめている。
「無理に試さなくても良いのだぞ」
カウティスがセルフィーネを覗き込む。
進化に必要なのは、五感ではないかと予想されているからか、セルフィーネは昼食時にも、何か口に入れてみたいと言った。
しかし、どんなものが食べたいか自分でも想像ができず、まずは液体が良いだろうとスープを口に含んでみた。
温かいというのは分かったが、何の味も感じなかった。
しかも、初めて口に物を含んだ感触に驚いて、吐き出してしまったのだった。
「…………試してみたい」
勝負に挑むかのような面持ちになったセルフィーネを前にして、カウティスは思わず笑いそうになる。
「今、笑ったか?」
「いや。……それで、何を試す?」
軽く淡紅色の唇を尖らせた彼女を抱き寄せ、カウティスはテーブルに並べられた食事を指した。
「……カウティスが好きな物は?」
「この中なら、これかな」
カウティスが指したのは、鶏肉のソテーだ。
カリカリに焼かれた皮と、甘辛いソースが好みだが、スープを吐き出したセルフィーネには難易度が高そうだ。
「味を知りたいなら、ソースを舐めてみるだけでも良いのではないか?」
無難な線で提案してみたが、セルフィーネはふるふると首を振った。
「カウティスが好きな物を食べてみたい」
そんなことを言われれば、止めておけとは言えず、カウティスがナイフで切り分けた爪の先程の肉を、セルフィーネは口に入れてみた。
しかし、どうしても
見たこともない反応に、カウティスはやっぱり笑ってしまい、ユリナが充てがったナプキンに吐き出したセルフィーネに睨まれた。
「笑うなんて、ひどい」
「すまない。可愛くて」
涙目で口を押さえているセルフィーネを、カウティスは思わず抱きしめる。
残り少ない時間は過ぎていくのに、こうしていることが、とても幸せに感じた。
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