心から

セルフィーネは薄闇の中、一人たたずんでいた。

空には星一つも、月の影すら見えない。

まるで世界にたった一人、取り残されてしまった気分だった。


ふと、自分の腕を見ておののく。

白いはずの皮膚は、所々が赤黒い泥のように崩れている。

セルフィーネは薄い唇を噛んだ。




契約更新を受け入れて、精霊としては当然のことなのだと、自分の中で折り合いをつけてきた。

カウティスの側にいられる、残り少ない時間を大切にして、潔くを迎えようとしていた。


それを揺さぶられ、セルフィーネの心は激しく乱された。



何度も進化を望めと言われて、苦しかった。

確かに自分も、カウティスの側にいたいという願いが、進化をすれば叶うのかもしれないと思った。


でも、進化それはどうすれば叶うのか、誰にも分からない。

誰も分からないものを、どう叶えろというのか。



進化への期待と、過ぎてゆく時間の焦りが、セルフィーネを追い立てる。

心が波立って、抑えていた思いが頭をもたげる。

言いたくても言えない願いが、内から痛みを増して、セルフィーネを苦しめた。

苦しくて、ぎゅっと目を閉じる。


ネイクーン王国にいたい。

何処にも行きたくない。

カウティスの側に、ずっとずっといたい。

行きたくない。

嫌だ。

苦しい。

とても苦しい……。

赤黒いもやがセルフィーネの中で生まれる。



――――カウティス、助けて。



「大丈夫。ここにいる」


カウティスの声が聞こえて、セルフィーネは目を開ける。

目の前に、藍色のマントを着けたカウティスが立っていた。


セルフィーネはその胸に飛び込もうとして、躊躇ちゅうちょした。


この胸に飛び込めば、行きたくないと口に出してしまいそうだった。

一度口にしてしまえば、きっと我慢できなくなる。

自分が決めた事なのに、三国共有のものになるのは嫌だと、我儘な願いを言ってカウティスを困らせるだろう。


俯いて、我慢しなければと頭の中で繰り返す。



「我慢しなくて良い」

カウティスが一歩近付いた。


「願いを口にして良い。……以前、俺が言ったのを覚えているか? そなたが何かの為に、自分の望みを我慢しているのは嫌だ。ほんの小さな望みすら口に出来ない、そんなことは間違っている」

カウティスがもう一歩近付き、セルフィーネの頬に手を伸ばす。

両掌で包み込むようにして、顔を上げさせた。


「どんなことでも願って良いのだ」

「…………願っても叶わなかったら?」

「叶うことしか願ってはいけないのか? そうではないだろう」

セルフィーネは目を見張る。



「セルフィーネ、そなたの願いは何だ?」

カウティスの青空色の瞳は、曇りなく澄んでいて、セルフィーネの胸を突く。

彼女は震える唇で、心からの願いを吐き出した。

「…………ずっと、カウティスの側にいたい」



カウティスは両手を離し、服の内ポケットから小さな薄い箱を取り出した。

箱を開けて出てきたのは、セルフィーネの飴色のバングルだ。

竜人に踏み付けられ、バラバラに砕けたはずの大切なバングル。

カウティスはそれを、セルフィーネのまだらに赤黒く爛れている手首に、そっとはめた。


細い手首で、たのしげに揺れるバングルに、セルフィーネの気持ちも揺れる。


「その願いは叶うよ。だって、そなたは約束してくれた。例えどんな姿になっても、必ず俺の側にいると。俺はあの約束を信じている」

カウティスは優しく微笑む。

「……進化しなくても、実体が手に入らなくても、構わない……?」

「構わない。それは、勿論、実体があってそなたに触れられたなら嬉しい。でも、そうでなくても、そなたが側にいて笑ってくれたら俺は幸せだ。俺達は元々、そういう関係から始まったではないか」


触れるどころか、最初は笑顔さえなかった。

それが時折、微笑んで視線を交わせる事が出来るようになって、どれ程胸が弾んだか。


「もう我慢しなくて良い。願いがあるなら言って、そなたが思うようにして良い。助けがいるなら、助けて欲しいと言え。俺は、そなたの側にいる。今までも、これからも、ずっと一緒だ」


