腕(かいな)

悪夢を見て起きたエルノートは、寝台の上で激しい吐き気に襲われ、嘔吐した。


まるで、再びあの時の毒を喰らったように、身体が鉛のように重く感じる。

大して食べ物が入っていなかった胃はすぐに空っぽになったが、下から突き上げるような不快感に、苦い胃液を吐き続けた。


そうしている内に、侍従や薬師が周りで世話をするのも、頭痛と耳鳴りでよく分からなくなった。

みぞおちと腹筋が悲鳴を上げ、胃液で焼かれた喉が痛む。

これ以上吐くのも苦しく、身体を折り曲げ、全身に力を込める。

震える両手でシーツをキツく握って、ただ濁流のような不快感が押し寄せるのを耐え続けた。




どれだけ時間が経っただろうか。


ようやく息がつけるようになった頃、ふと、背中を心地良い何かが撫でていることに気付いた。

以前のように、セルフィーネが助けようとしてくれているのだろうか。


ぼんやりとそう思ったエルノートの視界に、錆茶色の髪先が映った。


「メイ……マナ……?」

すぐ側に白い上掛けを着たメイマナが座り、自分の背を撫でている。

エルノートは薄青の瞳を見開いた。

咄嗟とっさに彼女の手を払って、身を引く。

「何故ここにいる!?」


エルノートがキツく握り締めていた為に、吐瀉物としゃぶつで汚れたシーツは、まだ取り替えられていない。

そんな所に彼女は座り、凛とした居住まいでエルノートを見つめていた。


「水の精霊様が、教えて下さいました」

メイマナは、侍従がエルノートの身体を拭くために用意していた布を受け取ると、寝台の上を膝で一歩進み、吐瀉物としゃぶつと汗で汚れたエルノートの顔を拭こうとする。

「よせ!」

エルノートに再び手を払われ、メイマナの手から布が落ちた。

「こんな情けない姿を……、貴女に見せるつもりは……っ」

喋ると抑えていた吐き気が込み上げ、エルノートは歯を食いしばり、息を詰めた。

羞恥しゅうちが襲い、顔も上げられない。



「……エルノート様は、婚約式の時に仰いましたね。『これからは、ずっと共に』と。それなのに、これから先、格好良いところだけを私に見せていくおつもりですか?」

メイマナは膝立ちして手を伸ばし、背けようとするエルノートの顔を、ふっくりとした両手で挟んだ。

尚も背けようとする彼の顔を、強引に自分の方へ向ける。

「私は嫌です。貴方の情けないところも、弱いところも、全て知りたい。どんな貴方を見ても、ずっと、ずっとお慕いしております」


エルノートを見下ろす、つぶらな錆茶色の瞳に、同情の色はない。

彼に向けられた愛情だけが、確かな光を灯し、輝いていた。


「お慕いしております。エルノート様」

メイマナは両腕を広げ、エルノートを抱きしめた。



メイマナの柔らかな胸と腕に抱かれ、エルノートは、いつだったかこのかいなに心惹かれたことを思い出した。


何と温かなかいなだろう。

その安らかさに、身体の中を覆い尽くしていた不快なものが、ゆっくりと流れ落ちていく。


振りほどくことも忘れ、ただその安らかさに放心し、気が付けば吐き気がすっかり消えてしまうまで、エルノートはメイマナの胸に身を預けていた。





エルノートの状態が落ち着いたのを見て、侍従が彼の汗と汚れを拭き清める。

着替えをし、整えられた寝台に戻る。

その間にメイマナも、隣室で汚れた上掛けを着替えた。



薬師が運んで来た薬湯を、メイマナが当たり前のように受け取り、エルノートの側に持って来た。

「……メイマナ、私はもう平気だ。……感謝している。だが、もう良い。部屋に戻ってくれ」

落ち着いてみれば、先程までの言動が今更のように恥ずかしくなって、エルノートはバツが悪そうな顔をした。

「お側におります。せめて、寝付かれるまで」

メイマナはそう言って薬湯を差し出す。


エルノートが黙って飲むのを見守った後、メイマナは寝台に腰を掛けた。

「……今夜はもう、眠れないだろうから、戻りなさい」

「それならば、朝までお話しましょう。大丈夫ですわ、襲ったり致しませんから」

予想外の言葉に虚をつかれ、エルノートは息を吐いた。

「それは、私が言うべき言葉だろうに」

エルノートの気配が緩んだことに、メイマナは安堵した。



メイマナは素足になり、寝台に上がると彼の隣に添う。

彼女の肩を抱き、窓から射し込む月明かりを見ながら、エルノートは暫く黙っていた。


「…………聖女の神降ろし奇跡で命を救われた日の夜も、こんな月夜だったな」

彼は小さく溜め息をついた。

「……耳に心地良い話ではないが、聞いてくれるか」

掠れた声で話し始めたエルノートの横顔を、メイマナは見上げ、頷いた。





エルノートが話す毒殺未遂事件は、セイジェと薬師長から聞いた話よりも、簡略で淡々としていた。

そうでなければ、口にできなかったのかもしれない。


「……皆が口を揃えて、私は何も悪くないと言う。『皇女が全て悪い、運が悪かった、終わったことだから忘れよ』と。だが、本当にそうだろうか。非はないのに、私はこんな苦しみを与えられたのだろうか」