セルフィーネはカウティスの胸に飛び込む。

難なく抱きとめて、カウティスは彼女を腕の中に収めた。

カウティスの腕の中に収まると、セルフィーネの波立っていた心が凪いでいく。

気が付くと、泥のようだった腕のただれが、スウと消えていった。



セルフィーネは、カウティスの服を握り締めて、震える声で言う。

「カウティスの側に、ずっといたい……」


カウティスは腕に力を込める。

「俺もセルフィーネといたい。……だから、目を覚ましてくれ」

「目を……覚ます……?」

「そうだ。目を覚まして、俺の側にいてくれ。セルフィーネ………………」





セルフィーネが目を開けると、すぐ側にカウティスの顔があった。

寝台の上で横になり、藍色のマントに包まれて、カウティスに抱かれていた。


「……やっと目を開けたな」

「カウティス……、ここは……」

「王城の俺の部屋だ。そなたは拠点で目を閉じて、ずっと眠っていた」

カウティスはセルフィーネの右頬に掌を添えて、指で優しく撫でた。


見回してみれば、確かにここは見慣れた王城のカウティスの部屋で、拠点とは違う大きくて柔らかな寝台の上だった。

「……私はどれだけ眠っていた?」

「丸三日は眠っていた。今は六週四日の夜明け前だ」



五週五日の午後、ベリウム川は突如荒れたが、水位が上がることはなくすぐに収まり、それによる被害はなかった。

カウティス達は急いで拠点に戻ったが、拠点でも騒ぎが起きていた。

水場からは水が溢れ出し、多くの水差しが、突然破裂するように割れたらしい。

ガラス片で小さな傷を負った者はいたが、こちらも大きな被害はなかった。


ただ、魔力暴走を起こしたセルフィーネは、自ら目を閉じて倒れていた。

いつか見たような、狂った精霊の姿になりかけたようで、身体のあちこちが赤黒い泥のようになってただれていて、カウティスの胸は痛んだ。


いくら呼び掛けても目を覚まさず、翌日王城へ戻ることになっていたカウティスは、セルフィーネをマントに包み、抱いて馬に乗った。

普段は半日で戻るところを、一日掛けて帰城すると、セルフィーネを自室に連れて入り、公務以外はずっと側に付いていた。



「……迷惑をかけた……。すまない」

目を伏せるセルフィーネの額に、カウティスは口付けする。

「そう思うなら、もう我慢するな。……俺の声が聞こえたか?」

カウティスは、眠っていたセルフィーネに声を掛け続けていた。

コクリとセルフィーネは小さく頷く。


カウティスにもっと触れたくて、藍色のマントに包まれた身体を動かし、間から両手を出した。

その手首に僅かな重みを感じて、目を瞬く。



「これは……」


セルフィーネの左手首には、鈍く光る、飴色のバングルが揺れていた。

以前の物と大きさや色は同じだったが、意匠は違う。

穏やかな波の中に、小さなつがいの水鳥が浮かび、互いに羽繕いをしている。

波に揺れる葉や、水鳥の羽根が繊細に彫られていて、とても美しい。


「以前の物は修理に出してみたが、直すのは無理だったのだ。職人の一点物だったから、同じ物もなくてな。だから、似た物の中から俺が選んだ。……使ってくれるか?」




セルフィーネは、暫くバングルを見つめていた。


バングルを初めて着けた時の事を思い出した。

世界を支える精霊とは別のものになろうとしている自分を、はっきりと自覚した時を。


こうしてまた、人間の手で造られた美しいバングルは、この手に戻ってきた。

そして、立ち止まらずに進めと後押しするのだ。

お前はもう、昔のようには戻れない。

前へ進むしかないのだと。



セルフィーネの瞳が潤み、涙が零れ落ちる。


「セルフィーネ? やっぱり前の物でないと駄目だったか?」

少し焦ったように、カウティスが寝台に肘をついて上半身を起こした。

セルフィーネは白い両腕を伸ばし、カウティスの首に抱きついて言った。

「違う。嬉しい……」


藍色のマントをセルフィーネの肩に掛け直して、カウティスは彼女を抱きしめる。

同時に、セルフィーネが口を開いた。

「カウティス…………、私は、三国のものになんてなりたくない。嫌だ。ネイクーンから出たくない。何処にも行きたくない。カウティスの側にいたい」

「……うん」

耳の側で告白するセルフィーネを、カウティスは歯を食いしばり、強く抱く。


「行きたくない、嫌だ……いや」

涙を流して、セルフィーネは心からの願いを吐き出す。

もう止めることは出来なかった。

「…………欲しい」

カウティスの首に縋り付き、震えた声を絞り出した。




「実体が欲しい」

カウティスは息を呑んだ。

「…………私は、カウティスに触れられる身体が欲しい……」


――――月光神様、どうか。


セルフィーネはただ一心に進化を願った。



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