分からない、と呟いてエルノートはみぞおち辺りを押さえた。

心配した侍従が寄るが、大丈夫だと手を振る。



「エルノート様にも、至らぬところがあったのでしょう」



メイマナのその言葉に、侍従達はぎょっとした。

まさか、王太子に非があると言う者がいると思わなかったからだ。


「貴女はそう思うのか」

エルノートが静かに問うと、メイマナはこくりと頷いた。

「はい。これは事故のようなものでなく、明らかに人為的に起こった事です。そこには必ず、きっかけや積み重なる何かがあったでしょう。エルノート様に言い分があるように、皇女にも、彼女なりの正義や言い分があったはず」


メイマナはエルノートの手を握る。

「勿論、毒を持ち出した皇女は間違っています。ですが、エルノート様と皇女が、一歩歩み寄る努力をしていたら、僅かに対話する努力をしていたなら、何か変わっていたかもしれません。きっと、相手が民であったなら、貴方はそうなさっていたのではないですか?」


その言葉は、エルノートの胸に刺さった。


フェリシア皇女とは、お互いをよく知る前に婚約者となり、彼女が皇国で長く婚約期間を過ごした事で、ネイクーン王国へ越して間もなく王太子妃となった。

最初から、国を支えるべき役割りに就いた彼女を同等の者と思い、庇護する対象として見ようとはしなかった。



エルノートは隣で彼を真摯に見上げる、メイマナを見る。

彼女は、皇女としての矜持を強く持ち、他が自分を支える事を当然としたフェリシアと違い、自らエルノートに歩み寄ろう、添おうとしてくれる。

だからこそ、この関係が出来た。


もしもメイマナも、フェリシアと似たような振る舞いをしていたら、自分は今のように心をさらけ出すことができただろうか。



『 エルノート、例え政略婚でも、添う相手と情を交わすことを、最初から諦めてはいけないのよ。民だけでなく、貴方に近しい人もちゃんと見るのよ 』


泉の庭園で、濃紺のドレスを揺らして弟を案じていた、姉フレイアを思い出し、エルノートは目を伏せた。



自分が、この苦しみのきっかけを作ったのだ。

初めて、そこに思い至った。




「……己の不徳が、己に返ってきたのだな。何とも不甲斐ない王太子だ……」

そう溢すエルノートの手を、メイマナはさらに力を込めて握った。

「それでも、新たな気付きを得て、さらに前へ進んでいけます。だって、私達は生きておりますもの」

目を開いたエルノートに、笑窪を刻んで微笑み掛けたメイマナが、再び柔らかなその腕で彼を抱きしめた。

ふっくりとした手で、柔らかく彼の背を撫でて言う。


「エルノート様、良く耐えてこられましたね。これできっと、悪夢はお終いでございますよ」


それは魔法の呪文のように、エルノートの心に染みていく。

は、と身体の奥底から、自然と息が漏れた。

何の不安も苦痛もない、温かなかいなの中で、そのまま彼は、落ちるように深い眠りについた。


―――そしてこの夜以降、エルノートの症状は目に見えて改善していく。






明け方近くなって自室に戻ったメイマナは、天蓋の中に入って、何もない空間に向けて口を開いた。


「水の精霊様、お礼申し上げます。おかげさまで、王太子様に添うことが叶いました」

メイマナの声に応えるように、どこからか青白い光の粉が降り、り合わさって水の精霊が現れた。

その両手は、カウティスの藍色のマントを、胸の前で大事そうに握っている。


メイマナは美しい所作で立礼する。

「まだ正式なネイクーン王族でない私に、お姿を見せて頂けることに感謝致します」

「王太子の為だ。……王太子は、もう大丈夫だろうか」

セルフィーネが心配そうに尋ねると、メイマナは微笑む。

「分かりません。しかし、心の内をお話しになったので、少し楽におなりでしょう。それに、これからも、私や皆が王太子様をお支えします」



セルフィーネはメイマナの微笑みを見つめたまま、薄い唇を僅かに震わせる。


「……カウティスのことも、皆が支えてくれるだろうか……」

メイマナは目を見張る。


「私がもし、姿を現せなくなったら……。どんなものになっても側にいると誓ったが、側にいても、声も聞こえなかったら……」

藍色のマントを掻き寄せる手が、震える。

「カウティスは、大丈夫だろうか。辛い時、誰かが支えてくれるだろうか。……私の代わりに……誰かが……カウティスを慰めて……」

メイマナは、セルフィーネをマントごと抱きしめる。



「……嫌だ……。カウティスの側にいたい……」


メイマナの柔らかなかいなの中で、セルフィーネの心の底から、涙と共に声が溢れた。



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